第五十六面 ふざけんな
公爵夫人はブリッジ公に何かを言って別れると、こちらへ向かって歩いてきた。
「ジャンヌ嬢、ごきげんよう」
「ごきげんよう、ミレイユ様」
「それと、こんなところで会うとは思わなかったわ。こきげんよう、エドウィン。一体何のつもりかしら。ここは貴方のような普通の男の子が来るところじゃなくってよ」
からかうように見てくる公爵夫人に、ジャンヌが「わたしが頼んだんです」と言った。夫人はホールをぐるりと見回し、一回りしてオレ達に向き直る。子供の悪戯を発見した親のような顔をしながら、軽く背伸びをしてオレに耳打ちする。
「何か探っているのかしら。アリス君のことでしょう? 私にもできることがあれば言ってちょうだい」
身を離すと公爵夫人はにやりと笑いながら人ごみの中へ戻って行った。公爵を見付け、仲良さそうに腕を組んでいる。ジャンヌは怪訝そうな目でこちらを見ていた。隠されて気になるのは分かるが、ナオユキのことは黙っているべきだろう。
管弦楽団の奏でていた曲が変わる。どうやらこれは踊りに使う曲のようだ。数人の男女がホールの中央へ行って踊り始めた。色とりどりの衣装が広がり、大輪の花々が目の前にあるかのようだ。ブリッジ夫妻もその中にいるのが見える。怪我をしていなければジャンヌもあの輪に入って踊っていたのだろうか、どこかの男と。例えば、ラミー家の息子とか。
ダンスを眺めていると、ジャンヌが左の方を指差した。
「あそこにラミー公とアイザック……クロンダイク公がいるよ。あの二人には挨拶をしておこう」
アルジャーノン殿下に付き従ってイーハトヴへ行っていたアイザックは先日帰ってきたばかりで、顔を合わせるのは久し振りだ。オレ達が近付くと、少し驚いたような顔をした。
「ジャンヌ、大怪我をしたって聞いたぞ、大丈夫なのか」
「まあ、見ての通りだね」
「それに、何でエドウィンが」
「頼まれたからだ」
きょとんとするアイザックの横からラミー公が近付いてきた。
「君は確か陸軍のカザハヤ中将の御子息だったな」
王家の血筋であるからだろうか、目の前に来るだけで圧倒される。このパーティー会場から感じる緊張の発信源であり、もしもオレが獣だったなら耳と尻尾の毛がびりびりと震えていることだろう。普段から王宮で王子王女と接触しているにもかかわらず、貴族を前にしてこのようになってしまうとは。先程から会場内の雰囲気に飲み込まれて倒れてしまいそうなのに、このままでは目を回して吐きそうだ。それでもやはりオレの表情筋は動かないのでこの辛さが顔に出ることはなく誰も気が付かない。
「クロンダイク公とジャンヌ嬢とは仲がよいのかな」
「え、ええ、はい」
「ははは、緊張しているのか? まあ、楽しんでいってくれ」
「は、は、はあ」
ラミー公はシャンパングラスを手に、向こうにいるキャンフィールド公の方へ歩いて行った。目の前からいなくなったことで、強張った体から力が抜けた。
「もー、オレもいまだに慣れないんだよなあ。ラミー公ってちょっと怖いんだよ。大丈夫だったか、エドウィン」
「見れば分かるだろ」
「鉄仮面がそんなこと言うな。分かるわけないだろ」
アイザックは不服そうに眉間に皺を寄せて口を尖らせる。ラミー公が近くにいた時はクロンダイク公爵としての顔をしていたが、今はただのアイザックの顔だ。少し話を聞こうとしたのだが、「クロンダイク公っ」と呼び声がかかりそちらへ行ってしまう。数年前までは自由なお坊ちゃんだったのに今はすっかり公爵様だ、忙しいようだな。イーハトヴ土産に頼んでいた緑茶のことを聞くのも忘れてしまった。
ジャンヌはホールの別の場所を指し示す。そこでも貴族が談笑をしている。というか、ここにいるのは談笑している貴族ばかりなのだが。
「あそこにいるのはクリベッジ伯とピノクル侯だ。近付いて聞き耳を立てようか」
オレが何をしようとしているのか、詳細はぼかしてある。しかし、ジャンヌは楽しくなってきているようだった。おそらく、こういう秘密の行動というものが好きなのだろう。第三王子ハリーの護衛をしている時も基本的に物陰から見守っているのだという。手を出そうとすれば騎士が突然現れるのか、それはきっと怖いな。
車椅子を押し、伯爵と侯爵に近付く。
「ピノクル侯、ウィルフリッド殿下のこと……」
伯爵が声を潜めて侯爵に話しかける。ウィルフリッドのこと、それはつまり、ジャバウォックのことだろうか。しかし、ひそひそ話は周辺の笑い声や演奏にかき消されてしまう。もう少し近くで聞くことができればいいのだが、これ以上近付けば気付かれるだろう。おそらく「ジャンヌ嬢」と声を掛けられ、二人の会話は中断されてしまう。
何気ない風を装うべく、近くにあったテーブルからオードブルを少しつまむ。小皿に取ってジャンヌにも渡す。
二人の会話はよく聞こえない。これが限界だろう。ジャンヌの合図で、オレは車椅子を動かした。
「ごきげんよう、ピノクル侯、クリベッジ伯」
「おや、これはこれはジャンヌ様」
「ごきげんよう、ジャンヌ様」
オレにはよく分からない上流階級の他愛もない会話をしてから車椅子を動かす。何度かそれを繰り返した後、ようやく話し声を聞くことができた。説明するのが面倒になったのかジャンヌからの紹介がなかったので、オレにはこの二人がどこのどんな貴族なのかは分からない。
適当にオードブルを突きながら聞き耳を立てる。
「黒い龍か」
「まさか、アリスが?」
「ははは、どちらも昔話だろう?」
「殿下はご覧になったそうだぞ」
「うむ……。しかしな……」
やはりジャバウォックのことで上層部が動こうとしているのは確実だろうか。それに、アリス、か。
声を掛けられた気がしたのでジャンヌを見るが、ジャンヌは生ハムを咥えていて喋ることができない。後ろか、と思って振り向くと公爵夫人が立っていた。それとなく探ったところ、国の上層部はジャバウォックのことは一般国民には伏せ、秘密裏に調査を行おうとしているという。そして、それ以外にも何かについて調べようとしているのだそうだ。おそらく、アリスについてだろう。
アリス。ごく普通の女の名前だ。しかし、それが個人名としてではなく、ただの名詞として使われる時には意味が変わる。絵本に出てくる勇者の名前だとオレは認識しているが、おそらくそれは本来の意味を隠すためのカモフラージュだろう。この仕事をするようになってそれに気が付いたが、本来の意味はまだ知らない。
伝えられるのはこれくらい、と言って公爵夫人は淑女の輪の中に入って行った。生ハムを嚥下して、ジャンヌが軽く振り向く。
「エドウィン、知りたい情報は手に入れられたのかな」
「一応」
「君が個人で何をしようが構わないけれど、危ないことはしないでね」
「クラウスと父さんを悲しませるようなことはしないさ」
ジャンヌは何故かオレを睨みつけてきた。何だ、どうしたんだ。
「後は適当に見て回ろうか」
パーティーは終わったが、キャンフィールド公に先に帰っているよう言われた。ブリッジ公も同じことを言っていたと公爵夫人は言うが、残って何かの相談だろうか。このパーティー自体が秘密会議を隠すためのものだったのかもしれない。怪しまれることなく、公に貴族を集める実に簡単な方法だ。ジャンヌと二人、馬車に揺られながらキャンフィールド別邸へ向かう。後で家まで送ってくれるらしいが、何かまだ用があるのだろうか。
屋敷に着くとジャンヌの部屋に通された。カーテンの隙間から月明かりが差し込む。照明は点けなくていいのだろうか。
「エドウィン、今日はお疲れ様」
「ありがとな、オマエのおかげだよ」
手に入った情報は微々たるものだが、何も収穫がないよりはマシだろう。
タイヤを回してジャンヌは自分で車椅子を動かした。部屋の奥に進み、オレを振り返る。ピンク色の瞳が闇に揺れていた。心の奥深くまで抉り取られて探られているような視線に、オレは目を逸らしてしまった。
「君は何か隠しているね」
静かな声が部屋に響く。
「ミレイユ様とはそのことについて情報共有しているようだけど、アイザックにも話さないなんて一体何を調べようとしているんだい。知りたいのは本当にジャバウォックのこと?」
「ああ、そうだ」
「ふふ、嘘吐き。君はやはり国の上層部の動きを知りたいんだろう?」
オレは答えない。この沈黙は肯定だと受け止められるだろう。答えても答えなくても結果が同じなら、余計な発言はしない。
「いいよ、詮索はしないし、邪魔もしないよう心がける。わたしに協力できることがあれば、今回のように君に手を貸そう」
「何をしようとしているのか分からない相手にそんなこと言っていいのか」
「わたしは君の力になれるのならいいんだよ。覚えてるかな。新人研修の時、バンダースナッチが現れて君が逃げ出しただろう。追い駆けたわたしと一緒に道に迷って。あの時ね、どうして追い駆けたんだろうって後悔した。怖かった、あんなのを見て、それに加えて迷うなんてね。でも、君がいたから……。なぜか安心できたんだよね。それに、守ってくれるって言った。『オマエはお嬢様なんだから、後ろで守られてればいい』、オレが前にいるからって。そう言われて思ったよ」
ジャンヌは車椅子を動かしオレに近付いてきた。
「ふざけんな、って。決めたんだ、わたしは守られるだけのお嬢様じゃない。わたしだって前に立ってやるって。君と一緒に、同じ場所に立ってやるって。だから、わたしは君の力になりたい。君だってわたしの力になってくれるのだから。おあいこだろ?」
「ジャンヌ」
「君はわたしにとって特別な存在だ。目標であり、仲間であり、親友だ。けれど、ねえ、エドウィン。わたしが君に抱く気持ちというものは、おそらくそれだけではなくて……」
そこまで言ってジャンヌは口籠ってしまった。それだけではなくて何なんだ。ライバル、だろうか。いつも剣術の訓練で他の追随を許さないのはオレとジャンヌだから。
「エドウィン、わたしはきっと君のことが――」
突然、目の前に広がる世界がぐるんと回転したようだった。最後に見えたのは驚いた顔のジャンヌ。自分の体が絨毯に叩きつけられる。
「きっ、きゃああああああっ! エ、エェ、エドウィンっ!!」
車椅子のタイヤの音がする。そして、ドアが開く音。
「誰か、誰か来てくれ!」
必死なジャンヌの声。起き上がろうとしたが体が言うことを聞かない。もがこうとしてももがくことのできない状態のまま、次第に視界がぼやけ、ジャンヌの声も遠くなっていった。




