第四面 これは猫です
帽子を目深に被った男はぼくを睨んだまま目を離さない。
アーサーさんと同じ銀に近い水色の瞳と、綺麗な金髪。やっぱりこの人が写真に写っていたアーサーさんの……。
「ガキ、てめぇいい加減しねえと……」
男が手を振り上げる。猫のように鋭い爪がぎらりと光る。
関係性から逃げ出そうとして閉じ籠もっていたぼくは、新たに逃げ込もうとした先で逃れられないものに出遭ってしまった。
「ガキが調子に乗って俺達の家に入るからこうなるんだ」
手が、振り下ろされ……。
「馬鹿猫こらぁぁ!」
石畳を駆けてくる革靴の音がしたかと思うと、アーサーさんがやって来て男に跳び蹴りを食らわせた。かのように見えたけれど、男はすんでのところで蹴りをかわして後方に飛び退いた。
「アリス君、お怪我は?」
「大丈夫です。あの、さっきの人は……」
「おいこら腐れ帽子屋」
男がゆらりと立ち上がる。目深に被っていた帽子がずれ落ち、その頭部が露わになった。
ぼくは言葉を失う。
柔らかそうな三角が二つピクリと動いた。
「そのガキ、オマエの知り合いかよ」
男の頭には三角形の獣の耳がくっついていた。
いい大人が動物のコスプレとは痛々しい。
「昨日言ったでしょう? アリス君、ですっ」
「コイツが?」
獣耳男はぼくのことをじろじろ見て、ふんと鼻で笑った。
「鏡を手にしてやってきたなんて言うから、もっとすごそうなやつ想像してたんだけどな、こんなガキなのか」
こんなガキなんて、獣耳コスプレの恥ずかしい大人に言われたくない。
アーサーさんは獣耳男の横に立ち、ぼくに向き直る。
「これは猫です」
「猫」
獣耳男がぼくを睨む。小さく舌打ちしてから、やれやれといった風に首を振った。
「仕方ねえな、名乗ってやろう。いいか、よく聞け。俺はニール。この森の奥の家で悠々自適な暮らしを送る笑い猫、ニールだ」
「ニールさん」
このワンダーランドがぼくの知っている不思議の国と同じようなものなのだとしたら、この猫はチェシャ州の猫をモチーフにした、かの有名なあの猫ということだろうか。縞々の猫のインパクトが強すぎて、ちょっとイメージと違うや。
準備の済んでいるお茶会セットに歩み寄り、ニールさんは椅子に座る。手は人間のものに戻っていたけれど、やっぱり頭には獣耳がある。拾った帽子は椅子の背もたれに引っ掛けられていて、それは写真の女性が被っていたものに似ていた。
「お茶の時間です。アリス君もいかがですか」
アーサーさんに呼ばれて、ぼくも席に着く。
お湯の注がれたティーポットをまだかなまだかなと子供のようにわくわく待っている姿はちょっとかわいいかなとも思ってしまう。そんなにお茶が好きなんだなあ。
「今ってティータイムなんですか?」
「私の時計はいつだってティータイムなんですよ。素敵でしょう?」
軽く蒸らしてから、ティーカップが差し出される。今日のはなんだか紫色のお茶だ。
「今回のお茶はムラサキヨモコケのハーブティーです」
「帽子屋、今日はこのお茶を買いに街まで行ってたのか?」
「それもありますけど、ルルーに買い物に誘われましてね」
「今日も元気に狂ってたか」
「ええ、とっても。お茶に誘ったのですが、他にも用事があるとかで」
アーサーさんとニールさんは、二人共銀に近い水色の瞳でお茶を眺めて、綺麗な金髪を風に揺らしている。
「アリス君、せっかく来ていただいたところ申し訳ないのですが、お願いがありましてね。鏡のことなんですが」
「お二人はご兄弟なんですか」
お茶会の和やかな雰囲気がぼくのその一言によって一瞬にして張りつめた。