第四十三面 分かってるはずなのに
カラーボックスの前でぼくが立ち竦んでいたので、おじいさんが心配して声を掛けてくれた。「お友達は? 喧嘩でもしたの?」と尋ねられたけれど、「また来ます」とだけ答えてお店を出た。
これは喧嘩なのだろうか。
家に帰ったぼくは自室のベッドに倒れ込む。
喧嘩というものをあまりした経験がない。昔から近くにいるのはほとんど姫野か琉衣だったし、他は突っかかって来るやつらくらいだったから、喧嘩をする機会はなかったのだ。これが喧嘩なのかどうか、ぼくには分からないけれどおじいさんにはそう見えたということでいいのだろう。
どうしてかわからないけれど、少し悲しかった。姫野に言われたことが気になっているのだろうか。それならば、ぼくの言ったことも同じく姫野に何かをしてしまっているのかもしれない。何だかもやもやして嫌な気分だ。
寝返りを打って姿見を見る。みんなに相談すべきかな。
いや、これはワンダーランドの問題じゃない。ぼくの、鏡の外での問題なのだからこちら側でどうにかしなくては。
翌日曜日。ぼくは琉衣を誘ってカフェ・マジカルを訪れていた。向かい合って座ったぼく達の間にはサンドイッチとナポリタンが置かれている。
「璃紗ちゃんともめた? あの後?」
ナポリタンをぐるぐるとフォークに巻き付けていた琉衣が手を止めた。解かれたスパゲッティ達がお皿へ落ちていく。ぼくはサンドイッチをもぐもぐしながら頷いた。
「もめたって、そんなに深刻でもないんだけど」
「どっちだよ」
「姫野、優等生でいなきゃってプレッシャー感じてるみたいなんだ」
心当たりがあるのか、琉衣は「ううむ」と唸った。口の端にケチャップ付いてるよ。
「期待が怖い、のかな。璃紗ちゃん、教室の隅っこで本読んだり小説書いたりしてるタイプだったじゃん、小学生の時」
「うん」
「小学校のテストとか簡単だからさ、オレにも有主にも百点取る機会あっただろ。でも中学は違う。点数いいやつって、それだけですごいんだよ。璃紗ちゃん、一学期の期末テストですごい点叩きだしてさ、学年はちょっと低かったみたいなんだけど、学級二位だったんだ」
「え、すごいね」
フォークでピーマンを刺しながら琉衣は続ける。
「学級委員長をやってるってのも原因の一つかもしれないけど、ちょっと有名になっちゃってさ。小テストとかでも、その度に期待されて。学級トップの人は別にいいんだよ、本当に秀才っていうか、頭すごくいいみたいで。でも、璃紗ちゃんは地道に勉強してるから、その姿も余計みんなの期待を呼んでるみたいなんだ。そのうち一位になるんじゃないかって。一位のやつも『姫野に要注意』って言ってたし」
「気にしすぎだよ。成績なんて周りにとやかく言われるもんじゃない」
「あのなあ、オレの話聞いてたか」
茶色がかった瞳が呆れたようにぼくを見た。
「オマエがどうとかじゃなくて、璃紗ちゃんがどう感じているかの話してるの。分かるか?」
「んん」
「……言い返されたわけ?」
「何で分かるの」
「見れば分かるよ」
お話聞けないと消えちゃう、みたいな顔をしないでほしい。この見た目詐欺め。
ぼくはサンドイッチを飲み込んで、アイスティーを一口飲む。ガムシロップを入れたのはどうやら選択ミスだったみたいだ。ちょっと甘いや。
「周りを気にしてるのはぼくだって」
「それで?」
「それでって?」
「オマエはそう言われてどう思ったの」
「……挟んでいた栞がどこかへ行ってしまった」
琉衣の眉間に皺が寄り、口が変な感じに歪む。
「分からない。昔からだけど、オマエの本の例えが分からない……」
ぼくの読んでいる世界という本にとって、姫野と琉衣は栞みたいなものだ。文字ばかりが並ぶ世界はそれだけで心地いいのに、そこに彩を添えるデザイン性豊かなブックマーク。
グラスの中で氷が揺れた。水滴がくっ付いたグラスは光を通し、テーブルにアイスティーの影を落とす。
「喧嘩とかしたことなくて、どうすればいいのか分からなくて。でも、たぶん、姫野とちゃんと話がしたいのかな」
なくした栞は早く挟み直さないと、本当にどこまで読んだのか分からなくなってしまいそうだ。
琉衣は腕時計で時間を確認すると、紙ナプキンで口を拭いて立ち上がる。
「よし、サンドイッチさっさと食べろ。行くぞ」
「行くってどこに」
「璃紗ちゃんのところさ」
姫野家へ向かうと、トトを連れた姫野が玄関前に立っていた。丁度帰ってきたところらしく、トトの足を拭いている。
「琉衣君、と、有主君……」
「やっほー」
「や、やあ」
逃げるように家へ入ろうとした姫野の腕を琉衣が掴む。
「璃紗ちゃん、逃げないで話せばいいよ」
「何を……」
「有主と何かあったんでしょ」
「そんなに深刻なことじゃ」
「じゃあ、何で有主のこと避けようとするの。酷いこと言ったって思ってるんじゃないの」
姫野の腕からするりと降りたトトがぼくの方へ歩いてきた。ちょこちょこ動いて相変わらずかわいいなあ、と思いながら手を伸ばすと思い切り吠えられた。しかもグルグル唸っている。やっぱり嫌われてるのかな。
「こらっ、駄目でしょトト!」
叱られて、トトは「くぅーん」と鳴いた。
「有主君、ごめん、昨日は……」
琉衣に解放された姫野はトトを抱き上げる。三つ編みが鼻に当たったトトがくしゃみをした。
「ごめんね。傍で見て来て、分かってるはずなのに」
「ううん。ぼくも。ぼくもごめん。学校でのこと知らないのにあんなこと言ってさ。頑張ってるんだよね、姫野は。でも、無理しないでやりたいようにやればいいんじゃないかな」
「え?」
トトを抱いた姫野がちょっと目を丸くする。琉衣もぼくを見つめている。
「どうするかは姫野が決めることでしょ。みんなの理想の姿でいいのなら、それを演じ続ければいい。やっぱり自分らしくいたいって思うんだったら、それをみんなに見せたくなかったら、ぼく達がいるからさ」
半分エドウィンの受け売りのようなものだけれど、他に何ていえば言いのか思いつかなかった。これでよかったのかな。
姫野はトトをぎゅっと抱きしめた。三つ編みが直撃して再びトトはくしゃみをする。そして、顔を上げた姫野はにこりと笑ったのだった。
「いいね、その台詞。こんど小説の登場人物にでも言わせてみるよ」
それはおそらく褒め言葉で、きっとこれが仲直りなんだと思う。そもそもこれが喧嘩だったのかどうかは分からないけれど。
本に挟まっていた栞は二枚に戻った。
以前、姫野は散歩について琉衣に話していたそうで、そのためベストタイミングで向かうことができたのだという。
「昨日、わたしちゃんと見られなかったから、もう一回行ってみたいな」
そう言う姫野を連れて、ぼく達は路地の向こうの骨董品店へ向かった。トトは家に置いてきている。
リロンリロンとベルを鳴らしながらドアを開けると、ぼくの視界に白が広がった。よく見るとそれは人の形をしていて、おそらく女の人だと思われる。白い帽子に、白い髪、白いワンピース。振り向いた女の人が、ぼくを見て目を見開く。ルビーのように綺麗な赤い瞳だ、と思うと同時に、血のような色だとも思った。
「わ、綺麗な人だね」
「客、なのか?」
白ずくめの女の人は悪魔の脚の机の横に立っていた。被っている帽子は昨日机の上に置かれていたものと酷似している。そしてその姿は、三ヶ月前にぼくをここまで誘い込んだ女の人に間違いなかった。あの時見たのは後ろ姿だけだったけれど、こんな格好でこんなに綺麗な白い髪の女の人なんてそうそういないだろう。
帽子を深く被り直して、女の人は薄く笑う。
「いらっしゃい、アリス」
ぼくをそう呼んだことに対して、姫野と琉衣が怪訝な目を彼女に向けた。
けれど、「アリス」と呼ばれたこと以上にぼくの関心を惹きつけたのはその声だった。忘れるはずのないこの声。ぼくを誘った声。鏡から聞こえてきた声。ここへ導く声。ワンダーランドへ導く声。
「そこの二人はお友達? ねえ、アリス」
この女の人は何者なんだ。どうしてぼくをアリスと呼ぶ? どうしてこの女の人の声が頭に響く? どうしてどうしてどうしてどうして。
「こいつがアリスならオレはチルチルだな。お姉さん?」
「うふふ。じゃあ、そちらの女の子は?」
「わたしは璃紗……。……ん、二人がそうなら、わ、わたしはドロシーです。トト飼ってるし」
「そう。仲良しなのね。かわいい」
白い女の人はくすくす笑う。懐中時計を確認すると、「ゆっくりしていって」と言い残してこちらへ向かって来た。お店を出るのかな。白い塊が横を過ぎていく。リロンリロンとベルが鳴り、女の人は外に出る。
「あの、あなたは一体」
訊ねたけれど、彼女は薄く笑いながら立ち去ってしまった。ベルの余韻だけが揺れている。ハンカチ持ってくればよかったな。返しそびれてしまった。
白い女の人が消えた先を見ていると、おじいさんに声を掛けられた。
「今日は三人一緒かい。ゆっくりしていってねえ。ああ、そうだ」
おじいさんはカラーボックスのような三段の棚から、銀色の靴を持ってくる。そして、それを姫野に差し出した。小村寿太郎なんて敵じゃないといわんばかりの髭がわっさわっさ揺れる。
「これ、気になっているみたいだったからね。よかったらあげようか」
「え、そんな。いただけません」
靴は履いて使うというよりは、琉衣が貰った鳥籠のように置いておくものだと思われる。履いて歩くには綺麗すぎてもったいない感じがするし、それに重そうだ。
姫野は手を振って数歩後退る。甲冑にぶつかり、「すみませんすみません」と謝っている。
申し訳程度に付けられた値札にはやっぱり申し訳なさを感じさせない値段が書かれていて、中学生のお小遣いで買えるレベルではない。
「い、いただけません」
「買い手が付かないんだ。店に置いておくくらいなら、君のように気にしてくれる子の所へ行った方が靴も幸せさ」
「でも……」
おじいさんは引き下がらない。
「オレも鳥籠貰ったんだよ」
「ええ、何に使うの」
「インテリア」
「ええ……」
あの鳥籠がインテリアとして機能しているということは、琉衣は部屋の掃除を終えたのか。
「おじいさん」
呼びかけると、姫野の方を向いていたおじいさんがぼくを見た。
「さっき来てた女の人、お客さんですか?」
「ああ、ベルは鳴っていたけれど、声を掛ける前に皆が来たんだよ。女の人だったんだね」
白ずくめの女はおじいさんには姿を見せていないのか。でも、昨日机の上においてあったのは彼女の帽子で間違いないはずだ。ふんわり広がる鍔に、薄いピンクのリボン。ということは昨日も来店していたわけだ。しかも、帽子を置いて。ぼくと姫野が来た時にも実はお店のどこかにいたのかな。
おじいさんは再び姫野に銀色の靴を差し出す。けれど姫野は受け取ろうとしない。
「ただでいただくわけにはいきません」
おじいさんは値札を確認する。
「じゃあ、二千円だよって言ったら受け取って貰えるかな」
「え、これ二千円で買っていいんですか」
姫野! さっきまでと反応変わりすぎでしょ! お金のやり取りが出ればものすごい割引率でも買っちゃうんだね!
驚愕の表情の琉衣と目が合った。おそらくぼくも同じような顔になっているだろう。
姫野は財布から千円札を二枚出し、おじいさんに渡す。おじいさんはレジで靴を箱に入れ、水色のリボンを掛けて戻ってくる。箱を受け取る姫野は新しいおもちゃを手に入れた子供みたいに目をきらきらさせていて、とても嬉しそうだった。連れて来てよかった。
「また来てね」
リロンリロン。
銀色の靴は、これからドロシーをどんな喜びへ連れて行ってくれるのだろう。