第四十四面 子供みたいなこと言うんじゃありません
白ずくめの女の人は何者なのだろう。兎の刺繍の入ったハンカチを机の引き出しにしまう。次に会ったら必ず呼び止めよう。会えるかどうか分からないけれど。
◇
相も変わらず、平日の昼間からぼくは鏡の向こうを訪れている。姫野と琉衣とは時々会うけれど、やっぱりここは落ち着くんだよな。二人といるのと、ここにいるの、両方一度にできるとぼくはものすごく幸せになれるのではないだろうか。そう思ったけれど、二人をここに連れ込むわけにはいかないだろう。人間ではなく人間が更に二人なんてことになったらみんなに迷惑をかけてしまうに違いない。
猫の取っ手をしたティーカップの中には文字通り水色といわんばかりの真っ青なお茶が揺蕩っている。バタフライピーという植物を使ったハーブティーだそうで、ワンダーランド産の変な花なんだと思ったらぼくの世界にあるマメ科の植物だそうだ。それにしても飲食物にあるまじき鮮やかさの青だ。
「アリス君、その程度でびっくりしてたら南の国には行けないね」
何故か偉そうにルルーさんが言って来た。
「南にはヤバいものがあるんですか」
「あれはヤバいとかのレベルじゃないよ。虹色のカップケーキとか売ってるからね。前にキャシーがお土産に買って来たんだけど、見ただけでアーサーが壊れたから」
「その話はしないでください」
「ははは、あの時のオマエすごかったよな。ほら、確かさぁ」
やめてください、とアーサーさんがニールさんの猫耳を思い切り引っ張った。クロックフォード兄弟はそのまま大人げない取っ組み合いを開始する。一体どんな風に壊れたのだろう、ちょっと気になるけれど訊かない方がいいんだろうな。
「ちょっとぉ! お茶が零れちゃうよー!」
ルルーさんはアーサーさんに抱き付いて動きを止める。どたばたの足下でナザリオがもみくちゃになっていたけれど、それに気が付いているのはどうやらぼくだけのようだ。助けてあげたいけれど、テーブルの下に手を伸ばすとぼくまで巻き込まれそうだ。
どうしようか考えている間にティーカップがナザリオの上に落ちた。幸い空だったので火傷の心配はない。
「痛い、落ちてきたよぉ」
喚いている大人達も大人達だけれどテーブルの下で寝てるナザリオもナザリオだよね……。ティーカップを拾い、「大丈夫?」と訊ねるとナザリオは小さく頷いた。三人はまだ何やら騒いでいるので、南の国のカップケーキを見た時のアーサーさんは相当なものだったのだろう。やっぱり気になるな。
「ぼく、その話ちょっと気になります」
「は? アリス君何か言いました?」
「何でもないです」
アーサーさんはぼくに向けて穏やかに微笑んでいる。しかし、目が笑っていない。これ以上触れるのは危険だと、本能が告げた。猫耳と髪の毛を引っ張り合っている兄弟と、弟の方にしがみ付いている三月ウサギという異様な光景を横目に、ぼくは真っ青なお茶を一口飲んだ。んん、あまり味がしないな。しいて言えばちょっと豆っぽい?
「へへへ、アリス、それはそうして飲むんじゃないんだよ」
テーブルの下からのそのそ出てきたパジャマ姿のナザリオが、お皿に盛られていた果物の山からレモンを手に取る。果物ナイフで輪切りにすると、「見てて」と言ってティーカップの上に絞る。すると、真っ青なお茶はみるみるうちに紫色に変わって行った。ナザリオはドヤ顔をしている。
「ふっふっふー、すごいでしょお」
「魔法みたいだね」
おそらく、理科の実験で使うリトマス紙とか紫キャベツとか、そういうのと同じ反応なのだろう。
「おれ、魔法使いだ!」
「違うでしょ」
紫色のお茶を口に含む。うん、レモンの酸味が程よい感じだ。
「魔法が使えたらきっと楽しいよねえ。おれ、それでずっとお昼寝したい」
「それ魔法関係ないと思うけど。魔法なくてもずっとお昼寝してるじゃん」
「あはははは、まあ、確かにねぇ」
そう言いながらナザリオはテーブルの下に戻って行った。枕を抱きしめてすぐに寝息を立てる。気持ちよさそうに眠り始めたところに誰かの足がヒットした。まだ戦ってるんですか大人共は! さすがのナザリオもこれは起きるだろうと思ったら、想像以上の反応があった。いつも眠そうな目は見開かれ、淡褐色の瞳がぎらりと光る。
「寝かせてよおぉっ!」
がばっ、とナザリオが起き上がる。ガツンとテーブルに頭部を強打したが勢いは止まらず、そのままテーブルを下からひっくり返してしまった。ティーカップにソーサー、ケーキ、果物……。色とりどりのそれらが宙を舞った。まるでスローモーションのようだ。ふうわりと舞いながら、漂う。あんぐりとしたぼく達の前で、それらは優雅な飛行を終えると同時に激しく石畳に叩きつけられた。ゆっくりになっていた時間が元に戻ったようだった。
沈黙が流れる。木々の葉や枝が風に揺れる音だけが聞こえた。目の前に広がるのは割れたカップやソーサー、広がる青いお茶、ぐちゃぐちゃのケーキ、砕けた果物……。そして見事にひっくり返っているテーブル。
「あ……あぁ、あ……。わ、わたた、私の……私のティーセットが……」
沈黙を破ったのはアーサーさんの悲痛な声だった。今にも消えてしまいそうな、蚊の鳴くような声。がくりと膝をついてへたり込む。
「はうう、ごめんよアーサー。でも、おれを蹴っ飛ばしたやつが悪いんだからね」
「テーブルの下にいる貴方が悪いのでしょう……?」
壊れた人形のようにアーサーさんは首を傾げる。横にいるぼくからはよく見えないけれど、ナザリオの怯え具合を見るに相当怖い顔をしているようだ。何か分からないざわざわとした悪寒が背筋を駆け抜けていく。ぼくは生唾を飲み込んだ。これは恐怖? それとも畏怖? 分からないけれど、とにかくおそれだ。ゆらりと立ち上がったアーサーさんがナザリオに手を伸ばす。
「帽子屋」
後ろからニールさんに肩を掴まれ、アーサーさんが振り向く。銀に近い水色の瞳はどこも見ていないように虚ろで、魂のない人形のようだった。狂った帽子屋ではなく、これはヤバい帽子屋だ。大丈夫かな。
ナザリオは枕を抱きしめて、ルルーさんは心配そうに様子を見ている。
「形のあるものはいつか壊れるもんだ。仕方ないさ。事の発端は俺がオマエをいじったことだ、悪かったな」
「……兄さん」
アーサーさんの瞳に僅かな光が見えた。
「今度新しいカップとかソーサーとか買いに行こう。な?」
「私はこれがお気に入りなのです。同じものがいいのです。同じものは売っていますか。同じじゃなきゃ嫌です」
「子供みたいなこと言うんじゃありません」
「馬鹿猫」
「残念だったな、それがオマエの兄だ」
「世界は残酷ですね」
二人は揃って溜息をついた。そして、いつも通りの微笑に戻ったアーサーさんがポンと手を叩いた。
「さあ、片付けますよ。ナザリオ、ひっくり返したのは貴方なんですからしっかりやってくださいね」
「ふあーい」
割れたカップの破片を拾ったり、生ゴミを拾ったりしていると、見慣れたフリルの塊がカエルを従えてやって来た。
「あら、どうしたのかしら。何だか大惨事ね」
「公爵夫人」
「うふふ、こんにちはアリス君。何があったの? まるでチェスの襲撃に遭ったみたいね」
チェスの襲撃だなんて怖い例え使わないでください。
公爵夫人は日傘をくるくると回しながら笑っている。後ろに控えるラミロさんは何やら大判の封筒を抱えていた。
「ちょっと色々あって、テーブルがひっくり返りました」
「まあ、大変ね。それで片付けているというわけかしら」
「夫人もやります?」
訊ねると、公爵夫人は笑顔のまま首を横に振った。ですよね。
「ニールっ! 大変ね!」
ぼくの横を過ぎて、公爵夫人はニールさんに飛び付いた。ふわふわフリルにニールさんは押し倒される。もう少しずれていたら落ちている破片が後頭部に刺さっていたと思う。起き上がろうとしたみたいだけれど、早速首元を撫で繰り回されて完全に脱力してしまっている。アーサーさんはその様子を生ゴミを見るような目で見ながら、食べられなくなったパイを袋に詰めている。
ニールさんの首元を撫でながら、公爵夫人は艶っぽく言った。
「新しいセット、私が揃えてあげてもいいのよ?」
それに反応したのはアーサーさんだ。「それは本当ですか夫人!」と言って倒れ込んでいる二人に駆け寄る。ネズミのおもちゃを見付けた猫みたいな勢いだ。実際半分猫だからあながち間違ってはいないのかな。それを見てルルーさんが「今日も元気だね!」と言った。ナザリオは結局寝落ちしている。
公爵夫人は飛び込んできたアーサーさんも撫でようとしたが、躱されてしまう。あくまで睨みつけたまま、それでいて丁寧な口調で語っているのはさすがというべきか。
「よろしいのですか」
「ええ、注文通りに。最低でも八割は同じようなものを作らせるわ。私の生家、イレブンバック家に任せなさい」
「雌狐のくせにお優しいところもあるのですね」
「あら、夏休みに銀河鉄道の切符をとってあげたでしょう?」
微笑む二人の間に静かな火花が散る。と、アーサーさんが倒れたままのニールさんの手を取ってにぎにぎ握り始めた。
「お兄ちゃんが雌狐に誑かされているお陰で私が優雅なティータイムを過すことができるよ! ありがとう!」
「くそ! ムカつくやつだな!」
それを見てルルーさんが「仲良し兄弟!」と言っている。ルルーさんはポジティブというか、何も考えてないというか、多分何をしていても楽しいんだろうな。
公爵夫人はニールさんの上から避けると、アーサーさんを舐めるようにして見上げた。再び火花が散ったような気がする。そんなに嫌いなら会わないようにすればいいのに。ぼくが外に出ないでいるのと同じように、さ。まあでも、新しいティーセットが手に入りそうでよかったですね、アーサーさん。
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鏡の外に戻ってくると、ああ、戻ってきてしまった。と思う。できることならば、ずっとワンダーランドにいたいのに、と。鏡の向こうでなら、あんなに楽しむことができるのに、と。
机の上にノートのコピーが置かれている。ホチキス留めされたメモには昨日の日付と『難しいから要注意だよ!』という言葉が姫野の文字で書かれていた。だからいいのに、こんなことしなくても。
何か読もうとして本棚に手を伸ばすと、引っ張った本の横にあった本が二冊落ちてきた。手にしていた本を戻し、落ちてしまったものを拾う。『オズの魔法使い』と『青い鳥』だ。こんなところまでアピールして来なくてもいいのに。
「頑張る……。ああ、でも……」
外の世界でも楽しく過ごせるようになった時、ぼくはこの姿見をどうするのだろう。




