第五十二面 つまらない人ね、貴方
目深に帽子を被ったファリーネの後ろを歩く。貴方の目は目立つから、と言ってオレにも帽子を差し出してきたのでおとなしく被っているが、オレの目は特別目立つわけでもないだろう。
――貴方の目、左だけほんのり赤が差しているのね。
二年前、初めて出会った時にファリーネはそう言った。初対面でオレの瞳の違いに気が付く者はほとんどいない。だから、正直驚いた。何度会っても気が付かない者の方が多いのだ。おそらく、ナオユキ辺りはいまだに気が付いていないだろう。
「わあ、かわいい! ねえ、これ買ってちょうだい!」
小さなアクセサリーショップの前で立ち止まり、店表の棚に置かれた商品を指差しながらファリーネは言った。向こう側が透けて見えそうな黄緑色のリボンだ。オレが返事をする間もなく店の中にいた店主を呼び出し、「これをいただくわ」と言っている。店主も店主でにこにこ笑いながらオレを見てくる。ファリーネもにこにことオレを見上げる。
仕方ないか。
財布から適当に紙幣を出して店主に握らせる。
「ええっ! お兄さん、こんなにいただけないよ」
「釣りはいらない」
「でも」
「硬貨を探すのが面倒だからな」
店主に手を振るファリーネと並んで店を後にする。
「後で給料に上乗せしてもらうからな」
「給金を決めるのはお父様だから」
こぢんまりとしたパン屋で焼き立てパンを買い、それを昼食にする。これもオレの財布から落ちることとなった。カザハヤ家では家族三人の給料をまとめて父さんが管理し、オレとクラウスにはお小遣いとして微量が回ってくることになっている。今月の残額は大事に使いたいところである。
プリミエラ広場のベンチに腰掛け、噴水を見ながらパンを頬張る。
「ねえ、こうしていると私達付き合ってるみたいじゃない?」
「そういう関係が何を以てして成り立つのか分からないから答えることはできないな」
「つまらない人ね、貴方」
仮に周囲からそう見えているのだとしたらオレは弁明の言葉を考えなくてはいけない。互いに帽子を目深に被っているためにファリーネの存在が気付かれることはほぼないと思われるが、油断は禁物だ。ほら、こうして突然脱ぎだすかもしれない。
……なぜ帽子を脱いだ。
シルクが広げられるように金色の髪が揺れる。ファリーネは先程購入した黄緑色のリボンを手にしている。
「結んでちょうだい」
リボンを受け取ると、ファリーネがオレに背を向けた。ハーフアップの結び目にリボンを重ねて蝶結びにする。ミモザの花に蝶が留まったようだ。
「どう? 似合ってる?」
立ち上がったファリーネはくるくると回った。ふうわりと揺れる金色の髪が大きく広がり、体と比べて幾分か遅れてその周囲を回る。広場にいた人々がその美しい女の存在に気が付き、ひそひそと話し始める。
「王女様?」
「まさか」
「一緒にいるのは誰?」
「王女様が」
「人違いじゃない?」
「本物?」
「ファリーネ様?」
「殿下がこんな所にいるわけ……」
まだ回っているファリーネに帽子を被らせ、手を引く。
「ちょっと、何」
「もう城に戻るぞ。気が付かれたかもしれない」
「んっ、そんなに引っ張らなくても」
後方から「やっぱり王女様じゃない?」「ファリーネ殿下?」と言う声が聞こえてくる。ワンピースの裾をつまんでもたもた歩くファリーネは非常にまどろっこしい。手を離し、膝と背に手を回してファリーネを横抱きで抱え上げる。
「うおうっ、な、何」
「くそっ、重いな」
「貴方が軽すぎるだけでしょ!?」
ファリーネを抱きかかえたまま通りを走っていると余計目に付くのでなるべく人通りの少ない道を通る。フランベルジュは振るがそれ以外のことは余りしていないため同僚と比べると筋力がないのがネックになったか。明日は腕も筋肉痛確定だ。脚もだろうか。
出て来た時と同じように秘密の抜け穴を通って王宮の敷地内に入った。これはアルジャーノン殿下が幼い頃に発見したもので、王子王女兄弟の間で密かに使用しているそうだ。
王宮内に張り巡らされている網のような視線を躱しながらファリーネの部屋へ戻り、平凡な服装からドレスと騎士団の制服に着替えたところでドアがノックされた。
「すみません、エドウィンさんはいらっしゃいますか」
ドアを開けると、小姓が一人立っていた。手には封筒がある。
「エドウィンはオレだが」
「業務連絡。ブリッジ公爵からお呼び出しです」
オレが封筒を受け取ると小姓は一礼して去って行った。
「どうしたの」
「ブリッジ公が」
ブリッジ公爵家の紋章が象られた封蝋を剥がし、中を確認する。どうやら中身は便箋が一枚のようだ。こちらにも公爵家の紋章がワンポイントとして入っている。
『明日 午後一時 に 屋敷 まで 来ること。 詳細 は 来てから』
正面から覗き込むようにしてファリーネは便箋に目を落とした。金色の髪が一房、流れ落ちる緩やかな滝のように便箋へ落とされた。それを掻き上げて、「貴方も忙しいわね」と一言。
「仕事だからな」
「そういえば、お兄様とクロンダイク公が北東の国へ視察に行っているでしょう。貴方、クロンダイク公にお土産頼んだ?」
「緑茶を」
「そう。いいお友達を持っているわね。大事にしなさいよ」
ファリーネは本棚の方を向き、分厚い本を一冊手に取った。
「お遣いを頼める? これをビルに届けて欲しいの」
「ウィルフリッド殿下に」
「そう。暇すぎて死にそうだからって兄弟から順番に本を借りて回っているそうよ」
「分かった」
これくらいのこと先程の小姓に頼めばよいものを。オレは身辺警護が仕事なのであって便利係ではない。
しかし王女様に逆らうわけにもいかないので本を手にウィルフリッド殿下の部屋へ向かう。ウィルフリッドは夏にジャバウォックに襲われた際の傷がまだ完治していない。歩くことはできても走ることはまだ難しいのだという。退屈を嫌う殿下にとっては体が痛むことよりも何もできないということの方が辛いのかもしれないが、オレには他人の気持ちは分からない。
ドアの前にいた騎士に挨拶をしてからノックする。
「誰?」
「ファリーネ殿下付きのカザハヤです。書物を届けに参りました」
「入りな」
部屋に入ると、ウィルフリッドはベッドに座っていた。オレを見てせせら笑う。
「オマエあれだろ、管理の仕事してて、夏に謹慎喰らったやつだな」
「そうですが」
「ふうん。オマエがそうなんだなあ」
「お届け物です」
舐めるような視線を振り払うようにして本を差し出す。
「姉上の本だな。ありがとう。全く、退屈で死にそうなんだよ」
兄上の本は面白くなかったからなあ、と呟きながら表紙を捲る。アルジャーノンのことだから蒸気機関だとか電源装置だとか、北東のイーハトヴの技術にまつわる本でも貸したんだろう。確かに面白くはなさそうだ。
「オマエには上の話は聞こえてくるのか」
「上の話と言いますと?」
「王国軍や王宮騎士団は僕を襲った生き物について調査を進めているらしいんだが、話はここまで届いていなくてな。オマエはクロンダイク公と懇意にしているというし、陸軍中将の息子なんだろう? 何か聞いてはいないか」
「特に何も」
ウィルフリッドはファリーネの本をぱらぱらと捲っている。
「あれは昔話に出てくるジャバウォックだった。出会えばすぐに消されてしまうから情報は飛び飛びだが、それを集めた姿は僕が見たものと一致する。かつて北の森を荒れ地にしたと言われ、現在は深い眠りについていると聞くが……」
「殿下の見間違いだったのでは? あの後目撃情報はないでしょう」
「僕は確かに見たんだ」
遥か昔、ジャバウォックの襲来で北の森は荒れ地と化した。人間ではないのは確かで、獣か影の兵団の仲間ではないかとのことらしいが詳細は不明。街に住むトランプにとっては忘れられた昔話であり、その存在は僅かな資料と森に住むドミノの記憶にしか残っていなかった。それが長い年月を越えて再び現れた、らしい。目撃したのはウィルフリッドと彼に付き従っていた一部の軍人と作業員だけであり、情報不足は否めない。ドミノ嫌いの王子様が過剰に反応しただけかもしれない。
本を捲っていたウィルフリッドが手を止め、顔を上げた。
「姉上に犬畜生を放たないように言ってくれるか。さっき近くの廊下にいた。汚らわしいから持って行ってくれ。本については感謝の意を伝えておいてくれ。下がっていいぞ」
「はい」
ウィルフリッドの部屋を後にし、ファリーネの部屋に向かう。途中、下がり眉のような模様の顔をした大きな犬がいたのでついてくるように言う。
部屋に戻ると、ファリーネは椅子に座って本を読んでいた。
「お帰り」
「フューリーがウィルフリッド殿下の部屋の近くにいたらしい。主に世話しているのはオマエなんだからちゃんと見ていた方がいいんじゃないか」
「でも私が飼ってるんじゃなくて城で飼っているのよ。自由に城内を歩かせているだけよ」
「そうだとしてもな」
犬のフューリーはファリーネに擦り寄る。
「ん。後で女中達に言っておくわ」
フューリーは撫でられてご満悦と言った様子だ。わん、と一声。
「明日の予定は」
「一応あるけれど、代わりの者を付けるわ。だからブリッジ公のところへ行ってきなさい。私の警護だけじゃなくて、貴方は森のこともやらなくてはいけないものね」
「悪いな」
お仕事頑張ってね。と微笑むファリーネの後頭部で黄緑色のリボンが揺れた。




