第四十面 どれにしようかなあ
リロリンリンとベルが鳴るドアをくぐると、カウンターの中にいた女の人が「いらっしゃい」と出迎えてくれた。本物志向のメイド服らしき格好をしている。カウンター脇に三角帽子を被ってマントを羽織った魔女の人形が置いてあり、圧倒的な存在感を放っている。店内は落ち着いた雰囲気で、奥の棚にアンティークな小物や洋書が入っているのが見えた。
「三名様ですね! こちらへどうぞ」
エプロン姿のお兄さんが席へ案内してくれる。星夜高校の制服だから、バイトの人かな。
メニューです、とテーブルの上の冊子を指し示し、お兄さんはひとまず退散する。ほどなくしてお冷を持ってきてくれた。
「んー、どれにしようかなあ」
向かいに座った姫野はメニューを楽しそうに見ている。ほら、とぼくにも見せてくれるけれど、こういうお店に来るのは初めてなので何を注文すればいいのか分からない。横を見ると琉衣は店内を見回していた。ほらなー! と言ってこっちを向いたけれど、何がほらなー! なんだろう。
姫野がメニューをこちらにも見せてくれた。
「見て、メニューが御伽話なんだよ」
『ヘンゼルとグレーテルのチョコレートケーキ』、『白雪姫のアップルパイ』、『眠れる森のお花のタルト』等々、御伽話をモチーフにしたメニューが並んでいる。一応普通の抹茶パフェなどもあるみたいだ。と思ったら『一寸法師の抹茶パフェ』とあった。
「わたしアイスミルクティーとアップルパイ」
「じゃあオレはカフェモカと苺ソースのパンケーキ」
え、ええと、どうしよう。んーと、そうだな。
ぼくが悩んでいると、すっと指が伸びてきてメニューを指す。見ると、カウンターにいた女の人が横に立っていた。日本人離れした燃えるような緑の瞳をしている。ハーフ、なのかな。
「本日のおすすめは、カプチーノとベリーベリーサンデーですね」
左胸に『店長』と名札を付けている。この人が店長さんなのか。それなら店長さんのおすすめをもらおうかな。
しばらくして、ケーキやら何やらが運ばれてきた。サンデーは甘酸っぱくてとっても美味しい! そして、食後に飲み物が出てくる。ぼくの目の前に置かれたカプチーノにはラテアートが施されていた。コーヒーの表面に浮かぶクリームには兎と四つのスートが描かれている。
「うわ、地雷じゃん」
言ってから、琉衣はしまったといった風に口に手を当てる。
「有主君……」
「どうってことないよ、どうせコーヒーの上の絵でしょ。よくある絵なんじゃないかな。偶然だよ。作品自体は好きなんだし……」
うん、美味しい。
「あのさ」
言いにくそうに琉衣が切り出す。
「事の発端は何だったわけ」
「事って? え、ぼく?」
「うん」
「琉衣君、それはちょっと」
「いや、いいよ。琉衣には知っててもらいたいし」
琉衣と出会ったのは小学三年生の時だから、その時は既にぼくは「アリス」と呼ばれていた。だから事の発端は知らないのだ。
幼稚園の年長さんの時、学芸会で『不思議の国のアリス』をすることになった。そこでぼくがアリスを演ったとか、そういうわけではない。ぼくはトランプFの役で、姫野はトランプIの役だった。台本を見た、いわゆるキラキラネームを子供につける親の数人がぼくの名前について「アリス」と読めることを言及した。「アリスくんがトランプの役なのねー」という、悪気のない何気ない言葉。最初は憧れの物語の主人公と同じだと、嬉しかった。
「まあ、だんだん激しくなってきてさ」
ぼくはカプチーノを一口飲む。表面に浮かぶ兎が崩れて化け物みたいになった。
「後は琉衣も知っている通りだよ。面白がって、それを理由にぼくを標的にした」
「有主、オレ」
「おまえの力になりたいとかそういうのいらないからね」
「分かってる。だが安心しろ。なぜなら既に力になっているからだ!」
琉衣は胸を反らせて言う。
「あはは、何それ。でもありがとう。二人といると、外でも怖くないからさ。本を買いに行く時と同じくらい平気でいられるんだ」
「わたし達、本と同レベルなの」
「いや、本がオレ達と同じくらい有主にとって大切な存在なんだろ」
「後者だといいなあ」
お店を出ようとして、ぼくは店長さんに呼び止められた。
「ねえ、君」
「何ですか」
「ラテアート、あれ本当は別料金なんだ。でも、サービス」
「ああ、ありがとうございます?」
「元気なさそうだったからさ」
店長さんは外で待っている二人を見る。
「いいお友達だね。大事にしなよ」
「はあ……?」
初対面のカフェ店長に心配されるとは。
「ありがとうございます」
店長さんに一礼して、ぼくはお店を出た。
正直ぼくは頑張ったと思う。学校へ行ったんだから目標は達成した。すごいぞぼく。
「有主君、明日は」
「ごめん。やっぱりまだ……」
「少しずつ慣れていけばいいと思うんだけど」
「うん、でも……」
姫野は見るからにしょんぼりしている。きみに力がないわけじゃない。ぼくが動きたくないんだ。
「じゃあ、オレ達と出かけようか」
琉衣の発言に、ぼく達は揃って「へ?」と間抜けな声を出した。
「オレ達となら、本を買いに行くのと同じくらい平気なんだろ。じゃあ、本を買わないときはオレ達と出かけよう。土曜日、とかさ。ああ、毎週とは言わないよ、オレがもたないから」
「うん。うんうん。いいねそれ。有主君が日程決めていいよ。わたし達はそれに付き合うからさ」
「図々しいのは分かってる。オマエがお節介を嫌うのも分かってる。だから強制はしない」
「どうかな、有主君」
ああ、お節介なやつら。心配してなんて頼んでないし、助けてくれとも言っていない。本当、図々しい。本を読んでいる時に「これ知ってる! このキャラがねー、えーとねー」と絡まれているような、そんな感じ。ぼくは静かに本の世界に浸っていたいのに。
でも、「この本知ってる。面白いよね。今度感想会しようよ」という稀有な存在をどこかで求めていたのかもしれない。二人はそれに当てはまるだろうか。
「考えておくよ」
そんな曖昧な返事をして、ぼくは家路を急いだ。琉衣とは途中で分かれるから追っては来ないけれど、姫野は方向が同じなので自然と追われる形になる。
「有主君、また、ノート作っておくから」
「いらないよ」
「でも」
「行かないんだって」
「それでも届ける」
「いーらーなーいー!」
「だって」
「そっとしておいてよ」
「わたし有主君と学校行きたい」
家の前まで来て、ぼくは振り向く。
「琉衣君もそうだよ」
「……うん、ありがとね」
小さく手を振り、玄関のドアを開ける。振り返ることなく家に入った。
手を振り返す姫野の顔がちらりと見えたけれど、風に吹かれた三つ編みが被ってしまって表情は分からなかった。
◇
ぼくは始業式の翌日からそれまで通りの不登校生活を再開した。意志が弱いとか、意気地なしとか、そういうことは両親には言われなかった。
あれから三日経ったけれど、早速ぼくの部屋には姫野の手によってノートのコピーが降臨していた。ご苦労なことだと思う。
「アリス君はさ、やりたいようにやればいいよ! まだ若いんだから何でもできるよー」
うさ耳をぴょんぴょん揺らしながらルルーさんは言う。
「他の人がなんて言おうが、アリス君の人生なんだからアリス君が好きなように生きればいいんだよ。学校なんか行かなくったって生きていけるよ」
「ルルー、貴女学校行ったことないでしょう。無責任なこと言わないでください。アリス君困ってますよ」
「んー! アーサー、そんな顔したら怖いよ!」
ルルーさんは頬を膨らませてアーサーさんを睨んだ。横からニールさんに突かれて膨らんだ頬は潰されることになる。
「うぶっ、酷い、酷いよニール」
「アリス、お疲れ様」
「え? あ、ありがとうございます?」
わしゃわしゃと頭を撫でられた。
やっぱりここはとても居心地がいい。やっぱりここはぼくの、いや、ここがぼくの居場所なのか。
ああ、それも違うや。
ここと、姫野と琉衣と一緒にいる場所、そこがきっと居場所なんだって、新しくそう思うことにしよう。自然と思えるようになればいいけれど、まだちょっと早いかな。二人には迷惑はかけたくないし。
ティーカップの中で赤褐色のお茶が揺れる。
ゆらゆらしていれば、いつかはどこかに辿り着くのだろうか。