第四十九面 お世話になっているので
猫と帽子屋の家に戻ると、ナザリオが来ていた。枕を抱えて二人の間に挟まっている。
「お帰りなさい、ルルー、アリス君」
「どうにかなったのか?」
この二人はいまいちよく分からない兄弟仲を保ち続けているんだな。喧嘩するほど何とやらというやつだろうか。
「取っ組み合いも日常風景ですね」
「んふふ、おれにとって息をするのと眠るのが同じなのと一緒だよ」
ナザリオがドヤ顔で言うと、両側からぎゅうぎゅう押されてソファから転がり落ちてしまった。絨毯に寝転がりながら、ナザリオはドヤ顔のままだ。
「レベッカさんの空き店舗を借りることになりました。お店と商品があれば誤魔化せると思います。なので、アーサーさんは帽子を作ってください」
ぼくが報告すると、アーサーさんは整った顔を歪めた。「帽子作るんですかぁ?」と、実に嫌そうだ。そんなに嫌なら帽子屋だなんて名乗らなければいいのに。と思ったけれど、獣の通り名は誰が決めているんだろう。国によって決められているのだとしたら変えられないか。
渋い顔をしていたアーサーさんだったが、ぶつぶつと何か言いながらリビングを出て行った。横を通り過ぎた時に聞こえたのは呪文のような「ティータイムのためです」だった。
「あの……。アーサーさんは帽子を作ることはできるんですか」
「できるさ。いつも被ってるのはだいたい自作だからな」
ソファから立ち上がり、転がっているナザリオを踏まないようにしながらニールさんも廊下へ向かう。
「ミレイユに話してくる。おっさんに連絡してくれるだろうからな」
そうしてリビングにはぼくとルルーさんと、寝転がっているナザリオが残された。枕を抱きしめたナザリオは珍しく眠ってはいない。淡褐色の瞳がぼんやりと天井を見つめていた。
「おれは幸せだなあ。こんなに柔らかい絨毯で寝ることができて」
「ソファ空いてるよ」
「いいんだ、ここで」
なぜそんなに穏やかな顔をしている。土足で歩いた絨毯だよ。
「ごめんねー、アリス君。巻き込んじゃって。僕達のお茶会のことだから僕達でやらなきゃいけないんだけど、ドミノだからさあ。あんまり自由効かなくて」
「いえ、ぼくもいつもお世話になっているので」
「いい子!」
ルルーさんに抱きしめられた。むぎゅむぎゅと押さえつけられてしまい動くことができない。ふんわり広がる栗毛が鼻先に当たってちょっとくすぐったい。こんな風にむぎゅむぎゅされるなんて、幼稚園の時に母にされて以来かもしれない。あ、いい匂いがする。
「いい子だねー! こんな弟がほしいよー!」
「あの、苦しいです」
ギブギブ、と腕を叩くと解放してくれた。
「えへへ、ごめんねー。でも本当にありがとう。アリス君が来てくれるようになってから、何だかとっても楽しいんだよ。僕だけじゃない。みんながね」
ああ、必要とされているのか。ぼくが、こんなぼくが。
見付かるはずのない落とし物が届けられたような、雨上がりの虹を誰かと一緒に見ることができたような、そんな穏やかで柔らかな温かさ。いてもいいんだよ、だけじゃなくて、ここに必要だと、そんなことを言ってもらえるなんて。部屋に閉じこもって本ばかり読んでいたぼくにとって、この世界は眩しすぎるくらいだ。
◆
◇
五日後、作戦決行の日がやって来た。
姿見をくぐると、いくつもの帽子と大変グロッキーな様子のアーサーさんが待ち構えていた。シルクハット、クロッシェ、ハンチング、キャスケット等々、様々な帽子に囲まれて帽子屋はベッドに腰かけている。目の下には隈があり、髪もこの前よりぼさぼさだ。普段が綺麗すぎるからむしろこの方がぼくの読んだことのある帽子屋に近いような気もしなくもない。銀に近い水色の瞳は遥か彼方を虚ろに見つめている。
近付いてみたけれどぼくには気が付いていないようだ。声を掛けて、ようやく反応があった。
「ああ、いらっしゃいアリス君」
「大丈夫ですか」
「はは、はは、は、全てはティータイムのためです、どうってことありませんよ……」
全然大丈夫には見えないのですが。これで店番なんてできるのかな。
よろよろしながら立ち上がったアーサーさんは椅子を指差した。預けておいたぼくの余所行きの服が掛けてある。
「着替えが終わったら教えて下さい。準備ができたら行きましょう」
この男は紅茶のためにどれだけ働くことができるのだろう。部屋を出て行く疲れ切った背中を見てそう思った。
準備を終え、ぼく達は帽子を手に空き店舗へ向かった。レベッカさんが待っていて、綺麗になった店内をものすごく自慢してきた。そのまま店にしてもいいと言っていたけれど、アーサーさんはやんわりと断っていた。棚や机、レジなどの説明を一通りするとレベッカさんは帰って行った。
帽子を陳列し、イレブンバック氏の到着を待つ。この帽子屋さんが失敗したらティーセットの注文をなかったことにされるとか、そういうことはおそらくないだろう。ないと思いたい。
約束の時間になって、イレブンバック氏がやって来た。公爵夫人も一緒で、彼女は緊張した面持ちである。ラミロさんがぴょこんぴょこんぼくの方へ近づいてきて、小声で話しかけてきた。
「小僧、首尾はいいのか」
「多分」
陳列棚を眺めるイレブンバック氏に、アーサーさんはいつも通りの穏やかな微笑を浮かべながら説明をしている。先程までの憔悴した様子とは全く違う。お茶会のためだからだろうけれど、無理はしないでほしいな。
様子を窺いながら、公爵夫人もぼくの近くへやってきた。
「アー、じゃない。マーリンは大丈夫なのかしら。心なしか少しやつれているようにも見えるのだけれど。もともと細いのに、心配ね」
「お茶を飲めば元気になるとは思います」
「それもそうね。アリ、アレクシスも大変ね。ご苦労様」
「いえ、ぼくも普段お世話になっているので」
「いい子ね」
撫でられた。ルルーさんといい公爵夫人といい、ぼくを子ども扱いしているようだ。褒められるのは嫌じゃないし嬉しいけれど、小さい子じゃないんだから。むぎゅむぎゅとかなでなではちょっと勘弁してほしいな。
「お似合いですよー!」
店員お馴染の台詞がアーサーさんから発せられた。イレブンバック氏は赤のハートの飾りが付いた素敵なハンチングを被っている。
「ふむ、悪くない」
「こちらになさいますか」
「そうしよう」
「ありがとうございます」
ハンチングを包装している間、イレブンバック氏は店内を見回していた。箱に入れてリボンを掛け、お買い上げのハンチングを差し出す。
「どうぞ」
「マーリン・キングスレーさん」
「はい?」
「いい帽子を作るのだね、君は」
顎鬚を撫でながらイレブンバック氏が言う。帽子を褒められてご満悦な様子のアーサーさんはにこにこしながら箱を押し付けた。顔では笑っているのに、手は「早く帰れ」と言っている。
「ぜひうちで扱わせてほしい」
「お断りします」
にこやかに言い放つ。
「そうか、それは残念だな」
「ティーセットができましたらミレイユさんのログハウスへお届けいただけると嬉しいです」
「ふむ、分かったよ」
箱を受け取って、イレブンバック氏は店を出て行こうとする。「私はもう少ししてからログハウスに戻ります」と公爵夫人が言うと、氏は頷いた。そのまま帰るのかな、と思ったら、ドアを半分開けたところで氏が振り向く。
「ティーセットは特別に作らせてもらうよ。ドミノの注文は普段は後回しなんだがな」
「は、何のことでしょうか」
アーサーさんは苦笑いを浮かべながら公爵夫人をちらりと見る。まさかばらされたんだろうか。しかし、公爵夫人は首を横に振っている。
「作風は似ているが、出来栄えはまだまだだな、帽子屋」
「イレブンバック、さん……?」
「君は帽子職人ではなく帽子屋なのだろう? マーリン・キングスレー」
「な、何のことやら。わ、私がドミノだと仰るのですか? 耳はちゃんとここにありますし、尻尾もないでしょう。何を根拠に」
イレブンバック氏は鼻で笑う。
「根拠はない。しかしその狼狽えよう、怪しいな」
「この状況で狼狽えない方がおかしいと思いますが」
「君がドミノだろうと人間だろうと構わないし、ただの帽子職人だろうと帽子屋だろうと構わないがね、次に私の言ったことに対しての反応で簡単に分かるだろうさ」
アーサーさんは少しだけ体の重心を落としている。マタタビを盛られてなんかいないのに半分混乱しているのか、それは戦闘態勢だ。変なこと言われてもイレブンバック氏を攻撃しちゃ駄目ですよ! 僅かに開かれた口元にはニールさんと同じような鋭い犬歯が覗いていた。
おいおい、大丈夫かあ。とラミロさんは不安な様子だ。公爵夫人も強張った顔で父親を見ている。
「君の帽子はいい帽子だ。しかし、父親のものと比べるとやはりまだ若いな」
濃紺の何かが視界を横切った。それがアーサーさんだと分かったのは、数秒後。イレブンバック氏の目の前に立っているのを見た時だ。レジカウンターからドアまで、一瞬のうちに駆け抜けた、もしくは跳んだのだろう。こういう動きをしているのを見ると、やはりドミノなのだなと思う。
イレブンバック氏は余裕の表情を浮かべたままだ。
「父をご存じなのですか」
「あれはいい帽子職人だったな」
更に話を訊こうと思ったのだろうか、アーサーさんは一歩踏み込んでイレブンバック氏に近付いた。足に続いて、上半身が動く。と、そこで突き飛ばされた。帽子が脱げ、金髪がふわりと広がる。尻餅をついた少し後に遅れる形で帽子が床に落ちた。
ぽかんと見上げるアーサーさんを一瞥して、イレブンバック氏は娘の呼び止めにも応じず店を出て行ってしまった。御者さんの声と馬の嘶き、そして車輪の音。それが徐々に遠くなっていく。
大丈夫? という公爵夫人の呼びかけに小さく頷き、アーサーさんは帽子を拾って立ち上がる。ジャケットに付いた埃を払い、帽子もぱたぱたと叩く。そうして何事もなかったかのように綺麗に整った出で立ちへと戻った。
「アーサー」
「片付けをして、レベッカにコーカスレースへの報酬を払って帰りましょう」
そう言って、帽子屋は棚に並べた帽子を籠に詰め始めた。




