第六十三面 この手を止めることはできない
「やっぱり琉衣君疲れてるんじゃないかな」
眼鏡のブリッジを押さえて姫野が呟いた。
日曜日、ぼくの家に乗り込んできたのは姫野だった。昨日の琉衣と同じようにぼくを押し退けて姿見を眺め、小さく首を傾げた。あまりじろじろ見られても困るので近くにあったひざ掛けを上に載せて隠してみたけれど、姫野は怪訝そうにぼくを見るだけだった。逆効果だったかな。そして、ぼく達は今ミニテーブルを挟んで座っている。姫野の手には『台本』と書かれた冊子がある。
「やっぱりって、姫野心当たりでもあるの」
ぼくが訊ねると、姫野は冊子をテーブルに置いた。『学校祭台本』。
「来月の学校祭、うちのクラスはステージで劇をやることになったの。それで、琉衣君が主役なんだよね。台詞多いし練習もあるからってみんな心配してるんだけど、本人が立候補したから『やめろ』とは言えなくて」
「立候補したの」
「美千留ちゃんが見に来るからだってさ」
「単純な奴だよねえ琉衣は」
姫野は台本をぱらぱらと捲っている。小学生の頃の学芸会でも、琉衣は美千留ちゃんを理由に毎年のように主役をやろうとしてじゃんけんで敗北していたな、そういえば。ついに念願叶って主役か。それは張り切るに決まっているよね。無理はしないでほしいけれど。
ぼくと同じようなことを考えているのか、姫野の表情は硬い。それもそうだ、小学校から一緒のぼく達はあの事件を知っている。はしゃいでいる宮内琉衣を自由の身にしてはいけないとぼく達は知っているのだ。持ち前のポジティブさとマイペースさで、自らの体を気にするという一番大事な意識を上塗りしてしまっている琉衣は勝手に騒いで勝手に倒れることがある。事件は小学五年生の宿泊学習の時に起こった。一日目の夜、「今夜は眠らせない」と言った琉衣がクラスメイトに枕を投げ付け、激しく煽ったことで枕投げが勃発。消灯時間を過ぎていたので先生に「早く寝ろ」と怒られた。原因を作った本人は舞い上がる埃にダメージを受けて倒れ騒ぎを大きくし、二日目を療養で潰すことになったのだ。
台本を広げ、ぼくに見えるようにして置く。そして姫野は指でぐるぐるとある場所を指し示した。
「今日来たのは、有主君の監視の為だけじゃない。ここの台詞なんだけどね、有主君に頼めないかな」
「はい?」
直前の台詞を指差し、そこは自分の台詞なのだと姫野は言う。練習に付き合ってくれということだろうか。それなら喜んでお手伝いするよ。
そうしてぼくは姫野の練習に付き合うことになったのだった。
◇
月曜日になり両親からの外出禁止令が終了したので、ぼくは早速ワンダーランドへやって来た。どうやら未だにジェラルドさんは見付かっていないようだ。お茶を啜るルルーさんとナザリオに訊くと、アーサーさんとニールさんが探しに行っているらしい。キャシーさんは心配で心配でお菓子も喉を通らないのだという。
森の中は秋の装いで、木々の葉は赤や黄色に色づいている。しかし、日本の紅葉と比べるとあまりはっきりとした色の変化ではない。それでも色は鮮やかになっているから、この中から黒い馬を探すのがそれほど難しいことではないだろうとこの間から思っている。それなのに見付からないのだから、いよいよ街の方が怪しくなってくるな。
「アリス君はどうするの。僕達とお茶にする? それとも探す?」
「誰か一緒に来てくれるんですか」
「私が行くわ」
声のした方を見ると、ふわふわのフリルとレースの塊がやって来るところだった。
「森に住まう獣が行方不明なら、ここの領主たるブリッジの者が動くべきよね。行きましょうアリス君。昼間だから私達だけでも大丈夫でしょう」
そう言って公爵夫人はくすくすと笑った。
「どこかの兎さんみたいに道に迷うなんてことないから安心してちょうだい。日が暮れるまでに戻って来ましょ」
「夫人ってば性格悪いよお。ニールに嫌われても知らないよ!」
「あら、心配いらないわ。私は彼の飼い主だもの。ペットが飼い主を嫌うなんて、そんなことないわ」
「そうかなあ」
ルルーさんの眉間に皺がよる。ナザリオはカップを手にしたまま舟を漕いでいて、公爵夫人が来たことに気が付いてなさそうだ。
行きましょ、と言って公爵夫人はぼくの手を取る。ぼくはルルーさんに「それじゃあ」と言ってから猫と帽子屋の家を後にした。道すがら、公爵夫人は一昨々日の夜にあったことについて訊ねてきた。チェスに襲われた人間の死体を見たと伝えると優しく頭を撫でられた。そういうものは早く忘れた方がいいと公爵夫人は言う。けれど、あの光景はまるでカメラで撮影したようにぼくの頭に焼き付いて離れない。あの凄惨な場面と、傍らの少年。怖いし気持ち悪いし嫌だけれど、それよりも好奇心の方がまさっているのだと思う。スプラッタ小説のページを捲るような、恐怖と期待の入り混じるこの感覚。自分でもおかしいとは思う。でも、ページを捲ればそこに世界は広がっているはずだから、この手を止めることはできない。
前方を行く公爵夫人の銀髪が揺れる。今日は青を基調としたドレス姿で、水色のバラの飾りが付いたミニハットを頭に載せていた。そのため、赤いハートのブローチはいつもより目立っている。
「キャシーさんとジェラルドさん、喧嘩したとかじゃないんですよね」
「さあ、私は知らないわ」
「友達が妹と喧嘩したって落ち込んでたから、ちょっと気になって」
「どうかしらね」
「夫人はニールさんと喧嘩することあるんですか」
立ち止まった公爵夫人が振り向く。口紅の引かれた艶やかな唇がいたずらっぽく笑った。
「答えてあげてもいいけれど、アリス君にはまだ早いわ」
そう言われると余計気になるけれど詮索はしないでおこう。本の世界に入り浸っていると色々な場面に出くわしはするけれど、ぼくはまだ純粋なお子様でいたい。大人の世界は物語の中でスパイス的に登場するだけで充分だ。いくら読書好きを自称するぼくと雖も、おそらく『チャタレイ夫人の恋人』などはまだ読めないだろう。ちょっと怖い。
考え込んでいたのが表情に出ていたらしく、公爵夫人に「変な顔になってるわ」と言われた。眉間に人差し指を押し付けられる。
「あう」
「かわいい顔が台無しよ」
うふふ、と笑って公爵夫人は歩き出した。ぼくは後を追う。
ログハウスの横を過ぎて街の方へ進んでいくと、森の出口にキャシーさんが立っていた。数人のドミノから何やら報告を受け、わざとらしいくらいに肩を落としている。秋深まる今日も相変わらず露出の多い格好で正直目のやり場に困るけれど、寒くはないのだろうか。話し込んでいたドミノ達が立ち去る。キャシーさんは鬣のようにボリュームのある髪の先っちょをいじいじしながら街と森をきょろきょろ見ていた。そして、ぼく達に目を留める。
「夫人! と、アリス君。街の奥の方まで行ってくれるのよね。人間の二人にしか頼めないの」
「あら、ニールとアーサーはどこを探しているのかしら」
「街の外側の方よ」
そう言ってキャシーさんは右手で小さく円を描く。
「分かったわ。行きましょうアリス君」
「ちょっと待って下さい」
ぼくはキャシーさんの向かいに立つ。ちょっと驚いた様子のキャシーさんが小首を傾げると、鬣のような髪がわさわさ揺れた。気になるからといって、好奇心に任せて何でもかんでも訊ねるのは失礼なことであると分かっている。けれど、確認しておきたい。
「キャシーさん、ジェラルドさんと喧嘩でもしたんですか。こんなに連絡がないなんてさすがにおかしいんじゃないですか」
「喧嘩は、してないわ……。ちょっとぶつかっただけ」
それは喧嘩なのでは。
「白の……。ううん、何でもないわ。とにかくジェラルドを……」
その時、視界の隅っこを黒い何かが横切った。長身で長髪、長いポニーテールが揺れる。袖を通さずに肩に掛けただけのジャケットも黒くて、手には指のない手袋をしている。そして額には角。ひと目見たら忘れられないような格好をした人達の多いワンダーランドでも特に印象に残る姿をしているその人物は、間違いなくジェラルド・ラ・フォンテーヌその人である。ジェラルドさんは街の方へ進んでいく。
ぼくの視線に気が付いた公爵夫人がそちらを見て、それに気が付いたキャシーさんが振り向く。鬣がぶわわっと広がったように見えた。そして、腕が人のものから獣のものへと変わり、腕を振り上げながら土を抉る勢いで駆け出す。すると、ジェラルドさんの馬耳がぴくりと動いてこちらの動きを感じ取った。あちらはさすが馬というべきか、ものすごい速さで街の中へ消えていく。チーターではなくライオンのキャシーさんが追いつけるのかは分からないけれど、ぼくと公爵夫人が唖然としているうちにライオンとユニコーンの追いかけっこが街の中で開催されることになってしまったようだ。
残されたぼくと公爵夫人は顔を見合わせる。
「とりあえず私達も街へ行きましょうか。アリス君、ちゃんとスートは付けてるかしら」
ぼくはパーカーの首元に付けた黄色いダイヤを確認して頷く。もう姿の見えなくなっている二人を追ってぼく達は街に入った。




