第五面 ぼくには居場所がないんです
ぼくは一人っ子で、ずっと兄弟に憧れていた。
兄弟のいる人を見ると、いいなあって思う。辛いことがあっても、嬉しいことがあっても、きっと分け合えるんだろうなって。
美化しすぎかな。
それでも、ぼくは兄弟っていいなあって思うんだよね。
♥
お茶会の空気が張りつめる。
ニールさんが明らかに嫌そうな顔をしているのが分かった。ぼくは何か言ってはいけないことを言ってしまったのだろうか。
「アリス君」
ティーカップをソーサーに置き、アーサーさんがぼくを見る。優しそうな雰囲気が消し飛び、ニールさんそっくりの嫌悪感丸出しな顔になる。
なんて似ているんだろう。
「言っていいことと言ってはいけないことがあるの、知ってますよね」
生暖かい風がぼくの頬を撫でた。木の枝が揺れ、葉がざわざわと音を立てる。
銀色に近い水色が四つ、ぼくを見据えたまま動かない。
ここは逃げるための場所なのではなくて、ここから逃げなくてはいけないのかもしれない。自分の体が小さく震えているのが分かった。背筋がひんやりと凍るような感覚がして、ぼくは生唾を飲み込む。
「アリス君」
「は、はい」
「鏡、返して貰えます?」
重い空気が消え、場は和やかなお茶会に戻っていた。先程のあれは一体何だったのか。まるで気のせいか何かだったかのようにアーサーさんは優雅にお茶を飲んでいる。ニールさんも同じく静かにお茶を啜っていた。
平和な空気が満ち満ちている。なんて思えないくらい怖い。
あの一瞬、何が起こったというんだろう。言い表せない恐怖がぼくを襲ったのは確かで、それは二人が原因なんだと思う。けれど、今はもうすっかり元通りだ。
二人の関係がどうなのかというよりも、二人は何者なんだろうということの方が気になった。いや、ワンダーランドにぼくの常識や当たり前を押し付けてはいけないのかもしれない。この世界そのものが普通ではないはずなんだ。世界そのものが情緒不安定で、住んでいる人々もその表情をくるくる変える。
「鏡、返してください。昨日言ったでしょう。もう来るなと。手鏡、返してくれますか」
「無理です。手鏡じゃないんです」
アーサーさんの片眉がぴんと跳ねる。
「どういうことですか」
「最初は手鏡だったんです。でも、落としそうになって。そしたら姿見に変わっていて」
「姿見なんか持ち歩けないじゃねえか」
ニールさんが気だるげに椅子に凭れながらアーサーさんを見る。
「どうすんだ帽子屋。せっかく見付けたのによ」
「手鏡を覗き込み、自分の姿を映すことでこちらの鏡へ戻ってくる。手鏡を持ったまま。本来はそうなるはず。貴方が手ぶらでやってきた時点で気付くべきだったのかもしれませんね」
困りましたね。とアーサーさんはケーキを見つめている。
お皿に付いたクリームを舐め終わったニールさんが舌なめずりをした。いたずらっぽく笑い、鋭い犬歯を覗かせる。
「仕方ねえだろ、手鏡の状態じゃねえと持ち運べねえんだからさ。姿見になっちまったのを戻す方法でも見付けねえ限りは、このガキの家に置いておく他ないんじゃねえか。なあ、アリス。オマエも鏡、まだ手放したくねえんだろ?」
「そうなのですか?」
銀に近い水色が四つ。今度は二つずつ、それぞれ笑うように、不思議がるように、ぼくを見る。
ぼくは手にしたティーカップを覗き込む。だいぶ冷めてしまったお茶が紫色の水面にぼくの顔を映していた。口を真一文字に引き結び、目だけ小さく揺らしているぼくの顔。
「ぼくには居場所がないんです」
二人はちょっと顔を見合わせてから、再びぼくに顔を向ける。
「いじめとかではないんですけど、学校に行きたくなくて。家にいても、お母さんに迷惑かけちゃうし、学校の子とか、時々先生も訪ねてくるし……。学校のこと思い出したくないから先生とかには会いたくなくて……。頑張って学校行こうとか言う向こうの気持ちだって分かるんです。けれど、いざ頑張ろうとしても、制服に手を通してみたらもう怖くて、動けなくなっちゃって。本を読むのは楽しいんです。ページを捲ればそこに世界が広がっている。でもやっぱり、誰かといられる場所っていいなあってどこかで思ってて……。ここに来ればアーサーさんとお茶しながらお話しできるし、ニールさんも怖い人かなって思ったら案外いい人そうだし。ぼく、ここにいたいです。本の中、夢見ていた世界に来れたみたいでとても嬉しいんです。だから、また来てもいいですか」
逃げるための場所じゃない。逃げるべき場所でもない。いたい場所。ここにいたいと思える場所。嘲笑うような視線も、憐れむような視線も、過剰に心配してくる視線も、何もない。
「……追い出したら私が悪者になってしまうじゃないですか。分かりました」
ここにいてもいいんだよって、ただそれだけでぼくにはきっと十分なんだ。
「いつでもティータイムです。来たい時に来なさい、アリス君」
「ありがとうございます……!」
「ただ、気を付けて下さいね。貴方はこの世界の住人ではない。不用意に出歩かないこと。変な輩に目を付けられて大変なことになるかもしれませんから」
「珍しがられて変な実験の材料にされるかもしれねえし、喰われるかもしれねえし、まあ、あんなことやこんなことになるかもしれねえしな……」
最後がとても気になるけれど、気にしてはいけないことかもしれない。
ぼくが怖がっているように見えたのか、ニールさんは笑いながらぼくの頭をぐしゃぐしゃと乱暴に撫でまわす。
「安心しろよ、この家の敷地から出なきゃいいんだ。何かあっても、この猫と帽子屋、クロックフォード兄弟がアリスのこと守ってやるからさ」
「やっぱり兄弟なんですね」
ぼくを撫でていたニールさんの動きが止まる。
「自分で言うなこの馬鹿猫ぉぉ!」
「うわああああ! やっちまったあああ!」
二人は揃って地面に倒れ、「兄弟なんかじゃないもん!」とのたうち回っている。
変な人達だけど、いい人達だ。
「こんな帽子売らない帽子屋は弟じゃねえんだ」
「公爵夫人にかわいがられているこんな猫が兄なわけないんですよ」
「何か言ってくれアリス」
「アリス君!」
すっかり冷めてしまったお茶を飲み干す。うーん、不思議な味。でも美味しい。
「じゃ、ケーキもいただきまーす」
喚く大人を半ば放置しつつ、ぼくはケーキを頬張った。
うーん、美味しい!