第三十九面 青い鳥って知ってる?
教室に戻ると、担任教師がほっとした顔で出迎えてくれた。
「久し振りね、神山君」
四十代前半くらいの女性教師。名前は忘れてしまった。
姫野と別れ、琉衣と席に向かう。教壇の前を通った時、先生に小声で「放課後少し残れる?」と言われた。
先生がいるからか、教室にひしめくクラスメイト達がぼくを面白がって見ることはなく、無事にロングホームルームは終わった。今日の予定はこれで終了とのことで、日直の「さようならー」を合図にみんなが教室を我先にと出て行く。
「有主、さっき先生に呼ばれてた?」
「うん。職員室、かな」
じゃあ待ってるよ。と琉衣は言う。ぼく達の席の方へやって来た姫野も事情を把握したようだ。ぼくはリュックを背負って職員室へ向かった。
我先にと教室を走り出る生徒に負けじと撤退していった先生は職員室でぼくを待ち構えていた。
「あ、あの、宿題、やってきたんですけど」
「ほえー。すごいね。じゃあ出して貰おうかな」
姫野のおかげでどうにかこうにか終わった宿題を提出する。
「神山君、今日はどうだったかな。明日も来れそう?」
椅子に座った先生はぼくを見上げる。様子を窺うというよりは探るような感じだ。中学校教師としては生徒に登校してほしいというのが本心だろう。ぼくが黙って立ち尽くしていると、先生は回転椅子の向きを変えて机に向き直る。呆れられてしまったのだろうか。
「無理しなくていいからね」
本当にそう思っているのだろうか。これは先生の本心なのか。それとも、ぼくを油断させようとしているのか。
「義務教育だから本当は来ないといけないんだけどさ。姫野さんと宮内君から聞いたわよ。だから、無理しなくていいからね。何かあったら」
「何かあったらすぐに言って。ですか」
先生はぼくを見る。この子は何を言い出すのだろう。そう思っているに違いない。教師というのはみんなそういう生き物で、聞くだけ聞いて対応なんてしないじゃないか。「先生、神山君の力になるから」なんて、そんな綺麗事求めていない。
けれど、先生は困ったように笑うだけだった。
「言ってくれるとありがたいけれど、言いたくなかったら言わなくてもいいよ」
本当に? 本当にそう思っている?
ぼくは小さく「はい」と返事をして、職員室を後にした。
廊下に出ると姫野と琉衣が待ち構えていた。連れだって玄関まで歩いていると、周囲の視線が二人にも突き刺さっているのがよく分かった。二人の気持ちは嬉しいものだけれど、気になんかかけてくれなくてもいい。ぼくに構うから二人までこんな目で見られるんだ。
「四組の神山君……」
「来てたんだ」
「不登校のやつでしょ」
「どうして姫野さんみたいな子があんな子と一緒に」
「アリスちゃんなんだって」
「名前が?」
「本ばっかり読んでて……」
「ふふふ」
「何だっけ、ほら、あれ、時計屋さん?」
「帽子じゃなかった?」
誰かに肩を触られた。
「やめろっ」
「有主、オレだよ」
「琉衣……」
琉衣はぼくの腕を掴んでいる。
「ごめん」
「いや、いいよ。驚かせたか」
姫野がぼく達を心配そうに見ていた。
「ごめん、ぼく、やっぱりまだ……」
琉衣の手を振り払い、ぼくは玄関目指して駆け出した。階段を駆け下り、下駄箱が見えてくる――。
「急いでどこまで行くの、アリスちゃん」
数人の男子が下駄箱の前に立っていた。中心に立っている男子の手にはぼくのスニーカーがある。
「か、返せよ」
「どうしようかなあー」
男子達はくすくすと笑っている。不快な笑い声だ。不愉快極まりない。
「かえっ」
「こんなのもあるんだけど」
別の男子の手には文庫本があった。『青い鳥』と表紙に書かれている。ぼくが一昨日買って、今現在読み進めているものと同じ装丁だ。……ちょっと待てよ。
リュックを下ろし、チャックを開ける。筆入れ、クリアファイル、今日配られたプリント……。本がない。まさか。
「『青い鳥』とか子供向けだろ。こんなの読んでるのかアリスちゃんは」
「まあ、アリスちゃんだし?」
「春先も『ナルニア国物語』とか読んでたもんな」
「お子様~」
本に子供向けも大人向けも関係ないだろう。それに、童話にだって子供には分からない仕掛けがあったり、大きくなってからわかる内容があったりする。この男子達は「まだそのゲームやってるの?」と言われて怒ることはないのだろうか。
「どうするよ、これ」
「公園にでも捨ててこようぜ」
――青い鳥って知ってる? 幸せの青い鳥。
四年前、彼はそう言ってぼくに絵本を見せてくれた。声を掛けてくれた、それだけなのに、あの時のぼくは彼のことを青い鳥のようだと思ったのだ。いいことって案外近くにあるんだよなあ、と言った彼のことを、ああ確かにそうなんだなと思って見ていた。
「あのさあ、そんなところに立っていられたら靴取れないんだけど」
ぼくと集団の間に割って入って、彼はそう言った。物怖じしない態度に困惑しているところからスニーカーと本を取り返し、壊れてしまいそうなくらい儚く笑う。
「靴がないと帰れない。帰れなくなったオレが体調崩したらどうするわけ」
朝に続き邪魔に入られた一団は舌打ちと共に去って行った。
「『青い鳥』かあ。有主は絵本よりこっちの方が好きか」
「まあ、原作でちゃんと確認したいでしょ。絵本には絵本の良さもあるけどね」
なるほどなあ、と琉衣は言っているけれどおそらく分かっていないだろう。走って追い駆けてきたのか額に汗が滲んでいる。
「懲りないよなあいつらも……。ぅ、げほっ」
自分の靴を取ろうと下駄箱に手を伸ばした琉衣が咳き込んだ。何でもない、と手で制されたのでぼくは踏み止まる。しかし、廊下を走らずにようやくやってきた姫野が結局背中をさすったので、なぜかぼくは姫野に睨まれることとなった。
「大丈夫、いきなり走ったから。それだけだから……」
姫野を軽く突き放し、琉衣は靴を履き替える。ぼく達の視線を背に受けながら玄関を出て行ってしまったので、ぼく達も靴を履き替えて後を追った。
やる気なさげにエナメルバッグを肩から下げた琉衣は、げほげほ言いながら少し先を歩いている。エナメルバッグと言うと運動系部活動のイメージだけれど、琉衣は体があまり丈夫ではないので基本的に激しい運動は控えている。だから運動系部員ではない。所属しているのは美術部だ。ではなぜエナメルバッグなのかというと、これはぼくにも分からない。何だろう、好みの形なのかな。ショルダーだと手が空いて色々便利だからかな。
姫野はスクールバッグを肩に掛け、ぼくの隣を歩いている。スクバは見た感じ容量が少ないように見えるのだけれど、全部この中に入っているのだろうか。女子って不思議だ。リュックの女子もエナメルの女子もいるけれど、スクバの女子はどうやって荷物を詰めているのだろう。意外と中は結構入るんだろうか。
「琉衣君、今度の部誌の表紙描いてくれるんでしょ?」
「璃紗ちゃんの作品の中表紙ね」
琉衣が立ち止まって振り向く。
「姫野、部誌って?」
「あれ、言ってなかったっけ。わたし文芸部なんだよ」
「え。演劇部って言ってなかった?」
姫野は一瞬きょとんとしてから、ぽんと手を打った。
「ああ、違うの。文芸部なんだよ。演劇部は、脚本を手伝ったの。文芸部のみなさん助けて下さいって言われたから、みんなでちょっとずつね」
なるほど。
会話から外れた琉衣が明後日の方向を見ていたので視線を辿ると、並ぶ民家の隙間から光星小学校が見えた。ぼく達の通っていた小学校でもある。
「琉衣、美千留ちゃんは元気?」
とくにこれといった意図もなく、何気ない世間話としてぼくは琉衣に話を振ったのだ。それなのになぜこんなにも敵意を放つ顔で見られなければいけないのか。
「オレの妹に手を出すな。オマエでも許さないぞ。渡すもんか」
「誰もそんなこと言ってないよ!」
驚かせるなよ、と琉衣は安心した様子だ。別に驚かそうとかは全く思ってはいなかったんだけれど、結果として驚かせたみたいだ。ごめん。
「あ、そうだ。有主君、向こうに素敵なカフェがあるんだよ。行ってみない?」
「ああ、有主の好きそうな店なんだ。折角外に出たんだから、オレに付き合え」
「ええ……」
「遠慮しないで、ほらほら」
「行くぞー!」
半ば強引に引っ張られながら連れて行かれる。二人といるとやっぱり楽しいな。二人となら外でも大丈夫な気がする。気がするだけだけれど。
ここだよ、と姫野が指差したのは、まるで御伽話の世界から飛び出してきたような外観のお店だった。蔦が這う石造りの壁。三角の屋根。煙突。店先に置かれた黒板には『ようこそ物語の中へ カフェ・マジカル』とある。窓を覗くと、店内には星夜高校の生徒が数人談笑しているのが見えた。
「中学生が来るようなお店じゃないんじゃ」
ぼくがそんなことを言っているうちに、二人はドアを開けて意気揚々と店内へ入ってしまった。ドアの上部に付けられたベルがリロリンリン、と鳴った。




