第五十八面 ただ、それでも
レイヴンを見てなぜか震えあがっている双子の門番に見送られ、オレは王宮を後にした。
前方を行くレイヴンの背に翼が揺れている。羽繕いの広場・ギルド鳥会議のオーナー、イグナート・ヴィノクロフ。ちらりちらりと包帯が見え隠れする度にオレはどきりとしてしまう。レイヴン自身はいたって普通に振る舞っているように見えるが、オレに対して何か言いたいとか、何かしてしまいたいとか、そういうことはないのだろうか。彼の負傷はオレの所為だ。そのためにオレは謹慎処分を受けることになったのだが、こいつから直接何かを言われてはいない。そのことが余計に気になってしまう原因だろう。
レイヴンに連れられるまま通りを歩いて行くと一台の蒸気自動車が停まっていた。車体には翼をモチーフにしたコーカスレースのロゴが付いている。眺めていると、レイヴンが自慢げに車体を撫でながら後ろの席を指し示し、オレに乗るよう促してきた。
「どうしたんだこれ」
「買ったのさ。いい商品が手に入ったからね、高値で売って資金を増やしたのさ」
「商品」
「とてもいい帽子をレベッカが大量に仕入れてね……」
レイヴンは妖しげな笑みを口元に浮かべた。詳細を訊くのはやめておこう。
街を抜け、車は北東の森に入る。この時間に人間だけで森に入るのは自殺行為だが、獣が一緒ならば問題ないだろう。レイヴンは路肩に車を止めると、降りるように言って来た。日が沈んだ森の中は薄暗く、漆黒の鳥はそのまま空気中に溶け込んでしまいそうだ。この暗がりではすぐそこからチェスが飛び出してきてもおかしくない、オレはフランベルジュに手を添えながらレイヴンの後を追った。手持ちランプでも持ってくればよかったな。
「この辺でいいかな。どうせこの時間なら誰も通らないと思うけれどね。まあ、座りなよ。君と直接話すのはあれ以来か」
木々の合間、申し訳程度の月明かりが差し込んでいる。レイヴンは首をさすりながら嫌味たらしい目でオレを見て来た。首元の包帯はそのまま服の中まで続いているのが見て分かる。だいぶ日が経つがまだ包帯が取れていないということは、あの傷がどれほど酷いものであったのかを物語っている。噛みつかれ、捕食されたのだから軽傷重傷などというレベルでは言い表すことができないものだ。人間であればあのまま死んでいてもおかしくない。
思い出そうとすると連鎖的に母さんのことが脳裏を過るため、あのことを事細かに覚えておこうとは思っていない。しかし、相手側から話を切り出されたのだ。何かしらの反応をするべきだろうか。
「バンダースナッチのこと、本当に悪かっ……」
言葉はそこで途切れてしまった。目に映っているはずの景色が波打つように捻じ曲がって赤く染まっていく。聞こえるのは犬の声と小さな子供の泣き声。そして、そこにあるはずのない母親だった肉塊が転がっている。思い出すなと自分に言い聞かせても、次々と展開されていく光景が止まることはない。
「エドウィン」
真っ赤な景色が真っ黒に変わる。
「謹慎処分になったって聞いた。もう謝らなくていいし、思い出さなくていい。顔色が悪いよ」
レイヴンはオレの腕を掴み、やや強引に木陰に座らせる。
駄目だ、この程度でこんなになってしまうなんて。今なんて軽く話を振られただけなのに勝手にいらないことまで思い出して、勝手に具合を悪くして。こうしてドミノにまで心配されて。
「本題に入っていいかな」
「ああ」
そうだ、こいつがオレを連れ出したのは用があるからだ。この人気のない夜の森で、こいつは何を話そうというのだろうか。幾分か落ち着いて来た頭で思考を促しながらレイヴンの様子を窺う。
夜風に羽を揺らすレイヴンはやや躊躇うような素振りを見せてから口を開いた。墨で塗りつぶしたような闇色の瞳が月明かりを受けて煌めく。軽く翼を広げて立つ姿はさながら夜の支配者であり、コーカスレースのオーナーたる威厳が滲み出ている。先の大戦の際に猛威を振るったという南東の化け物もこのような姿だったのかもしれないな。
「コーカスレースは現在、伝承の龍について調べている。極秘依頼があってね、ジャバウォック? について調べて欲しいと。私は昏睡状態だったから知らないのだけれど、王子が襲われたそうだね。一般国民には知らされていないようだけれど、上層部は動いているらしいから君も知っているだろう?」
「オレも詳しいことは知らないんだ」
「なるほど。騎士にも秘密なのか。君から少し情報を聞けるかと思ったんだが無駄足だったかあぁ」
あからさまに、わざとらしく、大げさに落ち込む。地面に膝をつき、レイヴンは翼で体を包んでいる。なぜだ。なぜこれほどまでに落胆されなければならない。オマエが期待しすぎただけだろう。
「ジャバウォックはバンダースナッチとも関係があるという。君も知りたいんじゃないか」
「まあ」
「情報を手に入れたら秘密裏に君に流してやる、だから君も何かあったら教えてくれないか」
「しかし」
「悪徳商法を警戒する消費者みたいな顔をするな、疑いの目を向けるな。私を信用できないのか。これは君にも利益があることだろう。取引だ。管理者である君には、私の行動を管理する責務がある。これはその一環だろう」
「そうなのか」
誰からの依頼で動いているのかは語らないが、おそらく相当力のある人物からの依頼だろう。トランプの依頼を受け付けないコーカスレースが腰を上げるほどだから、それこそ貴族か、軍や騎士団の上層部か。オレ一人が走り回るよりは、コーカスレースを味方に付けた方が簡単かもしれない。しかし、はい分かりましたと答えてしまって問題ないのだろうか。レイヴンが言うように、オレはあくまで管理者なのだ。ドミノとの接触は多いが友達ごっこをしているわけはない。信用できるのかどうかと訊かれると少し困る。完全に信用してしまっては管理などできないからだ。
レイヴンはオレを覗き込むように見つめている。漆黒の瞳が宵闇そのもののように深く暗くなる。
「バンダースナッチのことを知れば、君の犬嫌いも治るだろう」
「え?」
「ん?」
「何の話だ」
「ん。君、犬が苦手だからバンダースナッチに苦手意識があるんじゃないのか」
「……苦手とか、そういうんじゃない」
夜風に木の枝が揺れ、葉の擦れる音がする。茂みの向こうで何かの動く音がしている。
「バンダースナッチは……。いや、オレの母親は、バンダースナッチに殺されたんだ」
レイヴンの切れ長な目が大きく見開かれた。すまないな、と一言零してオレから目を逸らす。その時だった。オレ達の背後で茂みが大きく揺れた。甲冑の擦れる音と、誰かの叫び声。考えなくても分かる。誰かがチェスに襲われたのだ。オレ達がここまで来る途中にトランプの姿はなかったから、後から誰かが森へやって来たのだろう。
レイヴンが立ち上がり翼を大きく広げる。オレもフランベルジュを鞘から抜き、周囲の動きに対して神経を研ぎ澄ませる。実戦経験がない、実戦経験がないと言いたい放題に言われているオレだが、それでも剣の腕自体はいいのだ。ここでレイヴンにオレの実力というものを見せつけてやってもいいかもしれない。
近付いてくる音に対してオレ達は身構えた。しかし、次に聞こえてきた声でオレの思考は停止する。先程は一瞬だったので、よくは聞こえなかったのだ。だが、この長めの叫び声ならばよく聞こえる。この声は間違いない。
「おや、この声は」
「クラウスっ」
周囲への警戒などそのようなものを気を付けている場合ではない。オレは地面を蹴って茂みに飛び込んだ。そこにいたのは二体のチェスと、影に絡めとられているクラウスだった。そのまま突っ込むところだったが、オレは吹き飛んでいた思考を呼び戻す。このまま攻撃を仕掛けてはクラウスも巻き込んでしまうか、オレまで捕まるかのどちらかだ。チェスは青のルークとポーン。クラウスはポーンから伸びる影に手足を絡めとられ、もがけばもがくほど巻き付かれているようだった。青色の瞳が涙で潤んでいる。
オレは少し下がってルークと距離を取る。正面に立ちさえしなければルークの攻撃は受けずに済む。しかし、横に移動しすぎるとポーンの斜め前に入ってしまうだろう。微妙な距離感を保ちつつ、フランベルジュを構え直す。
ルークの駒は竜騎兵。防御性能に優れていそうな見るからにごつい甲冑姿で、随分と火力のありそうな銃を構えている。今は人型のみのようだが、実際に戦闘になれば影の馬に乗る。動けるうえに一直線上を攻撃する超火力の要塞などまったくふざけたものだ。直接戦うのは避けて、ポーンからクラウスを奪還することが優先だろう。どうやらレイヴンも同じように考えたらしく、ルークの攻撃が通らない上空からポーンを狙っている。青のルークとポーン。ジャンヌ達を襲ったのはこいつらかもしれないな。注意するに越したことはないだろう。
こちらの様子を窺うルークの攻撃範囲に入らないようにしつつ、オレはポーンに近付く。正面から斬りかかろうとしたところ、左側でルークが銃を構えたので一歩下がる。ルークの方が手前にいる状況ではポーンに近付けないか。改めて位置関係を確認しようと周囲を見回すと、背後からレイヴンに捕まえられた。振り解く間もなく、羽交い締めに似た体勢のまま空へ飛びあがる。
「空から狙え。ポーンの目の前に落としてやる。ふふ、感謝してくれよ」
そして、レイヴンは当人の返事を待つことなどせずにオレを宙へ放り投げた。このまま落ちればポーンの目の前。ルークの横は通らずに済む。ポーンはオレに気が付いたようだが、相手と対峙した際のポーンは前方に進むことしかできないため逃げることができない。方向転換したルークが真横に駆け出すが、もう一度方向転換してオレの背後を取るためには時間が足りない。あの重装備でこの落下速度に追いつくことは無理だろう。オレはフランベルジュを構え直し、落下の勢いに任せて振り下ろす。
「クラウスを……離せっ……!」
波打った刃は複雑な切り口を作り出す。ポーンの左肩に食い込んだ剣はその肉を削ぎ落すように撫で、空気中に再び姿を現す。まるで広場の噴水のように血が噴き出しオレの頬に生暖かさを遺した。強引に抉り出したかのような痕の残る左肩を押さえ呻き声を上げながら、ポーンは影の中に溶けて逃げて行った。影と共に大量の血が土に染み込んでいく。振り向くと、ルークは忌々し気な顔でオレを見ていた。ルークの位置は真正面、オレの立っている場所は相手の攻撃範囲である。ここで砲撃されればひとたまりもないだろう。しかし、銃を構えようとした頭上からレイヴンが攻撃を仕掛けると、ルークは諦めたのかポーンの後を追って影に消えて行った。
解放されたクラウスは子供のように泣きじゃくりながらポーンの血を拭っていた。降り立ったレイヴンが頭を撫でているが、オレはその手を払いのけてクラウスの胸倉をつかむ。怯え切った目がオレを見上げる。
「あ、兄貴」
「どうしてこんな時間に森にいる。オレとレイヴンがいなかったらどうなっていたか分かるだろ」
「ごめんなさい」
「エドウィン、無事だったんだからいいじゃないか」
「よくない」
家に帰ったら父さんに言いつけて叱ってもらわねばならないな。今のクラウスは制服ではなく私服姿で、エストックも提げていないため王宮騎士ではなくただのトランプだ。丸腰で夜の森に入りチェスに襲われるなんて騎士としてあるまじき姿だ。
「まあまあ、その辺にしておきな。街まで私が付いて行ってあげよう」
レイヴンに促され、オレはクラウスに立ち上がるように言った。ズボンに着いた土を払いながらクラウスが呟く。
「……兄貴。母さんのこと、本当なの」
「な、何のことだ」
「母さん、バンダースナッチに殺されたの」
「どこから聞いてたんだ」
「兄貴とレイヴンさんが森に入って行くのを見て、追い駆けて、迷って、見付けて、そしたら、兄貴が犬が嫌いなわけじゃないって……」
止まったはずの涙が再び零れだした。クラウスは訴えるような目でオレを見ていた。ことの真偽を知りたいようだ。
オレは直接的なことは話さないようにしていた。それはクラウスを悲しませないためであり、クラウスを守るためである。しかし、もうクラウスは小さな子供ではない、こいつだって王宮騎士だ。感情を理解できないオレは、弟の思っていることも理解できない。だからこうして睨まれてしまうのだろうな。オレの中のクラウスはいつまでも小さいままで、オレが守ってやらなければいけないと、そう思っていた。けれど、そうか。知りたいと、自分で言えるようになったんだな。
ただ、それでも――。
「帰るぞ」
「兄貴!」
「聞こえなかったのか、帰るぞ」
オレはきっと怖いんだ。弟を悲しませたくない、怖がらせたくないなんて建前で、本当は自分が怖いんだ。思い出してしまうのが、あのことを話すのが。
蒸気自動車に乗り込みオレ達は街へ戻った。ジャバウォックについての話は途中になってしまったがクラウスがいるので続きは話せない。レイヴンと別れ、家を目指す。オレもクラウスも終始無言だった。出迎えてくれた父さんが返り血を浴びたオレ達を見て仰天したのは言うまでもないだろう。クラウスは父さんに叱られたが、母さんについて訊くことはしなかったようだ。訊かれた所で父さんもその瞬間自体は見ていないのだから、本当に襲われて死んだかどうかというのは話せないだろうが。オレが頑として話さないのでクラウスもあれ以上何か言ってくることはなかった。
夕食の前に風呂場で血を洗い流しながら、鏡に映る自分の顔を見る。相変わらず無表情で何を考えているのか分からない。赤がいつまでも取れないのでよく見ようと鏡の曇りを拭うと、それは血ではなくて左目だった。この赤は森に映えるひとひらの紅葉ではなくて、草原に飛び散った血のひと雫かもしれない。
色々考えても仕方ないから、少し湯に浸かったら出ることにしよう。クラウスも入りたいだろうしな。
フランベルジュの傷は膿み、じわじわと体力を削り取る。あのポーンは帰ったところで助かるかどうかといったところか……。手には斬りかかった時の感触が残っている。今夜も気持ちのいい夢は見られそうにないな。
日々の記録
了




