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アリス少年と鏡ノ空間  作者: 月城こと葉
五冊目 ウミガメ食堂の夏
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第三十七面 ここに来ればいいのだから

 花火で遊んだ翌朝、ホテルの朝食バイキングを食べてすぐに出発した。食堂に立ち寄るとパーヴァリさんがお土産をくれたけれど、うどんの生麺だった。雰囲気ぶち壊しだと思う。


 二日目に降り立った岩場で待っていると、『日の出 HINODE』というヘッドマークを付けた汽車がやって来た。南西の国を昨夜出発した銀河鉄道だそうで、これに乗ると夕方頃北東の森に着くのだという。そうして乗り込んだぼく達は、車内で思い出話に花を咲かせながら猫と帽子屋の家へ帰ってきたのだ。待ち構えていた公爵夫人に早速抱きしめられるニールさんを見て、こちらも早速アーサーさんが不愉快そうな顔をしていた。ホテルの売店で買ったクッキーを見せると夫人は満足したようだった。


 思い出を胸に、ぼくは鏡をくぐる。





          ◆





 ぼくが帰ると、丁度両親も帰ってきたところだった。ぎりぎりで先に戻れてよかったと思う。


 そうして、ぼくの夏の旅行は終わったのだ。


 この夏のことはきっと忘れない。





「有主君、ちょっと焼けた?」


 思い出に耽っていたぼくを現実に引き戻したのは、そんな女の子の声とエアコンの音だった。


 海への旅行から少し経った今日、姫野が家に乗り込んできた。一学期の分を抜粋して教えてやる、心して臨め。それが終わったら夏休みの宿題だ、逃げることは絶対に許さん。笑顔でそう言う姫野の姿はチェスよりも恐ろしいものだった。もちろん逃れることはできず、こうして居間でテーブルを挟んで向かい合っている。部屋に上がってくるのは阻止した。


「外に出かけたの?」

「あ、えーと、本を買いに……」


 日焼け止めはちゃんと塗っていたんだけどな。やっぱり汗とかで流れてしまうんだろうか。


「まあいいや。はい、次はここ」


 姫野は数学の教科書を指し示す。


「これ覚えておけばだいたい……」

「姫野」

「何」

「熱心なところ申し訳ないんだけどさ、ぼくは学校行く気ないよ」


 教科書を指していた右手がぎゅっと握られる。まさか、殴られる!?


 条件反射的に身構えてしまったぼくだったが、姫野がそんなことするはずもなく、握られた手は開かれる。と、油断していたらデコピンされた。


「馬鹿」

「えー、ぼくは馬鹿じゃないよ。小学生の時それなりな点取ってたでしょ」

「違う、そうじゃない」


 姫野はちょっとムッとした顔になる。


「こっちの気持ちも考えて」

「よく分からないんだけど」


 開けられた窓から蝉の鳴き声が居間に迷い込んでくる。鳴き声そのものも暑さであるかのように纏わりついてくるのでとても気になる。


「有主君は家に逃げて満足してるのかもしれないけれど、こっちの気持ちも考えてよ。これから中学校生活が始まる、わくわく。って思ってたら友達が不登校になるんだよ」

「そんなこと言われても」


 そんなこと言われても困る。


 ぼくだって好きで不登校になったわけではない。理由があってこうなっているのだ。何もなければ姫野と一緒に登校だってするよ。けれど、制服に手を通そうとするだけで拒否反応のようなものを起こしてしまうのだから致命傷なのは明らかだ。


「クラス全員が敵なわけじゃないでしょ」

「味方の方が少ないでしょ」


 姫野は眼鏡のブリッジを押し上げて溜息をつく。


「わたしだってそうだけど、琉衣るい君だって心配してる」

「琉衣が?」

「心配しすぎて倒れたらどうするの」

「まさか、そこまで弱いなんてことないと思うけど」


 けれど、そうか。ぼくのことを心配している人も少なからずいるのか。


「無理にとは言わないよ。でも、少し考えてほしいの。逃げて、閉じ籠って、それでいいの。全然変わらないよ、昔と」

「変わらなくていいよ、別に」

「本当に変わらないね」


 眼鏡の奥で目を細めながら笑う姫野も変わってないよ。そのおさげの三つ編みも相変わらず似合っている。


「変な顔をするな、アリスって呼ぶぞ」


 チェスにも勝るおどろおどろしい空気を纏いながら姫野は数学の教科書を指差した。






          ◇





 鬼教官姫野の指導が終わったのは午後三時を回った頃だった。朝の九時からやっていたから実質学校へ行っていたようなものだ。母も「給食よー」とか言いながら昼食を持ってきていたし。解放されたと思ったら、帰り際に姫野はこう言ったのだ。明日も来るから覚悟しておけ、と。


「ナオユキ、何かあったのか」


 鏡をくぐり、外を見ると雨模様だったのでぼくはリビングへやって来た。すると、そこで待っていたのは緑のクラブのジャックだった。無表情な緑の瞳がぼくを見ている。


「エドウィン! 謹慎解けたの」

「ああ」


 ソファに座り、偉そうに足を組んでいるエドウィンの前にはティーカップが置かれている。珍しい、エドウィンもお茶会に参加しているのだろうか。と思ったけれど、リビングにはそもそもエドウィンしかいなかった。


「あれ、みんなは」


 エドウィンは無言で外を指差す。


「学習しない帽子屋が外で準備をしたから雨の中片付けている」

「ええ……」


 アーサーさんも懲りない人だな。晴れた空の下、紅茶を飲むため海へ行ったのに結局食堂の手伝いに追われちゃったからな。紅茶自体は飲めていたみたいだったけれど、求めていた快適紅茶ライフとは程遠かったんだと思う。だからといって雨が降るのを分かっているのに意地でも外で飲もうとするとは筋金入りの紅茶好きというか、もはや中毒なんじゃないだろうか。


 透き通る水色すいしょくのお茶が揺れるティーカップには緑のクラブが描かれている。


「それ、もしかしてエドウィン用なの」

「一応そうらしい。滅多に飲まないがな」


 まあ座れ、と言われたので、ぼくは向かいのソファに腰を下ろす。


「オレはイーハトヴの緑茶という茶が好きだ。輸入品だからなかなか手には入らないが」

「緑茶だったら家にあるけど、今度持ってこようか」


 無表情な緑の瞳がきらりと光った。一瞬嬉しそうに緩んだ口はすぐに引き締められてしまったが。


「本当か」

「うん」

「オマエはいいやつだな」


 面と向かってそんなこと言われるとちょっと照れる。


 紅茶を一口飲んで、エドウィンは足を組み直す。


「クラウスから聞いた。海、楽しかったそうだな」

「うん。エドウィンも来れればよかったんだけど」

「オレはいいよ。楽しいとか、よく分からないし」


 エドウィンの表情は変わらない。話し方も余り抑揚がなく淡々としたものだから、その感情は全く読み取れない。ぼくがエスパーではないから、とも言えるかもしれないが、エスパーでもエドウィンの思っていることは分からない気がする。


 びしょ濡れのアーサーさんとニールさんが帰ってきた。今日はルルーさんとナザリオは来ていなかったみたいだ。


「ああ、アリス君。いらっしゃい。着替えて来ますので、お茶はそれからでよろしいですか」

「はい」


 水も滴るいい男が二人揃って廊下に消える。


「ところでナオユキ、何かあったのか。入って来た時思いつめた顔をしていた」

「あ、えーとね。学校のことでちょっと」


 ふむ、と言ってエドウィンはぼくを見つめる。話を聞いてやろうとかそういうことなんだろうけれど、真顔で見られると怖い。アーサーさんの微笑に見つめられてもそれはそれで怖い。クラウスとかナザリオとかの方が話はしやすいということが海への旅行で分かった。歳が近いからかもしれないけれど。いや、近くはないのかな。


 ふと見ると、ぼくの膝の上には拳が握られていた。無意識のうちに力が入っていたらしい。喋ろうとすると、口が開いてなるものかと抵抗してきた。


「ナオユキ?」


 雨粒が激しく窓に打付けられる音がする。森の木々を揺らす風の音も。それらがまるで教室の喧騒のようにぼくを包み込んでいる。忘れたいこと。思い出したくないこと。ざわざわと自分の中にも雨が吹き込んでくるような、そんな感じがした。


「休み明けから学校に来ないかって幼馴染が」


 ぼくが言葉を振り絞ると、エドウィンは「なるほどな」と小さく呟いた。


「オマエ確か不登校だな」

「うん」

「だから昼間でもここに来ていた」

「うん」


 静かにお茶を飲み、じっとぼくを見る。


 丁度そこへアーサーさんとニールさんが戻ってきた。ニールさんはエドウィンの横にどかっと座り、アーサーさんはキッチンでお湯を沸かす。エドウィンは勝手に飲んでいたのかな。


「何の話をしていたのです? アリス君、元気なさそうですね」


 キッチンから声だけが聞こえてくる。


「ナオユキが休み明けから学校に行くかもしれないそうだ」

「行けばいいのでは」

「おう、行け行け」


 無責任な大人め。


「どうするかはオマエが決めることじゃないのか」


 エドウィンまでそんなことを言う。


「このままではいけないと思うのなら思い切って外に出てみればいい。やっぱり駄目だと思ったら、ここに来ればいいのだから」


 優しさなんて微塵も匂わせない声でエドウィンは言う。吹き荒れていた暴風雨が終わったような、そんな感じがした。


 ああ、そうか。今のぼくにはここがあるんだ。逃げ場所じゃなくて、居場所がある。


「ちょっと考えてみようかな」


 口ではそう言ったけれど、やっぱり頭や心は学校へ向いてはいないのだと思う。夏休みはまだ残っているから、ゆっくり考えればいいだろう。帰って来られる居場所はある、だからきっと大丈夫だ、と思えるといいな。







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