第六十一面 見なければよかった
赤のナイトがいなくなった後、ぼく達は再び猫と帽子屋の家を目指して歩き始めた。やっぱりあてなんてないけれど、歩かなければどうにもならない。もう辺りは真っ暗で、よく見ていないと木にぶつかってしまいそうだ。
「んう、今何時なのかなあ。おれもう眠いや……」
「急がなきゃ急がなきゃ」
時間に追われているルルーさんは三月ウサギではなくて白ウサギのようだ。
「やばいよやばいよ」
雲が出てきたのか、月明かりがほとんどなくなってしまった。更に暗くなる。嫌だなあ、まだまだチェスが出て来そう。
そんなことを考えなければよかった、と直後に思った。
茂みが大きく揺れて人が出てきた。チェスは影を纏うけれど、現れたそれは自らも影であるかのように真っ黒だった。闇に溶けるような黒い甲冑を纏った者と、同じような武装で黒い馬に乗った者、そして、黒い法衣を纏った者。おそらく、黒のポーン、ナイト、ビショップだろう。チェス達はぼく達三人を順に見て、ぼくに狙いを定める。
動いたのはポーンだった。剣を抜き、こちらに迫ってくる。
「アリス君!」
ルルーさんに手を引かれ駆け出す。チェス達が「アリス……?」と呟いたのが聞こえた気がした。いきなり引っ張られたので、ぼくの手がナザリオから離れた。枕を抱えたナザリオが地面にへたり込んでしまう。ドミノだから襲われることはないと思うけれど、置いて行くわけにはいかない。戻ろう。でも、ルルーさんにどんどん引っ張られてしまう。
ナイトが馬上からナザリオを見下ろしている。大丈夫かな。
「あうぅ。もう! おれ、眠いんだってば! 寝かせてよぉ! 眠い眠い眠い眠い眠い眠い! ……うう」
いつも眠そうな目が大きく見開かれ、ぽかんと開いている口が三日月形に歪む。
「眠れない夜はテンション上がっちゃうよねぇ! わーいっ!」
大きく振りかぶり、ナイトが跨っている馬に枕を叩きつける。
「ナザリオ!?」
「あー。深夜テンション入っちゃったね」
ルルーさんが頭を掻きながら呆れた様子で言う。曰く、ナザリオは寝不足になると壊れるらしい。近付くことが躊躇われるくらいテンションが上がり、一通り暴れると眠りにつくそうだ。
枕を叩きつけられて馬がよろめく。ナイトを守ろうと前に出たビショップの杖は枕によって跳ね飛ばされた。まだ深夜とは言えない時間だけれど、確かに今のナザリオは深夜テンションと言えるだろう。高らかに笑いながら枕を振り回して黒のナイトとビショップを牽制している。ポーンはというと、ぼくとルルーさんが立ち止まっているので様子を窺っているようだ。
なんだこの獣のガキは。と言わんばかりに困った様子のナイトとビショップに追い打ちのように枕を叩きつけ、ナザリオがこちらへ駆けてきた。ルルーさんに手を引かれたのでぼくもその場を離れようとした。すると、待っていたポーンが動き出した。ナイトとビショップも少しずつ距離を詰めてくる。
いつも楽しげなルルーさんは険しい表情を浮かべ、いつも眠たそうなナザリオはものすごく元気そうな顔をしている。チェスに追われているだけでも大変なのに、二人がいつも通りではないから何だか変な感じもする。このまま走って行ったらどこに辿り着くのだろう。家に着かなくても街に出ることができれば一安心だけれど、間違えると森をぐるぐる回ることになる。もしそうなったらぼく達が逃げ延びることはできないだろう。
走っていると、前方に人影が見えた。人間だろうか、それともドミノ? もしかしたらチェスかもしれない。トランプだったら声を掛けてあげた方がいいんだろうか。ドミノなら助けを求めた方がいいんだろうか。
雲が切れ、月明かりが差し込む。
人影がこちらを見た。それは少年の形をしていた。整った顔立ちで、歳はナザリオやクラウスと同じくらいかな。獣耳や翼は見えないからトランプだろう。けれど、どうしてトランプの子供がこんな時間にこんな森の中にいるんだろう。月光を受けて煌めく白い髪の奥で青白く光る瞳が気だるげに揺れている。纏っているのは鈍く光る銀色のローブで、所々に赤い汚れが付いていた。
危ないよ、と言いかけたルルーさんが口を噤む。彼女の目は少年の足下を見ていた。つられてぼくもそちらを見る。
「ひっ」
反射的に声が漏れた。見なければよかった。
赤だ。まずそう思った。ルルーさんの「見ちゃダメ!」と言う声はもう遅い。ナザリオも小さく悲鳴を上げる。
少年の足下には人が倒れていた。いや、転がっていたと言った方がいいのかもしれない。それも、何人もだ。地面には赤い色が広がり、人々はその赤に浸されるように落ちている。傍らに立つ少年は悲しみも恐怖も浮かばない涼し気な顔でそれを見下ろし、もう一度ぼく達の方を向く。走っていたぼく達が丁度彼の目の前に来た時だった。目が合う。
ほんの一瞬だった。けれど、はっきり見えた。少年はぼくのことを見て微笑んだ。優しそうな笑みだったけれど、その奥には仄暗さも感じられた。
気が付いた時には黒い駒達の姿がなくなっていた。
「あの男の子、チェスかもしれない」
ルルーさんが呟く。
「トランプの死体が転がっていたし、別の色のチェスがいればトランプよりも優先して狙うみたいだから。黒いチェス達はあの子に狙いを変えたのかも」
「子供でしたよ」
「女のチェスがいるんだから子供のチェスだっているよ」
話を聞いているのかいないのか、いまだに深夜テンションのままのナザリオは何やら歌を口ずさんでいる。暗い森の中で歌を歌うなんて居場所を知らせるようなものだけれど、今のナザリオは止まらないだろう。
再びチェスが現れるかもしれないので、ぼくとルルーさんは周囲を警戒しつつ進む。ナザリオは歌いながらついてくる。
少し進んだところで茂みが大きく揺れたので、ぼくを後ろ手に守るようにしてルルーさんが身構えた。ナザリオは相変わらず歌いながらくるくる回っている。
「オマエらぁッ!」
草を掻き分けて姿を現したのは猫耳を生やした男だった。その手はまさに獣そのもので、鋭い爪がぎらりと光っている。闇夜に銀に近い水色の瞳が浮かぶ。
「うわっ!」
「うわってなんだ、うわって。失礼な」
ルルーさんが朗らかに笑う。彼女の後ろから様子を窺うように見てみると、それは見覚えのありすぎる笑い猫だった。
「ニー……」
ぼくの声を遮るように、ニールさんがルルーさんのうさ耳を掴んだ。「ひんっ」という声がルルーさんから漏れる。ナザリオは歌ったままだ。
「こんな時間までアリスのこと連れて森の中をうろうろうろうろッ!」
「ごめん! ごめんってニール! 痛いよお!」
「わーい! お迎えだー! いえーい!」
「ナザリオ、オマエの親にも心配かけるんだよ分かってるのか」
「あははははははははは」
テンションの高いナザリオはニールさんの尻尾にじゃれている。嫌がるように猫の尻尾が揺れる。ニールさんが迎えに来てくれたから、とりあえず一安心なのかな。
ニールさんに連れられ、ぼく達は猫と帽子屋の家へ向かう。ニールさんが言うには、コーカスレースが動いたことにより森中でジェラルドさん捜索が行われることになったのだという。けれど、今日だけではいくらなんでも探しきることはできない。明日明後日も探して、それでも帰ってこない、見付からない、という状況であれば街にまで繰り出す予定だそうだ。キャシーさんは心配過ぎて夜ご飯が二人前しか喉を通らないのだという。普段はどれだけ食べているんだろう。
チェスに出会ったことを伝えると、ニールさんは眉間に皺を寄せてルルーさんのうさ耳を握りしめた。ルルーさんが悲鳴を上げる。ナザリオはまだ歌っている。
「ジェラルドがいない時に限ってそんな……」
「キャシーさんとジェラルドさんって、そんなに頼りになる存在なんですか?」
「アイツらはそれを仕事にしているからな。それ相応に強いんだよ」
「へえ」
しばらく歩くと開けた所に出た。猫と帽子屋の家だ。家の前にアーサーさんが仁王立ちで待ち構えている。
「ルルー、これはどういうことですか」
ニールさんとそっくりな顔で睨みつけられ、ルルーさんが少し後退る。
「貴女が付いていながらこんな時間までアリス君を森の中でうろうろうろうろ……!」
「ごめんって! ごめんアーサー!」
うさ耳を揺らしながらルルーさんが頭をさげると、アーサーさんは表情を緩めて息を吐いた。
「貴女に怪我がなくてよかった」
「ええー! おれはー? ねえねえ! おれは?」
「ナザリオは先程ご両親が憤怒の形相で訪ねて来ましたよ」
「あう。帰りたくない」
電池の切れたおもちゃのロボットのように、ナザリオが枕を抱えて倒れ伏した。ハイテンションタイムは終了したらしい。
「馬鹿猫、このドブネズミを家まで送り届けてください」
「しゃあねえな。おい、ルルー。オマエも送ってくよ、こっち来い」
ルルーさんはぼくとアーサーさんに「おやすみ」と言ってから、ナザリオを背負ったニールさんの後を追い駆けて行った。家の前にはとてつもない威圧感を放つ微笑を浮かべた帽子屋とぼくが残される。アーサーさんはジャケットの内ポケットから懐中時計を出して時間を確認している。
「アリス君、お家の門限は何時ですか」
「七時です」
懐中時計をしまったアーサーさんが迫って来て、パーカーのフードから伸びる紐を引っ張る。そのまま引き摺られるようにして家の中に入り、アーサーさんの部屋へ向かう。ぼくは何かを言うこともできずに突き飛ばされ、姿見に放り込まれた。
◆
神山家の自室に転がり出る。窓の外はワンダーランドと同じく真っ暗だ。壁に掛けられた時計を確認すると、時刻は午後八時半。
ん?
時刻は午後八時半。
「やばい」
靴を脱ぎ、部屋を出て階段を下りる。玄関に着いたらわざとらしくドアの開閉音をさせて、靴を置く。
「た、ただい……」
「有主」
居間から母が出てきた。怒られるんだろうか。母の手は拳が握られ、わずかに震えている。怒ってる。手が振り上げられたのでぼくは反射的に目を瞑った。けれど、殴られるなんてことはなかった。抱きしめられる。
「こんな時間までどこに行っていたの。心配させて、悪い子ね」
「……ごめんなさい」
苦しさに耐えかねてぼくが音を上げるまで、母はぼくを抱きしめ続けた。




