第五十七面 かわいいところもある
本日の仕事の為部屋に入ると、困り顔の犬を撫でながらファリーネがオレを見た。口は結ばれているが震えており、目元は堪えきれずに笑い出している。
「普段はクールでくそ真面目なのに、案外かわいいところもあるわよね、貴方」
人を馬鹿にするような、というか確実に馬鹿にしているのが分かる話し方をする人間はどれくらいいるのだろうか。この城に主として住んでいるポーカー家の人間は皆そうだと思う。顔面から滲み出る嘲笑を隠そうともせず、ファリーネは続ける。
「聞いたわよ、社交パーティーで緊張しすぎて倒れたらしいわね」
ジャンヌの護衛として参加したラミー邸でのパーティー。キャンフィールド別邸に帰ってから何があったのかオレはよく覚えていないのだが、かろうじてジャンヌの慌てる声が耳の奥に残っている。目を覚ました時には日が昇っていて、オレはベッドに横たわっていた。いつの間に家まで帰ったのかと思ったが布団と壁と天井が家のものではない。困惑するオレの前に現れたのはキャンフィールド家の使用人だった。オレが寝ていたのは来客用の部屋なのだという。曰く、あの夜オレはジャンヌと話している途中で突然倒れ、少し騒ぎになった。住み込みの医師を呼んだところ極度の緊張状態が続き、そこから解放されたために起こった反動だと言う。起こすのもかわいそうだということでカザハヤの家へ馬を走らせ連絡をし、一晩泊めたそうだ。倒れる直前ジャンヌが何か言っていたような気もするが、訊いても教えてくれなかった。おそらくそれほど重要なことでもないのだろう。
オレの醜態はジャンヌの従者からハリー殿下へ伝わり、こうしてファリーネ殿下まで届いたのだ。過労ならまだしも緊張しすぎで倒れるなんて恥ずかしすぎる。しかし、この恥ずかしさを感じるということはオレにはまだ感情があるということであり、人の心を持たぬ化け物ではないということの証明となった。母さんを失ったあの日、オレは感情を失った。だが、それでも感じることはそれなりにあるらしい。
ファリーネはフューリーを撫で繰り回している。このような姉の姿はおそらくウィルフリッドにとっては狂気の沙汰なのだろうな。あのわがまま王子の動物嫌いも困ったものだが、アルジャーノンのイーハトヴかぶれも相当なものだ。アイザックから土産の緑茶を渡されたのだが、その際に北東の国でのあれやこれ、上限値を振り切ったテンションとなったアルジャーノンに振り回された愚痴をしばらく聞かされることになった。しかし、アイザック自身もそこそこ楽しんできたという。やはりあの国の機械技術は素晴らしいそうだ。なんでも、ホテルのフロントにいたロボットの対応が良かったらしい。
大きなフューリーと遊ぶファリーネの髪をどうにかこうにか梳いていた侍女達が仕事を終えて退室する。部屋にはオレとファリーネ、そしてフューリーが残された。困ったような眉毛の模様があるフューリーが元気よく吠える。
「ファリーネ、今日の予定は」
「公務はないわ」
「またか」
千切れんばかりに尻尾を振るフューリーのことを撫でながら、ファリーネはオレを見る。
「あら、非番にして欲しかった?」
「いや」
公務がないからといって必ず非番になるというわけではない。なるのならばなってほしいがファリーネに対してそういうことを望むのは間違いだろう。先日のように街で振り回されるかもしれないし、ただ話し相手になれと言われるかもしれないし、もしかしたら更に面倒ごとに巻き込まれるかもしれない。この第一王女の護衛をできることをありがたく思いなさい、くらい簡単に言いそうだからな。
オレは壁にもたれてファリーネの様子を見守る。何もない日はこうして時間が過ぎていく。無駄かと聞かれれば無駄である。しかしこれが仕事なので仕方ない。しばらくフューリーと遊んでいたが、少し強めに撫でてからファリーネは愛犬から離れた。そしてドアを開けると、隙間を強引に押し広げながらフューリーが廊下へ出て行った。あの犬は城で飼っているからファリーネ個人のものではない。そのため城内を自由にしているが、先日ウィルフリッドが文句を言っていたので少し心配だ。ウィルフリッドの反応などいつものことだからどうということもないのだろうが、あれほどまで嫌われてしまうとフューリーが気の毒だ。
ウィルフリッドの部屋の方へ行かないように、オレは廊下にいた小姓にフューリーのことを任せた。首輪に紐を着けようとした小姓はそのまま大きなフューリーに引っ張られて廊下の向こうへ消えて行ったが、たぶん大丈夫だろう。ファリーネはその様子を見て楽しそうに笑っているが、小姓を嘲笑っているようにも見えるのはポーカー家の人間の宿命か。
椅子に座り直してファリーネは分厚い本を広げた。ページに溢れているのは北西の国・ブルボヌールの文字である。確かに、王女たるもの異国の勉強も大事だな。何が書いてあるのかオレにはさっぱりだが、ジャンヌには読めるのだろうな。
「まさか北西に視察に行くとか言わないよな」
「行くわけないでしょ。ただの勉強よ。あんな危険な国、行けって言われても行きたくないし、住んでる人の気が知れない……。ごめんなさい、言い過ぎたわね。出たくても出られないのよね」
人狼を妨げる壁は国民すべてを囲い込むものだ。誰が人狼か分からないから、誰も外に出さない。
「北西と言えば……。そういえば、そもそも何で貴方社交パーティーに行ったの。ジャンヌの護衛だそうだけれど、彼女には優秀な従者が就いているでしょう」
「頼まれたんだ、アイツに」
「へえ、彼女、そうやって人に頼るようなことあまりしない印象だけれど……。貴方だからかしら」
「数少ない友人だからな」
オレがそう言うと、ファリーネは一瞬きょとんとしてから盛大に笑い出した。失礼な奴だな。何か変なことを言っただろうか。本を閉じて立ち上がり、こちらへ歩いてくる。黄色とオレンジをベースにした今日のドレス、花のモチーフが散りばめられていて鮮やかだ。ドレスに合わせたオレンジ色の紅が引かれた唇が薄く開かれる。壁にもたれていたオレの動きを封じるように肩を掴んで押さえつけ、体を近付けてくる。そして、寄せられた口から漏れる息がオレの耳にかかる。
なんだ、これ。何かされるのか。
「エドウィン」
反射的に目を瞑ってしまった。これは、あれか、怖いのか。
「かわいいわね、貴方、本当に」
左頬に何かが触れた。柔らかかった。
恐る恐る目を開けると、ファリーネが満足そうに微笑みながら椅子に座るところだった。オレの方を見ながら自分の唇に軽く触れている。左頬にはあの感触が残っている。触れてみると、なぜだか顔がどんどん熱くなってきた。頭の中でよく分からない感覚が渦を巻いて、体の自由を奪って行く。そしてそのまま、オレはその場にへたり込んでしまった。心臓の鼓動がいつもより速い。
「何よ、そんなに狼狽えることないでしょう」
「な、何するんだ、いきなり」
「これは二人だけの秘密よ。誰にも言っちゃダメ」
「い、言えるか、こんなこと。誰かに知られたら大問題だぞ」
昼食の時間を知らせに侍女達がやって来るまで微妙な空気が続いた。しかし、そう思っていたのはオレだけかもしれない。ファリーネはいたって普通だった。
騎士団用の食堂で昼食を摂っていると、「向かい、いいかな」と声を掛けられた。オレが答える前に大柄な影が向かいの席に座った。大盛の日替わり定食が盆の上に鎮座ましましている。オレの前にあるサンドイッチセットが非常に小さく見える。
「そんなんで足りるのか? もっと食え、若いんだから」
そう言ってがははと笑う。
「団長こそ、そんなに大量に食べている時間なんてあるんですか」
「わはは、これくらいすぐ食べ終わるさ」
王宮騎士団長ウィリアム・ブランドン。国王就きの団長に自由時間は少ない。それでもこの量を平らげてすぐに行ってしまうのだから感心する。確か四十路だったと思うが、年齢を感じさせない彼の強さは見習いたいものだ。さすがにこれほどまでの筋骨隆々になる気はないが。などと考えながらオレがサンドイッチをもさもさしている間に団長は定食を平らげてしまった。
少し長めのブルネットを撫でつけてオールバックを整えてから制帽を被り、団長は席を立つ。
「エドウィン。ファリーネ殿下のお相手は疲れないか。いやあ、王子王女に就いている者達に訊いて回っているんだよ。陛下が気になっているみたいで、軽く調べているんだ」
「いえ、疲れるだなんてそんな」
先程の出来事が蘇った。気が付いた時にはサンドイッチが手から滑り落ちていた。盆を持とうとした団長は動きを止め、怪訝そうにこちらを見遣る。気付かれるな、何かがあったと知られるな。何を考えているのか分からないといつも言われているだろう。だから大丈夫。この顔、いつもの無表情を保て。
「ファリーネ殿下は良い方です」
「そうか。しかし皆同じことを言うからその答えは少々信用ならんな。クロンダイク公はアルジャーノン殿下のことを面倒臭いと言っていたが、そんなことを言えるのも公爵ゆえか」
「いえ、本当のことです」
「ははは、皆そう言うんだよ。まあ、頑張れよ」
空になった皿を載せた盆を手に団長が席を離れる。返却口へ盆を返すと、団長は食堂を出て行った。皆同じことを言う、か。仕えている騎士であるオレ達が主たる王子王女を否定するようなことを言えるわけがない。言えないのではなく考えてすらいないと皆は答えるだろう。それが当たり前だ。国王はそれを分かっていながら団長に訊いて回らせているのだろうな。変なことを言うやつがいれば王妃の「首を刎ね」が発動するのだろうか。さすがにそれはないか。
いつまでも食堂で休んでいるわけにもいかない。サンドイッチを口に押し込み、水で流し込むとオレはファリーネの部屋へ戻った。午後からも微妙な空気が続いたが、やはりそう思っているのはオレだけのようだった。
日が傾き、森ではチェスが動き出す頃。職務を終えてオレは帰路に着く。
「お疲れ様、カザハヤさん」
「今日もご苦労様、カザハヤさん」
「明日も頑張ろう」
「僕らも頑張る」
「そうだ!」
「僕らは仲良し!」
「仲良し門番!」
双子の門番が歌って踊って出迎えてくれた。毎日毎日、ここを通る騎士や通いの使用人、客人、その他に対してこういうことをしていて彼ら自身は疲れないのだろうか。膨れた腹を揺らしながら、二人は手を繋いで回っている。
「今日は弟さん一緒じゃないんですね」
「先に帰ってましたよ」
「まあ、帰りが一緒の時はあまりないかあ」
「そうだねえ」
いつまでこの踊りに付き合えばいいのだろう。放っておいて帰っていいよな。いつもそうしているし。今日は少し長めに見てやったんだ、門番も満足だろう。
「うわあ」
「うわわ」
踊っていた門番が動きを止め、通りの方を見た。
「うわー! 烏だー!」
「わわー! 烏だー!」
つられてそちらを見ると漆黒の翼を持つ男が立っていた。指輪をいくつも嵌めていて、それらが西日を受けて煌めいている。そして、首元には包帯がちらりと見える。北東の森を根城にするギルド、コーカスレースのオーナーだ。
「エドウィン、お仕事お疲れ様。少しいいかな」
いいかな、と訊ねてはいるがオレに拒否権はないのだろうな。レイヴンは「逃がさないよ」と言わんばかりに翼を大きく広げた。




