第四十二面 本に挟んでいた栞
わくわくしながら手に取った本を読了した時の、達成感と喪失感の混ざりあう複雑な感情を上手く表現することのできる言葉を探している。
それは本が好きという純粋な気持ちだと彼女は言った。対して、それはまた新しい本が読めるっていうわくわくになるんじゃないかと彼は言った。どちらも確かにそうかもしれないと思ったけれど、やっぱりぼくは探している。
♥
「この前オマエが薦めてくれた本な、あれ美千留がすごく喜んでくれてさー! 嬉しそうに読むんだよ、かわいい顔してさあ」
図書館で琉衣に出くわした。本屋が駄目なら図書館だ、と思ってやってきたけれど、そもそも土曜日に外出すること自体が良くないみたいだ。美千留ちゃんのことを話している琉衣はいつもにこにこニヤニヤと楽しそうで、あのライ麦畑な少年と戦えるのではないかとさえ思ってしまう。
「琉衣君、あまり大きな声で話さないでね。ここ、図書館だから」
なぜか姫野も一緒だった。二人で来たのではなく偶然ここで会ったのだそうだ。それぞれ新たな児童書と小説の書き方の本を探しに来たのだという。ぼくは前に借りていた『不思議の国のアリス』を返しにやってきたところだ。持っているものとは訳者が違う本で、今度本屋さんで見付けたらこっちも買ってみようと思う。
返却カウンターに本を返すと、司書さんに「今日は借りるものあるの?」と訊かれた。本屋さんの店員さんもだけれど、図書館の司書さんも顔見知りである。平日の昼間にも訪れるぼくに対して最初は不審そうな目をしていた店員さんも司書さんも、今はもう放っておいてくれている感じだ。
「今日はいいです。また今度」
そもそも小学生の頃から通っているのだから元々常連ではある。
姫野と琉衣も目当ての本を借りたようで、三人一緒に図書館を出た。姫野はぼくにはよく分からない文法書のようなもの、琉衣は『オズの魔法使い』を借りたそうだ。何がいいかと姫野に訊いたら問答無用に突きつけられたと琉衣は言っていた。
先週は琉衣に会うし、今日は二人に会った。やっぱり土曜日は鬼門だ。二人はともかく他の人に遭うなんて危険極まりないことしたくはない。今までの三ヶ月こういうことがなかったので、まるで二人がぼくの訪れそうなところをマークしているかのように思えてくる。もしそうなんだったら怖いからやめてほしい。
自然と並んで歩いているけれど、これからどうするつもりなんだろう。ぼくは帰りたい。
「これからどうする? 折角会ったんだしどこか行こうか」
姫野がうきうきとした様子で言った。
「あー、どこ行く?」
「ぼくは帰りたいな……」
立ち止まると、前方を行くことになった二人が振り向く。
「そんなこと言わずに有主君も行こうよ」
「オマエの行きたいところでいいよ」
「え、じゃあ、本屋さん」
行きたいところでいい。と言われたから行きたいところを答えた。ぼくは間違っていない。けれど二人は何とも言えない微妙な顔をしている。
「有主、マジで言ってる?」
「行きたいところでいいって言ったの琉衣だよ」
「言ったけどさ」
姫野は眼鏡のブリッジを押し上げる。
「さっきまで図書館にいたのに本屋さんに行くって、さすが有主君だね」
これは褒められているのではなく呆れられているな。
「そうだ! 璃紗ちゃんもあの店に連れてってみないか。ほら、小説のネタになるかもしれないし」
「え、何々? 面白いお店があるの?」
「あるある、えっと向こうの……」
琉衣のウエストポーチからアップテンポの曲が聞こえてきた。「何だよー!」と不機嫌な感じで携帯電話を取り出した琉衣は、画面に表示される名前を見て満面の笑みを浮かべる。ちらりと見えたそこには、『自宅』と表示されていた気がする。
「はーい、もしもし。おー、美千留ぅ、お兄ちゃんだぞお。本借りたからなあ。……え? あ、分かった」
携帯電話をウエストポーチにしまい、琉衣は「ごめんっ」と手でジェスチャーする。
「美千留が母さんとおやつにクッキー焼いたんだって! 食べなきゃ! オレ帰るなっ!」
脇目もふらずに琉衣は駆け出す。そんなに急いで倒れないようにね。
ぼくと姫野が二人取り残される。姫野は借りた本の入っているトートバッグを抱くように持って、ぼくを見ている。ぼくの動きを待っているのか。
「面白いお店。連れて行ってよ有主君」
赤いフレームの眼鏡の奥で、姫野の目がらんらんと輝いた。
路地に入り、確認した通りに進んでいく。
進んで、曲がって、進んで――。
ほどなくして開けた場所に出る。テレビで見たドイツのとある街並みのようなかわいらしい建物が並んでいる。
「わあ、すごい」
「姫野、ここ知らなかったの?」
「知らない。路地には入らないから」
優等生然とした発言にぼくは納得する。真面目な姫野がわざわざこんな奥まった怪しげなところへ入り込むとは考えにくいな。
背中に小銭を背負ったカエルの置物が看板のように鎮座しているお店へ向かう。ドアを開けると、上部に取り付けられたベルがリロンリロンと鳴り響いた。ぼくを押し退けるようにして店内に入った姫野がおもちゃ売り場に来た子供みたいにぴょんぴょん跳ねた。
「すごいすごい! 小説に出て来そうだね! ネタ! ネタネタ! ね、有主く、ん……」
そろそろとこちらを向き、ぼんっと赤くなる。三つ編みをふるふる揺らしながら蹲ってしまう。
「わたしとしたことが、柄にもなくはしゃいでしまった。恥ずかしい」
「大丈夫だよ姫野。はしゃぐ気持ちよく分かるよ」
「むぅ」
姫野の声にはさすがに気が付いたのだろう、おじいさんが奥から慌てて出てきた。板垣退助みたいな髭が動きに合わせてふよんふよんと揺れている。優しそうな細い目を大きく見開いてやってきたけれど、ぼくを見てすぐに穏やかな表情になる。
「君か。いらっしゃい」
「こんにちは。あ、こっちは友達です」
「ははは、賑やかなのはいいことだよ。若くていいねえ」
ゆっくりしていってね、と言っておじいさんは奥へ引っ込んでいく。姫野は三つ編みを握りしめてふるふる震えていた。
「姫野」
「わたしは、しっかりしてなきゃいけないの。優等生だって思われてるから。委員長って頼りにされるから。だから、こんな、はしゃいで、こんな……」
そこまで思いつめることなのかな。
姫野の横には悪魔の脚をした机があって、今日は上に白い帽子が置かれていた。女もののようだけれど、他のお客さんの忘れものなのかな。兎のぬいぐるみは売れたのだろうか。
ぼくは姫野を店先に残して奥へ向かう。「有主君」と消えそうな声が聞こえたけれど、こういう時どうしてあげるのがいいのかよく分からない。ルルーさんのように明るく対応してあげればいいのか、アーサーさんのように優しく対応してあげればいいのか。
カラーボックスに似た三段の棚に銀色の靴が入っているのが見えた。鈍く光るそれは、銀色の生地ではなく本当に銀でできているようだった。誘われるように手を伸ばす。
「綺麗な靴だね」
いつの間にか姫野が後ろにいた。
「置いて行くなんて酷いよ」
「ごめん。どうすればいいのか分からなくて」
「どうすればって……」
姫野は呆れたように吐息を漏らした。
「姫野、気にしすぎなんじゃないの。昔は自分の妄想に入り浸って周りなんて見てなかったでしょ。周りの目ってそんなに大事? 勉強できるのは本当のことなんだし、あえて優等生ぶることもないんじゃないの」
「それ、有主君が言うの」
今日の姫野はちょっと踵の高い靴を履いていた。とは言っても中学生なのでほんの数センチだろう。けれど、ぼくと姫野は向こうの方がちょっとだけ背が高い。昔はぼくの方が高かったんだけれど、小学四年生くらいの頃に抜かれた。だから、ほんの少し上から睨まれることになる。
「わたしにかかるプレッシャーなんて知らないくせに。相談したくても会えないんだもん。それなのにそんなこと言うの」
「そんなつもりじゃ」
「周りを気にしてるのは有主君でしょ。アリスアリスって、気にしなければどうってことないでしょ。だって、有主君自分で言ってたじゃん『いじめじゃない』って。それなんだったら気にしなきゃいいんだよ。いじめなんだったらわたしにでも琉衣君にでも相談してくれればいいでしょ。そうじゃないんだったら気にしなきゃいいじゃん。気にしなきゃいいのに、気にしてるのは有主君でしょ」
ほとんど息継ぎという息継ぎもせずに、姫野は捲し立てた。はあはあと息を漏らして呼吸を整えているけれど、眼鏡の奥からは真っ直ぐに鋭い目がぼくを見ていて、ちっともぶれない。そんな姫野を見るのは久し振りで、これはぼくが不登校だとかいうのは関係なく、本当に久し振りで、ぼくは戸惑っているのだと思う。何か声をかけるべきなのか、それとも黙って睨まれ続けているべきなのか。
我に返ったらしい姫野がわたわたと後退る。後ろにあった信楽焼の狸にぶつかり、「すみませんすみません」と謝ってから、ぼくに向きなおる。目は潤み、頬は紅潮し、額に汗が浮かんでいた。
「姫野」
何をしようというわけでもないけれど、ぼくは手を伸ばしていた。撫でようとした? 涙を拭おうとした? でも、その手は届かなかった。それは体よりも遅れて動く三つ編みの先をほんの少し掠めただけだった。
踵を返した姫野がお店を走り出る。
本に挟んでいた栞がどこかへ行ってしまった。ああ、ぼくはどこまで読んでいたんだっけ。