第五十三面 管理は君の仕事なのだからな
ブリッジ公爵に呼び出されたオレは北東の森へ来ていた。街から北東の森へ入り歩いて行くと、木々の向こうに公爵夫人の住むログハウスが見えてくる。テラスでは召使のカエルと料理番のマミさんが茶会のセッティングをしていた。テラスで準備をしているということは、おそらく帽子屋達でも呼ぶのだろう。
オレは正直公爵夫人が苦手だ。悪い人ではないと思うが、何というか、何故か苦手なのだ。以前公爵夫人に会った帰り、ファリーネに「何だこの香水」と言われたことがある。他人の香水についてオレがとやかく言われる筋合いは全くないのだが、ファリーネから回り回って王室と険悪になってしまうのは絶対に避けねばならない。公爵夫人が使っている香水もいい香りだとは思うがな。ファリーネが何を嫌がっているのかオレには分からない。それとは別に公爵夫人のことが苦手な理由もあるとは思うんだが何なんだろうな。あの雰囲気だろうか。
草を掻き分け、岩を躱し、森を進む。小川を越えると後もう少しだ。
赤のハートのジャック、黒のスペードのジャック、赤のダイヤのジャック、黒のクラブのジャックを代々受け継ぎ、スートトップと呼ばれる四つの公爵家。その一つ、黒のスペードのジャックを冠するブリッジ公爵家は街を取り囲む広大な森を管轄している。
ようやく見えてきた邸宅の門前に、イーハトヴの伝統衣装である和服を纏った人影があった。馬鹿でかいキノコの上に足を組んで座った男はこちらを見下ろしている。手にした煙管からは紫煙が昇っている。
「よお人間、ブリッジ公に用事か?」
青光りする翅が男の背で揺れた。
「芋虫」
「俺は蝶だ。芋虫なんて醜い子供時代は終わったのさ」
「オマエの登録名は芋虫になっている」
芋虫は眉間に皺を寄せながらこちらを睨みつけてきた。唸り声のような音を出して、キノコから下りてくる。
「なんだあ、王宮騎士かよ。ブリッジ公なら屋敷にいる。お仕事ご苦労様」
紫煙をオレに吹きかけると、芋虫はひらりと翅を動かして飛び去って行った。人に向かって煙を吐き出すとはどういうことだ。咳き込みながらブリッジ邸へ向かう。
あの芋虫は所謂風来坊で、森の中ならばどこにでも現れるという。コーカスレースでもその実態は掴めていないらしいので謎の多いやつだ。ヤマト・カワヒラという名前とあの服装からしてオレの家のようにイーハトヴと関係があるのかもしれないな。しかし、獣が異邦人と関係があるなどということはあるのだろうか。
ノッカーを鳴らそうとしたところ、扉の開く気配があったので手を止める。開いた扉の隙間から召使の魚が顔を出した。魚はぎょろりとした目でオレを見る。
「カザハヤです」
「旦那様が待ってる。ささ、入って入って」
魚に案内されて奥へ通される。森を管轄するブリッジ公と管理の仕事を任されているオレは同じようなことをしているような、そうではないような、そういう関係でありしばしばこうして呼び出される。今日もいつも通りの誘導でいつも通りの部屋に辿り着いた。
魚がノックしてからドアを開け、オレに入るよう促す。
奥の椅子に座っていたブリッジ公が髭を撫でながら目を細めた。公爵に一礼して魚は廊下へ出て行く。
「エドウィン」
「はい」
「先日イレブンバック氏から連絡があってな」
イレブンバック。ワンダーランドの市場を掌握する大富豪であり、公爵の妻たるミレイユの生家。公爵夫人を通じて両家に関係があるのは当たり前だろうが、それをここでオレに報告する意味はあるのだろうか。
公爵が立ち上がり、こちらへ歩いてきた。パイプを燻らせる公爵の周囲に紫煙が漂う。オレの数歩手前で立ち止まると、鼻と口から煙を吹き出した。目に染みる上に喉に絡みついてくるがこのまま立っているしかないだろう。
「帽子屋が商品の注文に来たらしい。わざわざ偽名まで使ってな」
初耳だった。毎日様子を見に行っているというわけでははないので彼らの行動の全ては把握していない。オレが知らない間に勝手なことをしてくれたものだな。ドミノであるのにそのような行動をした、それはオマエの管理不足だ、などと言われるのだろうか。
「ミレイユが間に入っていたようだから、私も氏も注文したことについてとやかく言うことはしないさ」
「はあ、では、何か」
公爵は身を乗り出すようにオレに若干顔を近付ける。笑っていた目から表情が消えた。
「帽子屋がな、弟だと言って少年を連れていたそうだ」
「は。帽子屋にいるのは兄なのでは」
「中学生くらいの少年だったと氏は言っていたが」
中等学校生くらいということはヤマネではないだろう。あれは年齢的には高等学校生だから。それならば、帽子屋は誰を連れて行ったんだ。三月ウサギの庭に出入りしている十代前半の少年なんて一人も……いや、待て。まさかそういうことを帽子屋がするはずは。
知らぬ間に俯いて考え込んでいたらしい。顔を上げると訝しむ目付きの公爵と目が合った。
「帽子屋は何を発注したんですか」
――おれ、ティーカップとか壊しちゃってさあ。アーサーにすごい怒られたんだよー。
ヤマネがついこの間、珍しく起きていると思ったらそんなことを言っていた。
「ティーセットだそうだ」
あの男はティータイムのためならば人の一人や二人手にかけてもおかしくない上に、燃料と言っても過言ではない紅茶が切れれば正確な判断ができない可能性もある。そういう状態になった帽子屋のことを三月ウサギは引き止めないだろうし、ヤマネはおそらく眠っている。チェシャ猫が心配したところで兄の言うことを聞く弟ではないだろう。
帽子屋が連れ出したのはおそらくナオユキだ。異世界人であるナオユキを連れ歩くな街に連れ出すなといつも口うるさい帽子屋自身がそうまでするほど新しいティーセットが欲しかったというのか。
公爵は怪訝そうな目をオレから逸らさない。パイプから昇る紫煙がぷかりと揺れる。
「初夏にラミロと共に手紙を届けてきた一般トランプの少年がいてな。自分のことを帽子屋の友人と言ったんだ。君は何か知っているか」
「知らないです」
ナオユキのことは話さない方がいい。クラウスにも言っていないのだから。
アイツが本当に異世界の人間なのかどうか、オレは知らない。なぜならアイツが鏡をくぐっているところを見たことがないからである。そもそも、空間を越える鏡というものも帽子屋とチェシャ猫に聞いただけで実物を見たことがないため、そういうものが存在しているのかどうかも実のところ知らないのだ。それでもオレは一応アイツの友人のつもりであるし、ここでミスをして後々あの兄弟にいびられるのも嫌なので答えるようなことはしない。
公爵は疑うような目をしたままこちらを睨みつけている。クラウスならば、ふええと言いながらたじろぐところだろう。しかし、オレは余り表情がないと言われる人間である。無表情を保ってさえいればこれを乗り切ることはできるはずだ。
しばらく睨み合っていると、公爵がふうと息を吐いた。紫煙を纏いながら椅子へ戻っていく。どかりと座り、足を組む。
「件の少年の事、君に任せていいだろうか」
「と、言いますと」
公爵の薄紫色の瞳が一瞬光を消す。
「もし見付けたら私に知らせてほしい。一般トランプの年端も行かない少年が狂ったお茶会と関わるのはよろしくないし、やつらに何かされるかもしれないからな。何か事情があるのであれば保護も考えよう」
「はあ」
「マレク! 客人の帰りだよ」
後ろのドアが開き、魚が部屋に入って来た。公爵はパイプを燻らせながら口元を歪める。
「管理は君の仕事なのだからな、エドウィン」
ブリッジ邸を後にしたオレは公爵夫人のログハウスを目指していた。目指さなくとも街へ帰るためには近くを通ることにはなるのだがな。先程カエルとマミさんが準備をしていたので、今日は猫と帽子屋の家ではなくログハウスでの茶会なのだろう。ナオユキがいる可能性も高い。
小川を越え、岩を躱し、草木を掻き分けて進む。
ブリッジ公爵とその夫人はなぜ離れて暮らしているのだろう。前に訊こうかとも思ったが、どのような理由であれオレにはほぼ無関係だと思われるので訊くのはやめたのだ。夫婦仲が悪いという風ではないから、気にすることはないだろう。
ログハウスが見えてきた。テラスには公爵夫人とカエルと、帽子屋、チェシャ猫、三月ウサギ、ヤマネの姿が見える。ナオユキはいないのだろうか。近付きながら様子を見ていると、中から茶菓子を持ったマミさんとナオユキが出てきた。オレに気が付いたらしい三月ウサギが手を振っている。
今日の仕事はブリッジ公からの呼び出しだけだ。ということはつまり今日の仕事は終わったのだ。たまにはお茶を飲んでもいいだろう。




