第四十五面 ティータイムのためです
大富豪とはトランプゲームの一つである。三が一番弱く、二が一番強い。プレイヤーが一枚ずつ、場に出ているカードよりも強いカードを出していく。ゲームはハートの三から始まるのだ。
赤のハートの三だという大富豪は偉そうに椅子に座り、これでもかというほどふんぞり返ってこちらを見下していた。
何でぼくはこんなことになってしまったんだろう。
――一時間半前。
先日ナザリオの頭突きにより破壊されたティーセットはいまだ復活の気配がない。外でのお茶会ができないので、リビングでソファに座りお茶を飲んでいる。アーサーさんが目の前でお通夜みたいになっているので早くティーセットには復活していただきたい。
「公爵夫人が新しいティーセットを揃えてくれるんじゃなかったんですか?」
「そのはずなんだけどさあ」
首を傾げたルルーさんの頭上でうさ耳がゆるりゆるりと揺れた。かわいらしい動きに反して顔は苦悩に歪んでいる。
「ちゃんとやってくれるのかなあ、夫人は」
「ミレイユが約束破るわけないだろ」
「ニールは夫人に懐きすぎなんだよ」
「アイツは俺がいないと駄目なんだ」
テーブルに置かれているのはアイスティーの入ったグラス。氷がからんと音を立てた。向かい合ったソファには、それぞれアーサーさんとニールさん、ルルーさんとぼくが並んで座っている。ナザリオは床で枕を抱きしめて眠っている。絨毯柔らかそうだよな……いやいや、いくらそうでもぼくには無理だ、床で寝るなんて。土足なのに。
グラスを見つめるアーサーさんは会話に入ることもなく一人静かにお通夜をしている。あのティーカップが相当お気に入りだったらしい。毎日毎日順番に違うカップを使っているようだったけれど、お気に入りはあったんだね。黄緑色のラインが入ったカップ、確かによく見ていたような気もする。
ノッカーが鳴った。
「こんにちはぁ」
ラミロさんの声だ。ぴょんこと立ち上がったルルーさんが玄関へ向かい、程なくしてラミロさんと公爵夫人を連れて戻ってきた。
「ニールっ」
むぎゅっと飛びついて早速撫で繰り回しながら、公爵夫人は妖艶な笑い声を漏らしている。横でそんなことになっているというのにアーサーさんはお通夜モード続行中で、いつもの不機嫌そうな顔にもならない。それをいいことに公爵夫人とチェシャ猫はこれでもかと絡み合う。夫人の銀髪を撫でながら、ニールさんが耳元に口を近付けた。
「ティーセットはどうなったんだ」
甘い言葉でも呟くのかと思ったら業務連絡だった。ルルーさんもそれに反応して「頼んだよねえ!」と公爵夫人に近付く。ナザリオは眠ったままだ。
「そうそう、それについてなのよ。ねえ、アーサー」
声を掛けられてアーサーさんが一瞬びくっとする。
「うあ、はい。おや、公爵ふじ……っ、早速うちの馬鹿猫とお熱いようだな雌狐ッ!」
「貴方のために私が動いてあげたんだから感謝しなさいよ」
「なるほど、ではティーセットを持ってきてくださったのですか」
「それがね……」
公爵夫人はニールさんの上から避けると、ドレスの埃を払ってから溜息をつく。琥珀色の瞳がほんの少し伏せられる。
「数が多いから直接注文に来いって言うのよ」
「ああ? 何だよそれ、イレブンバック邸へ行けっていうのか」
「そうなのよ。お父様が何を考えていらっしゃるのか私にも分からないけれど、大口の注文だから信用できる取引相手かどうか確かめたいんじゃないかしら」
ニールさんが立ち上がる。
「じゃあ俺が」
「アーサー、街まで来られる?」
「え、私ですか」
「獣からの注文は後回しにされる可能性が高いわ。貴方が行くのが一番ね。見た目は人間だもの」
夏休みに海へ行った時の光景が蘇る。どうしてトランプはドミノをそういう目で見るのだろう。ドミノがいなければみんなチェスに襲われるのに。恩を仇で返すというのはこういうことなのかな。
「あ、でも、依頼主は兄弟だって言ってしまったのよ。二人纏めて連れて来いと言われたんだけど、アリス君頼めるかしら」
「ぼく街に行って大丈夫なんですか」
眠ったままのナザリオ以外が一瞬思案顔になる。ぼくはワンダーランドのトランプではないから、あまり出歩くなと来たばかりの頃に言われている。だからこうしていつもお茶を飲んでいるだけだし、海に行く時もちょっとひやひやしていた。海の時は確か、外でお茶を飲みたいからとアーサーさんが許可してくれたんだよね。
みんなの返事を待っていると、アーサーさんがものすごい勢いでぼくの肩を掴んできた。至ってクールな顔をしているけれど纏う空気は熱血スポーツ選手みたいだ。
「行きましょうアリス君。ティータイムのためです。致し方ありません」
本当にこの人は紅茶のために生きているんだなあ。
「でも、ぼく達兄弟に見えますか?」
「気合でどうにかしましょう。ティータイムのためです」
お茶のためなら躊躇なく人の一人や二人殺しそうで危うい感じがする。もし本当にそうなってもニールさんが止めに入ると思うけれど。
お屋敷へ行くのだから、と言ってアーサーさんは着替えてリビングに戻ってきた。濃紺のロングジャケットには金色の装飾が入っており、いい服であるということを見るものの視界にこれでもかとアピールしているようだ。夜の闇を塗り込んだように真っ黒なシルクハットもよく似合っている。いつものスーツやよく着ている深緑や臙脂色のジャケットも格好いいけれど、余所行きは格好いいというよりも素敵と言った方がいいだろう。
それに対してぼくは着古したグレーのパーカーに膝が擦れてきているジーンズだ。この格好で大金持ちの家に行って大丈夫なのだろうか。いや、大丈夫じゃないな。
「さ、行くわよ」
ニールさんに抱き付いてから、公爵夫人は廊下へ出た。
「アリス君、しっかりね! 僕も美味しいお茶会やりたいから!」
「ボロ出すんじゃねえぞ。トランプを演じきれ」
責任重大だ。こういう時は何だっけ、掌に「人」って書いて飲み込めばいいんだっけ? ぼくが半ば混乱状態でいると、ナザリオが起き上がった。無言でグッと親指を突き上げるジェスチャーをして、再び眠りにつく。今のは「グットラック」ということでいいのかな。うんうん、とにかくありがとう。
アーサーさんに続いて外に出ると、二頭立ての大きな馬車が停まっていた。車内から先に乗ったアーサーさんが手を差し伸べてくれる。手伝ってもらって乗り込むと、中は落ち着いた赤を基調にしたデザインで、それでいて豪奢な印象だ。座席はとても柔らかく、油断していると夢でも見そうだ。
ぼくとアーサーさんが並んで座り、向かいに公爵夫人とラミロさんが座っている。ラミロさんが御者さんに合図をすると、ぱかぱかと馬車は動き出した。
「セットが壊れた日ね、ラミロが封筒持っていたの見たかしら。あれ、イレブンバック家から来た手紙なのよ。会いに来いって。だから、そのついでね」
「あれ? 公爵夫人がお話しに行ったんじゃなかったんですか? だからぼく達も行くことに」
「私は行ってないわよ。ラミロが注文をしに行ったら、直接来いってなったわけ」
公爵夫人と会話をしている間、ぼくはラミロさんとアーサーさんが揃ってこちらをじろじろ見てくる視線を感じていた。何だ、何なんですか。
「小僧、その格好はさすがに不味いな」
「よろしくないですね」
ですよね。分かってます。
そうだわ! と公爵夫人が手を叩いた。
「途中でブティックに寄ってアリス君の服を買ってあげるわ」
「買ってあげるって、そんなの悪いです」
「あら、貴方ワンダーランドのお金持っているの?」
「持ってない、ですけど……」
公爵夫人は目を細めて口元を少し緩める。
「子供はおとなしく大人の世話になってればいいのよ」
「……お世話になります」
「ふふ、かわいいわね」
車窓から見える景色が木々から岩へと変わってきた。岩というより、石壁かな。街が見えてきた。
街へ来るのはエドウィンに連れて来られた時以来で、久し振りだ。賑やかな通りを過ぎ、高級そうなブティックの前で馬車は停まった。ラミロさんが先に降りて、手を取った公爵夫人が次に降りる。そして、ドア側のぼく、アーサーさんの順。
公爵夫人に案内されて店内に入ると、そこら中、服、服、服、高そうな服ばかり。
「アリス君、身長いくつ?」
「一四五センチです」
「ラミロ、何インチ」
「約五七インチです」
そう。と言って進んでいく公爵夫人の後を追う。紳士服売り場を通り越して、何だか子供服売り場のような所へ来てしまった。と思ったら、少し戻る。小さいサイズの服の売り場は子供服売り場の前らしい。小さいサイズ、か。ワンダーランドの人が身長高いだけだよ。きっとそうだ。
ハンガーにかけられた服をぱらぱら見ていた公爵夫人が、一着のジャケットを手に取った。爽やかな水色で、ぼくのよく知る本来のアリスらしい色だ。袖の折り返し部分にはひらひらとした装飾が付いていておしゃれな感じ。
「私がコーディネートしてあげるわ。アリス君に似合うものを探してあげるわね」
「ありがとうございます」
公爵夫人が選んだのは、水色のジャケットに、生成のスラックス、そしてベージュのベスト。いたって普通の白いワイシャツと一緒に持ち込み、試着室で着替える。鏡を見てみると思ったより似合っているみたいだ。公爵夫人の見立てはいいみたい。
「こんな感じです」
試着室から出ると、ラミロさんが「さすが奥様」と公爵夫人を褒め称えた。よくできた使用人だと思う。
「アリス君、これをどうぞ」
アーサーさんが何かを差し出してきた。返事をする前に首に何か通される。
「はい、これでいいでしょう」
大きな黒いリボンがネクタイ代わりに首に結ばれた。
「似合っていますよ。それなら屋敷へ行っても問題ないでしょう」
鏡を見るぼくの顔はだらしなく歪んでいる。我ながらいいじゃないかと浮かれているのが自分でもよく分かるし、そんな顔になっているのをみんなに見られているのは正直恥ずかしい。
パーカーに付けていた黄色いダイヤをジャケットの襟に付け直す。今のぼくは何だかとってもトランプみたいだぞ。




