第四十八面 お話なら僕が聞くよ
翌日、ぼくは鏡をくぐってワンダーランドへやって来た。ベッドにアーサーさんの姿はない。もう大丈夫なのかな。
リビングへ向かうと、ナザリオ以外の面々が揃っていた。ナザリオはまだ来ていないのか。
「おー! おはよー、アリス君! 朝から来るなんて珍しいね!」
「母が友達と出かけたので」
「そっかー!」
アイスティーをぐびぐび飲んでいるルルーさんの頭上でうさ耳がぴょこぴょこ揺れる。同じくアイスティーをがぶがぶ飲むニールさんの長い尻尾がゆるやかな曲線を描いている。そして、アーサーさんはテーブルに突っ伏していた。
「ぉ、おはようございます、アリス君」
「大丈夫ですか?」
ぼさぼさの金髪に、気だるげな水色の瞳。帽子も半ばずり落ちている。平気ですよと笑ってはいるものの、どう見ても平気そうではない。力ない動きで体を起こしたけれど、そのまま横にいるニールさんに倒れ込んでしまった。
「頭が痛い……」
前にお酒が苦手だとニールさんが言っていたけれど、お酒だけではなく酔うこと全般に弱いのかもしれない。でも汽車とか馬車とかは平気なんだよね。
いつもは馬鹿猫だなんだと罵っている兄に凭れながら、アーサーさんはピーマンを口に入れてしまった幼稚園児のような顔をしている。
「屈辱です、このような目に遭わされるなんて。全ては兄さんが公爵夫人といちゃついているからですよ。全部貴方の所為です」
幾分かトーンの低い声でことこと小言が紡がれていく。耳元でそんなことを言われているニールさんの猫耳は伏せられ、眉間に皺が寄っている。それを見ているルルーさんはなぜか楽しそうだ。
「あのぅ、どうするんですか、帽子屋さんの話」
「おお、そうだ。アリス、昨日は何を話してきたんだ。注文は通ったんだろう? 他にも何かあったのか」
「アーサーさんに聞いてないんですか」
「聞けると思うか」
まだぶつぶつと何か言っているアーサーさんを指差してニールさんが言った。アーサーさんはその親指を握り、反対側に反らせようとしている。そのまま兄弟は攻防戦を繰り広げ始めてしまった。どうしたものかと思っていると、ルルーさんが自分の右側を叩いていた。ばふばふ叩かれるソファからは埃が舞い上がり、窓から差し込む日差しを受けてダイヤモンドダストのようになっている。本当にダストなんだけど。
「まあまあアリス君、座りなよ。いつまで立ってるつもり?」
促されて、ぼくは席に着く。
「お話なら僕が聞くよ。二人はああなったら長いからさあ」
「懲りないですよね」
「仲良しなんだよ!」
イレブンバック邸での出来事を話しているうちに、ルルーさんの顔が奇妙に歪んできた。小学生に大学の講義を受けさせるとこんな感じだろうか。特に難しいことを言っているつもりはないのだけれど。
「なー、なるほどお! ふむふむ!」
分かってるのかなあ。
ルルーさんは腕を組んで頷く。動きに合わせてうさ耳がぴょこぴょこ揺れた。
「つまり、マタタビ盛られてアーサーがボロ出したってことだね」
「ええ、まあ、そうです」
「困ったねえ。帽子屋なんて名ばかりだから……」
ちらりと向かいのソファを見たので、ぼくもつられてそちらを見た。チェシャ猫と帽子屋はまだ戯れている。互いの指を攻撃しようとしていたはずなのに、取っ組み合いに発展している。じゃれているのが子猫ならばかわいいものだけれど、そうではなくてライオンとヒョウが戦っているようだからかわいいというより迫力がある。身長一八〇センチ台の大人の男がこんなに派手な喧嘩をして、よく無傷でいられるよなあ。
あれは駄目だね。と言ってルルーさんはぴょんこと立ち上がった。
「僕に任せてよ! 店舗があればいいんでしょ?」
「たぶん」
「ようし! じゃあ一緒に見に行こう!」
うきうきした様子でルルーさんはぼくの手を掴む。
「え、二人はどうするんですか」
「そのうちおとなしくなるって! いつものことでしょ! 行こう行こう!」
半ば引き摺られるようにして、ぼくは街へやってきた。通りの端には看板が立っている。
「ぶたのしっぽ商店街だよ。ここの辺りは獣が多いからね、いても平気!」
確かに、街の中心部ではあまり見ることのない獣耳やら尻尾やらが生えている人々が往来している。魚を売っているロブスターの姿が見える。買い物をしているのは公爵夫人のところの料理番さんかな。
「あ、マミさんだー」
「いつも頑張ってますよね」
「邪魔しちゃ悪いから、さっさと行こうか」
弾むような足取りで進んでいくルルーさんと並んで歩く。何が楽しいのか分からないけれど、今にもスキップしそうな感じだ。揺れるうさ耳と、かさりと動く藁。
何軒かお店を通り過ぎてから立ち止まる。目当てのお店はここなのかなと思って見てみると、そこはがらんどうで、薄暗い店内には大きなクモの巣が張り巡らされているのが通りからでも分かった。ショーウインドウには何やら張り紙がしてある。
「何です?」
「テナント募集中、だよ。アリス君、英語読めるようになった方がいいんじゃない? 漢字が読めても自慢できるだけだよ」
と言われても……。姫野と琉衣が届けてくれるノートのコピーくらいは確認した方がいいのかもしれない。
「公爵夫人のお父さんが来る時に、ここを綺麗にして使えばいいよ。誤魔化すくらいできるって」
「ここの持ち主さんは貸してくれるんですか」
ルルーさんは首を捻る。左耳に巻き付いている藁がかさかさと音を立てた。
「んー……。訊きに行こう!」
再びぼくの手を掴み、引き摺るようにして進んでいく。商店街を抜けて、家々が増えてくる。それと同時に通りを行きかう人々から獣耳や尻尾が消えていく。こんなに人間のいるところに突っ込んでいって大丈夫だろうか。
少し歩くと、ちょっと大きめの家に辿り着いた。これは読めるぞ。この表札はダックワースだ。
「コーカスレースのレベッカさんですよね、確か」
「レベッカはいい所の奥様だからね。こんなにいい所に住んでるわけ。で、あの空き店舗はここの持ち物なんだよ」
よーし! となぜか気合を入れながら、ルルーさんはノッカーを鳴らす。翼を広げたアヒルの形をしたノッカーだ。一回鳴らしても返事がないので、何度も何度も鳴らす。そんなに鳴らしちゃ近所迷惑になるんじゃないですか。
振り返ってみると、道行く人々が怪訝な目でこちらを見ていた。ひそひそと何やら話しているのも見える。
「おーい! おーい! いないのかなあ」
「岩の広場にいるのかもしれませんよ」
「それでもお手伝いさんはいるはずだよ。おーい!」
ノッカーを鳴らし続けるドミノと関係者だと思われたくない。少し距離を取った方がいいのかな。
「ちょっと、何しているの三月ウサギさん」
呆れたような声がしたのでそちらを向くと、白い翼を折り畳んだ貴婦人が立っていた。
「あー、レベッカ。出かけてたの?」
「出かけてたの~ぉ? じゃないわよ。やめてちょうだい、家の前で大騒ぎするの」
「大騒ぎなんかしてないよう! ねえ、アリス君」
「ええっ、何でぼくに!?」
レベッカさんは溜息をつくと、わずかに水かきのある手をこちらに向けて、要件を促す。
「手短にしてちょうだい」
「えっとねー、商店街にある空き店舗貸して!」
長くなりそうね。と言ってレベッカさんはぼく達を家に通してくれた。
事情を話すと、空き店舗は貸してくれることになった。しかし、条件が付いた。今回のことについて詳細を口外しない代わりに、これをコーカスレースへの依頼にするということだ。報酬は少なくてもいいとのことだけれど、ちゃっかりしてるなあ。こんなに大きなお家に住んでいるのに……。他のメンバーのためかな。
「これで店舗の確保はできたよ! やったー! 後はアーサーに帽子を作ってもらうだけだね! そうすれば楽しいお茶会ができるよー!」
そう言ってルルーさんはぴょんこぴょんこと飛び跳ねた。




