第四十一面 言い得て妙だと思う
神山家に電話がかかってきた。珍しいことではない。しかし、ぼくにかかってくることはあまりない。それに、電話の向こうにいるのが警察だというのは十三年間生きて来て初めてだ。大慌てな母に呼び出されて階下へ向かったぼくは、恐る恐る取った受話器から緊張が解けすぎるくらいのほほんとした声を掛けられることになる。
「神山君だねー」
「は、は、はい」
「空ヶ丘西交番の者だけど」
交番? どうして交番なんかからぼくに電話が……。
「……ああ! あ! あ、もしかして」
「持ち主が現れないまま三ヶ月経っちゃったから、あれは君のものになるよ」
警察から電話は来るし、息子はそれに対して大声を出しているし、母は状況が分からず不安そうにこちらを見ている。
「分かりました。すぐ行きます」
着古したTシャツを半袖パーカーに、くたくたのジャージをジーパンにそれぞれ着替えて家を出た。母は困惑したままだったが、あとで説明すればいいだろう。
交番に行くと、六月に対応してくれたお巡りさんが待っていた。兎の刺繍が施された白いハンカチを差し出される。
「これ、持ち主は来なかったよ。所有権は君に移るわけだけど……いる?」
このハンカチを落とした女の人を追い駆けて、ぼくは骨董品店に迷い込んだ。そこであの手鏡を手に入れたのだ。
「もらっていきます。もしかしたら、持ち主の人とすれ違うかもしれないし」
「そうかい。分かったよ」
かわいらしいハンカチを受け取る。あの女の人は、どこで何をしている何者なんだろう。
折角外に出たのだから、と、ぼくはいつもの本屋さんを訪れた。特に何かを買う予定はない。そこに並ぶ本を見ているだけで楽しいから、それでいい。ぶらぶらと店内をうろついていると、絵本コーナーに琉衣の姿が見えた。油断していた、今日は土曜日か。他の人に遭わなければいいけど。
話しかけようかどうしようか考えているうちに、向こうに気が付かれたようだった。笑顔で歩いてくる。
「有主ー! 外で会うなんて珍しいな。というかオマエが不登校になってから初めてだな」
「お、おはよう」
「おはよー」
琉衣は消えそうな笑顔を浮かべる。見るからに儚げで薄幸そうな感じなのに、中身はその真逆だ。小学生の時のクラスメイトが「見た目詐欺」と言っていたけれど、言い得て妙だと思う。
「本買いに来たの?」
「美千留に何か買ってあげようと思ってさ。オレの漫画読もうとするから、阻止しようと思って……」
美千留ちゃんに読まれると困る漫画を持っているの?
ぼくの疑いの視線に気が付いたのか、そろそろと目を逸らす。琉衣は動物のデフォルメイラストのポップが賑やかな絵本コーナーをうろついているけれど、美千留ちゃんって確か四つ下だったよな。小学三年生がこういう絵本読むのかなあ。読むにしてももう少しがっつりした厚みのある絵本だと思うんだよね。
「琉衣、美千留ちゃんもうそんなに小さくないでしょ」
「ええ? じゃあどうすればいいんだよ」
「琉衣が三年生の時何読んでたのさ。あ、『青い鳥』以外でだよ」
琉衣の視線が中空を彷徨ってぼくに戻ってくる。
「『ミッケ!』……」
どう答えればいいんだ……。ごちゃごちゃした写真から質問の答えを探す本だったよね。
「え、えと、さ。お話のやつ」
再び琉衣の視線が中空をぐるぐる彷徨う。
「オレあまり読まないからさあ」
ぐわしと琉衣の腕を掴み、絵本コーナーから児童書のコーナーへ引っ張る。
「美千留ちゃん、普段どんなの読んでるの」
「いやあ、よく分からないな」
「三年生の女の子だったら、これとかいいんじゃないの」
眼鏡の男の子とかわいい女の子の兄妹が描かれた表紙を指し示す。琉衣は一巻を手に取りぱらぱらと捲る。
「へえー、でもこれ外国の本?」
「面白いよ、それ。タイムスリップものだよ」
「おっ、なかなか面白そう。ありがとな、有主。さすが!」
「やめてよそういうの。さすがとかそんなんじゃないし」
「照れるな照れるな」
二巻までを棚から取り、琉衣は上機嫌でレジへ向かった。あ、新刊が出てる。ぼくも買っちゃおうかな……。
「え、何? 有主も買ったわけ? これ子供向けなんじゃ……。あ、ごめん」
「いや、いいよ」
店表でそんなやり取りをしながら、ふと思ったことがあったので訊いてみることにした。
「この辺に骨董品店があるのって知ってる? 絵本みたいな商店街の」
「骨董品? あったかなあ」
琉衣の行動範囲はあまり広くはない。けれど、この辺はぶらぶらしているんだからもしかしたら知っているかもしれない。と思ったけれど、知らないのか。
「ああ、でも。絵本みたいな通りがあるって前に美千留が言ってたな……。道に迷って入ったんだけど、帰りはするっと出て来られたって変なこと言ってたけどさ。小学校で噂になってるみたいだな。それがどうかしたのか」
「今から行こうかと」
「え、オマエ道知ってるの」
ぼくの記憶が間違っていなければ辿り着くはずだ。確認した時の道を思い出しながら路地に入る。
曲がって、進んで、曲がって――。
ほどなくして開けた場所に出た。異国情緒漂う、絵本から飛び出してきたような建物が並ぶ。
「すげえ。こんなところがあったのか」
背中にお金を乗せたカエルの置物が目印のお店。ドアを開けると、上部に付けられたベルがリロンリロンと鳴った。おじいさんの姿はない。悪魔の脚をした机の上に兎のぬいぐるみが置いてある。
ぼくを押し退ける勢いで店内に入った琉衣は、目を輝かせてきょろきょろと周囲を見回している。
「すっげえ! すっげえ! すごいな!」
「琉衣もこういうの好きだっけ」
「美千留が喜びそう!」
ぶれないね。
「店主のおじいさんがいるはずなんだけど、奥かな」
謎の生物が這いまわる不気味なデザインの壺を覗き込んでいる琉衣を放置して、ぼくは店の奥へ踏み込む。足下に右腕の取れた熊のぬいぐるみが落ちていたので、近くにあった棚の上に置いてあげる。優しく扱ったつもりだったけれど、左目のボタンがぽろっと落ちた。
「ひぃ」
ボタンを拾い、熊の前に置く。大丈夫、だよね……?
「ん、お客さんかな?」
物陰からおじいさんの声がした。がさごそという音がして、おじいさんが姿を現す。
「おや、君か。久しぶりだね」
「こんにちは。あ、あのすみません。この熊さん……」
大丈夫だよ、とおじいさんは笑う。店主がそう言うのなら大丈夫か。
「今日は何の御用かな。まあ、ゆっくり見ていってね……。おや、あの子は?」
「友達です」
「そうかいそうかい。ゆっくりしていってねぇ」
おじいさんはそう言うと、ロッキングチェアに腰かけて目を閉じた。これは今回も勝手に出て行っていいパターンかな。奥に見える柱時計の秒針と、規則的な振り子の音、そしておじいさんの寝息。お店の奥はやっぱりカーテンばかりで、先に進むと不思議の国へ飛ばされそうだ。
店先へ戻ると、おしゃれな鳥籠の前に琉衣が立っていた。籠の中に魂を持って行かれてしまったかのように、ぼんやりと籠を見つめている。近付いて行くぼくに気が付く様子はない。鳥籠は水色のフレームで、上の方に青い羽根の飾りがくっ付いていた。きらきらと光る石も散りばめられているうえに、少し小さい。鳥を入れて使うというよりはインテリアとして飾るものなのかもしれない。小さく開けられた窓から吹き込む風に羽根が揺れる。
「琉衣」
はっとして琉衣がぼくを見た。
「びっくりした、有主かよ」
「ぼくじゃなかったら怖くない?」
「確かにな。あ、おじいさんはいたのか?」
「うん。好きに見て好きに出てっていいってさ」
「そっか」
すると、琉衣は吸い込まれるように鳥籠に向き直る。
「それ、気になるの?」
「綺麗だなって思ってさ」
申し訳なさそうに付けられた値札には申し訳なさを感じさせない値段が書かれている。中学生のお小遣いでは買えなさそうだ。
「有主はどうしてこの店に?」
「最初は道に迷っちゃってさ。入ってみたら素敵なお店だったから」
「綺麗でわくわくするのに、どこか暗くて、御伽話みたいだな」
「あはは、まあ、アリスが迷い込んだお店だからね」
「さしずめオレはチルチルか」
青い鳥籠を背に、ミチルという妹を持つ少年が笑う。
「それ学校で言わない方がいいよ。絶対アリスよりいじられる気がする」
「美千留まで標的になったら困るもんな」
いつだって美千留ちゃん優先なんだなあ。
奥からぎぎっという椅子の音がして、おじいさんがこちらへやってきた。大久保利通みたいな髭をわしわし撫でながら歩いてきて、鳥籠に手を掛ける。
「これが気になるのかい」
掛けてあったスタンドから下ろし、琉衣に差し出す。
「よければあげようか」
「はあっ!? なななっ、ええ!? ぐ、げふっ」
「る、琉衣っ」
咳き込む琉衣の背中をさすってあげる。おじいさんはびっくりして、鳥籠を手に立ち竦んでいる。
「んげ。え、いいんですか。だってこれ」
ぼくの手を振り払って、琉衣は値札を指す。この値段の商品を「あげようか」だなんて、おじいさんは何を考えているのだろう。赤字も赤字、大赤字だ。いくらお客さんが少ないとはいえ、ここまでのサービスをする必要はあるのだろうか。あの熊のぬいぐるみを「あげようか」ならともかく、この鳥籠を? ぼくが来る時はいつも他のお客さんは来ていないけれど、本当はものすごい上客がいて、大量の代金を得ているとかそういう裏側があるのかもしれない。そうだ、骨董品店なのだからものすごいマニアが訪れているのかも。
おじいさんは籠を持ってにこにこしている。
「どうしよう有主」
「でも、あげるって言ってるし……」
「あの、本当にいいんですか」
琉衣が見た目通りの儚く消えそうな声で尋ねた。おじいさんは大きく頷く。
本当にいいのか? とぼく達が顔を見合わせている間におじいさんはレジで鳥籠を袋に包み、青いリボンをかけて戻ってきた。そして、困惑したままの琉衣に差し出した。伊藤博文みたいな髭を揺らしておじいさんはにこにこ笑う。おじいさんの好意を無下にはできないので、琉衣はそれを受け取ることにした。
「大事にしてね」
「どうしようこれ」
「大事にしなよ」
鳥籠と本屋さんの袋を抱えて琉衣は歩いている。欲しがっていたのは自分なんだから。
「オレの部屋に似合うかなあ」
「それはどうだろうね」
「何か惹かれたんだよな。帰ったら部屋掃除しなきゃ」
結果的には喜んでいるみたいだし、誘ってよかった。チルチルの青い鳥籠にはこれから幸せが舞い込んでいくのかな。




