第三十八面 村にやって来た部外者
外を知らないお姫様。塔から垂れる長い髪は、彼女に出会いをもたらす。彼と出会い、彼女は外を知る。
別にぼくは外に魅力は感じないのだけれど。
♥
荒い息が聞こえる。焦っているような、何かを恐れているような。身の危険を感じているような。袖を掴む手にはじっとりと汗が滲み、顔も背中もぐちゃぐちゃなのに口の中だけはどんどん乾いて行く。部屋中に響いているかのように自分の鼓動が五月蠅い。
階段を上ってくる足音。ドアノブに手がかけられる。そして、ドアが開く。
「有主、璃紗ちゃん来てるわよ。って、まだ制服着てないの。早くしなさい」
「ぁう」
ドアが閉められる。
ぼくは昨日決断したのである。始業式に出ると。
姫野が頑張ってくれたので夏休みの宿題は全部終わった。宿題は終わったが教科書の中身はさらっと撫でただけなので、後で琉衣にでも聞けばいいと姫野は言った。読書感想文は『赤毛のアン』にしたんだけどちょっとかわいすぎたかな。
そして今、ぼくは制服を手にしている。制服をハンガーから下ろして手に取っただけでこんな状態なんだけど大丈夫なのかぼくは。
ちらりと姿見を見る。
昨日、ぼくはみんなの前で宣言してしまったのだ。明日は学校に行くからワンダーランドには来られない。と。だから、ぼくは学校へ行くしかない。大丈夫だ。駄目だったら、鏡をくぐればいい。みんながいてくれる。
まるで苦手な野菜を食べる子供みたいに、息を止めて学校指定のワイシャツに袖を通す。ボタンを留めて、呼吸を再開する。何だ、思ったより平気じゃないか。これなら何とかなりそうだ。約五ヶ月振りにリュックを背負い、ぼくは部屋を出た。体中に響く轟音のような鼓動がさらに反響してぐわんぐわんと頭を掻きまわしていく。しっかりと床を踏みしめていないと倒れてしまいそうだ。
階段を下りると、母が待ち構えていた。
「無理はしないでね」
「うん。ありがとうお母さん」
「いってらっしゃい」
「……いってきます!」
玄関のドアを開ける。いつも本を買いに行く時も同じ光景なのに、なぜだかいつもとは違う気がした。新しい本の表紙を捲るときのような感覚だ。けれどそれはわくわくといったものではなくて、『世界が震撼した恐怖のホラー』とかいう帯が付いた本を捲るような感じだ。
「おはよう、有主君」
表紙を捲ると、そこには女の子が立っていた。三つ編みおさげの似合う眼鏡の女の子。青いラインの入ったスカート、星夜中学校の制服だ。
「姫野」
「よし、行こうか。とりあえず教室に入るまでは頑張ろう。辛くなったら保健室にでも逃げればいいよ。学校に行くっていうのがとりあえずの目標だからさ」
「……うん」
姫野と並んで歩き出す。
小学生の時は毎日こうして登校していた。最初は二人だったけれど、三年生くらいからそこに琉衣が加わって、三人で歩くようになった。中学校に入ってからは学校とそれぞれ家の位置関係により、琉衣が離脱することとなった。だから姫野と二人の登校に戻ったのだ。けれどそれも、四月の初めの頃の話。まさか再びこんな日が訪れようとは思ってもいなかった。
姫野が信号待ちで話し始めた。ぼくがずっと黙っているからかな。
「今朝もさ、散歩に行ったんだよ。そしたらね、大きな犬を連れたおじさんと公園で会ったの。あれは何だろう、サモエドとかグレートピレニーズとかなのかな。トトってば何を思ったのか相手の犬にものすごい威嚇してさあ。大きいけど優しそうな犬だったから、ごめんねって撫でてあげた。おじさんも笑ってたよ」
姫野の飼っている犬は小さくてかわいらしい外見とは裏腹に、元気のあり余り過ぎた頑固者というケアーンテリア種らしい性格をしている。ぼくも以前めちゃくちゃ吠えられた。あれはちょっと怖かった。
トト。という名前は『オズの魔法使い』に登場するドロシーの愛犬から取ったものだという。映画でトトを演じた犬と同じ種類だからだそうだ。確かにふわふわしてちょこちょこ動くのはまさにトトらしい。飼いにくい種類らしいけれど、小学校でミュージカルを見に行った時に偶然公演されたのが『オズの魔法使い』で、元々犬を飼う約束をしていた姫野は「どの種類がいい?」と親に聞かれて即決した。飼うのが難しいと分かったのは家に連れて帰ってからだそうだ。
犬のこととか、ぼくが最近読んだ本だとか、そんな話をしているうちに学校に辿り着いた。
「大丈夫だよ。わたしも一緒だからね」
まるで戦地に赴くかのように姫野は言う。
それから後はどうやって教室まで来たのかよく覚えていない。ほぼ無心で上靴を履きここまで来たのだ。周囲を見てしまうとここが学校だと気が付いて足がすくんでしまうのなら、何も考えずに歩けばいいと思ったから。
教室には同年代の少年少女の喧騒が満ちていた。「おはよー」と言う姫野に軽く返事をしていた面々が、ぎょろっとぼくを見る。村にやって来た部外者を見るかのようにじろじろと見られる。そして、ひそひそと話す声。
「あれ、神山君?」
「学校来たの?」
「マジかよ」
「姫野が連れてきたのか」
「アリスちゃんのおでましじゃねえか」
姫野はぼくの手を引いて教室に入る。
「有主君の席はここだよ。席替えのたびに一応移動してるから」
一番窓側の後ろから二番目。リュックを机に下ろす。姫野は少し離れた席らしく、窓から三列目の前から三番目のようだ。「何かあったら言ってね」と言い残し自分の席へ向かって行った。とりあえず自分の周囲を確認してみると、前の席の男子は漫画雑誌を開いていて、斜め前の席の女子はファッション誌を開いている。右隣の人はまだ来ていないようだ。斜め後ろの席の男子は机に突っ伏して眠っている。後ろの席の男子は、ぼくと目が合うとついっと逸らしてしまった。誰が誰だか分からない。クラスの人を覚える前に学校来なくなったからな。
談笑していた男子のグループから一人が輪を抜けて、こちらを指差した。にやりと笑った顔。こいつは覚えている。名前は忘れたけど。ぼくが怪我をさせてしまった相手だ。ただ、ぼくの方が被害者である。
「おー、見ない顔だー! 転校生じゃねえ!?」
周りの男子数人も「本当だー!」などと言っている。
「よお、転校生」
目の前までやって来て、そいつはそう言った。「ちょっと!」と姫野が立ち上がる。
「なあ委員長、こいつ転校生?」
聞かれて、姫野は「そんなわけないでしょ」と言っているけれど、男子数人の「転校生! 転校生!」という歓声に続きを止められてしまう。
「兎さん追い駆けて、ここまで迷い込んじゃった? アリスちゃーん。ここは不思議の国じゃなくて中学校ですよー?」
右隣の机に座って、にやにや笑う。
「……やめろ」
「アリスちゃん、休み時間にトランプでもしようか」
「やめろ」
斜め前の席のファッション誌女子がくすくす笑いながらぼくを見ていた。クラスの半分近い視線がぼくを好奇の目で見る。
「人間チェスでもいいんじゃないの」
誰かの声に多くが同調する。姫野が何か言っているけれど、ざわめきにかき消されてぼくにはよく聞こえない。
図書館で借りた本に落書きがされていた。しかも一番読みたかったページに。今まさにそんな気分だ。頭の中でぐるぐると渦を巻くみんなの大合唱に体の中枢まで侵されていくような、そんな不快さ。頭が痛いのか、吐き気がするのか、それとも心が痛いのか、ぼくには分からない。
「アリスちゃーん」
「ふふふ、アリスだって」
「ちょっとこじつけっぽくない?」
「いやでも読めるし」
「アリス」
「へへへ」
「ねえ、あれ大丈夫?」
「アリスだってさ」
やめろ。やめろ。やめろ。ぼくをそうやって呼ぶな。おまえらが、アリスって呼ぶな。
「やめろっ!」
扇動していた男子の目の前にぼくは腕を伸ばしていた。握った拳は相手に受け止められている。
「んっ。はな、離せ」
「あの時さあ、マジで痛かったからな。フザケんなよ」
「巫山戯てるのはどっちだよ」
「何だあ、やる気かあ?」
視界が揺れていた。人に囲まれているからか、学校に来てしまったからか、こんな状況だからか、分からない。脳味噌までぐにゅぐにゅ捩れているみたいだ。何だか気持ち悪くなってきた。
「ねえ、そこオレの席なんだけど」
割って入ってきた男子が机に座っていたやつを突き飛ばし、何事もなかったかのように席に着く。
「宮内、何しやがる」
「だからあ、ここオレの席なの。人の机に座んなって言ってるの、分かる?」
興が冷めてしまったのか、教室でざわつく音は嘲笑から談笑へと戻っていく。扇動していた男子も舌打ちしながら輪に戻って行った。
「おはよう有主。顔色悪いよ、大丈夫か」
少し茶色がかった薄い色の髪に、そこそこ格好いいと言われる顔。外にいるのに家から出ないぼくと同じくらい色白。相変わらず薄幸そうな空気を纏っているように見える。
「琉衣……」
安心したんだろうか、それとも限界だったんだろうか、体から力が抜ける。
「うわっ、有主ぃ!」
気が付くとぼくはベッドに寝ていた。周りを囲むカーテン。その向こうから聞こえてくる話し声。この声は、姫野と琉衣と、多分保健室の先生だ。
起き上がるとベッドが軋んだ。その音に気が付いたのか、足音がしてカーテンが開かれる。
「有主君、よかった。びっくりしたよもう」
「さすがにオレもあんな倒れ方はしないかなあ」
「やめて、琉衣君まで倒れないで」
「今日は大丈夫だよ璃紗ちゃん」
寝起きでぼんやりしたぼくの口から出たのは「おひゃぅ」という謎の音だった。おそらく「おはよう」と言おうとしたんだと思う。姫野と琉衣が噴き出す。
「今何時。始業式は」
「もう終わっちゃったよ。今はロングホームルーム。わたし達は先生に言われて様子を見に来たってところ」
「教室まで戻れそうか」
教室……。
「神山君、ちょっと緊張しちゃったのかな。熱もないし、本人が大丈夫なら早退とかにはしないけど」
保健室の先生はそう言っている。
ワンダーランドのみんなに宣言までしてここまで来たんだ。ここで逃げるわけにはいかない。
「琉衣、傍から離れないで」
「席隣だしな。よし、任せろ」
「頑張りすぎて琉衣君まで倒れないでよね」
「だからあ、今日は大丈夫だってば」
よーし、行くぞ有主。と言って琉衣はぼくの手を掴む。上靴を履いて、ぼくは保健室を後にした。




