第三十六面 儚さこそが美しい
線路を走る列車の音でぼくは目を覚ました。カーテンの隙間から見える外はまだ少し薄暗い。
「貨物特急だよ」
ストレッチをしていたクラウスが言う。
「おはよ、アリス君」
「おはよう。貨物特急って?」
「ここから少し行ったところに漁港があるんだ。朝の漁で獲れた魚を街の市場まで運ぶのが貨物特急。もちろん魚以外に物資とかも輸送してるけど。ほら、お魚は新鮮なうちに食べたいでしょ」
「なるほど」
「線路は銀河鉄道のやつなんだって」
ナザリオはまだぐっすり眠っていた。ぼくももう少しだけ寝ようかな。
「朝ご飯までまだ時間あるから、おれちょっと外走ってくるよ。あ、戻って来た時に寝てたら起こしてあげる。じゃね」
足踏みしながらそう言ったクラウスは部屋を出て行った。さすが騎士と言うべきか、体力作りは大切なのだろう。
少しして、「ご飯だよぉ」とヘロヘロのクラウスが戻って来たのだけれど、どうやら体力自体はないようだ。どうして王宮騎士なんてやっているのだろう。
「眩しい日差し! 潮の匂い! 爽やかな風! かわいい僕! 今日もいい天気!」
ビキニ姿のルルーさんが両手を上げて伸びをする。
「昨日の夜は災難だったねえ、クラウス君、アリス君」
「己の未熟さを思い知りました。早く兄貴みたいにならないと……」
「あはは! やだよエドウィンが二人になったら。何言っても笑ってくれないじゃん!」
そういう意味じゃないと思いますよルルーさん。
「今日は何して遊ぶ? アリス君が持ってきてくれたこのボール、僕もっと使いたいな」
「今日はちゃんとビーチバレーやりましょうか」
「おおー! やったね。ルール、ルール教えてよ」
わくわくした様子で迫って来るルルーさんにぼくは答えることができない。ビーチボールを持ってきたのはよかったけれど、ぼくはビーチバレーどころかバレーボールのルールも知らないのだ。小学生の時にソフトバレーボールを体育でやったけれど、ぼくはコートに立っていただけだったのでルールの把握はしていない。
ボールを持ったルルーさんが小首を傾げる。その動きに合わせてうさ耳がぴょこんと揺れた。
「アリス君?」
「あ、あの、ぼく。ぼくルール知らなくて……」
ナザリオとクラウスは「ええーっ」と言ったけれど、ルルーさんは「そっか」と言ってぼくの頭を撫でた。
「ボール遊びする相手がいなかったんだよね。ごめんね」
「あ、いえ」
よしよし、と撫でる。みんな優しくて、ここは本当にいい所だな。ここに来られてよかった。
「これはボールを打ち合う遊びなのではないですか」
ルルーさんの手からボールをひょいと取ったアーサーさんが言う。手元でぽんぽんしながら、座っているぼく達を見下ろす。それを奪って、ニールさんがジャンプサーブを繰り出した。ナザリオに直撃する。
「ナイスキャッチ、ナザリオ」
「キャッチじゃないよお、痛いよお」
頭頂部をさすりながらナザリオはニールさんを睨みつける。ボールを拾って投げ返す。が、力なく漂ったボールは目の前に落下した。チェシャ猫と眠り鼠の間に一瞬火花が散る。このままじゃ大事になるな。
「えーと、すみませーん! それですね、二チームに分かれてやるんですよ。相手のコートにボールを落とせば勝ち、だったかな」
「よっしゃ任せろ! じゃあ、ここでチームな」
ぼく、ナザリオ、ルルーさん。クラウス、ニールさん、アーサーさん。というチーム分けだ。相手チーム強すぎると思うんだけど大丈夫かな。
大丈夫じゃなかった。
ネットがなかったのでいわばドッジボール状態だ。ルルーさんとニールさんがおかしなテンションでボールをお互いのコート内に叩き付け続けるという謎行為を繰り返し、後ろにいたぼく達は砂を大量に浴び続けることとなった。
これはさすがにぼくでも間違ったやり方だって分かるよ。
「わーい! 楽しいねえー!」
「ははははは! くらえっ!」
何だこの大人げない大人達は。海に行くとみんな童心に返ってはしゃぐというのはこういうことなんだろうか。
「みなさーん! ここにいたんですね」
何だかもう何か分からないボールを使った戦いを繰り広げていたところへ、声がかかった。ぼくを含め全員の顔が変な風に歪む。
「今日もお手伝いよろしくお願いします。お昼と夜は今日もご馳走しますから」
「えぇ……」
パーヴァリ・ヒマネン、恐ろしいウミガメモドキだ。
ぼく達は海へ遊びにやって来た。しかし、どうしてか食堂の手伝いをしている。
「パーヴァリさん」
「なあに?」
「今日もサラダとうどんみたいですね。どうしてですか」
パーヴァリさんは困ったように肩を竦める。
「どうしてだと思います?」
「他の食材を仕入れることができなかったからですか」
「まあ、そんなもんです」
牛顔の亀はうんうん頷く。
「じゃあ、どうして仕入れることができなかったんですか」
「どうしてかな」
「発注ミスをした」
「違います」
牛顔の亀は首を横に振る。
「お店の場所は関係ありますか」
「まあまあですね」
「んーと。食材が届かないんですか」
「そうですね」
「それはどうして?」
何だかウミガメのスープ問題をしているみたいだ。しかもウミガメモドキを相手に。
注文分の料理を作り終えたパーヴァリさんは手が空いているらしく、ぼくの質問に答えてくれている。回りくどいけれど。
「食材を運ぶルートで何かあったんですか」
パーヴァリさんは首を甲羅に引っ込めてしまった。くぐもった「たぶんそうです」という声が聞こえてくる。手足も引っ込めて、甲羅だけでずるずる滑っていく。
「パーヴァリさん」
冷蔵庫の前で甲羅が止まる。
「食材はどこから仕入れているんですか」
甲羅は答えない。
「提携しているお店とか、そういうのがあるんですか」
「そうです」
それなら、提携しているお店で何かがあったということか。
「季節は関係ありますか」
パーヴァリさんは甲羅から牛の頭を出す。
「一応ね」
「雨が降るから?」
「そうです」
雨のせいで提携しているお店に何かが起こった?
「まさか土砂崩れでお店が物理的に潰れたなんてことは」
パーヴァリさんが声を出して泣き始めた。まさか合っていたのか。
「すみません」
「いえ、大丈夫です。この時季は毎年この危機が訪れるかどうかドキドキなんですよ」
どうして海の家なんてやっているんだろう……。夏になったら雨ばかり降るのはいつものことってみんなも言っていたし、それを分かっていて土砂崩れになりかねない土地に建っている提携店も提携店だし、それでもそこと提携して夏にお店をやっているパーヴァリさんもパーヴァリさんだ。
「スリル満点ですね」
「そうです、楽しいですよ」
楽しんでいるのならぼくにこれ以上何かを言うことはできない。この問答はこれくらいにしておくか。
「アリス君、でしたよね」
「あ、はい」
「お皿、棚に戻しておいてください」
「はーい」
先程までのやり取りがまるでなかったかのようにパーヴァリさんは仕事に戻っていく。ルルーさんが注文票を持って厨房へやって来た。
「パーヴァリさんも一緒にどうですか」
月明かり差し込む店内に転がっていた甲羅が動き、牛の頭が出てくる。
お昼ご飯にかけうどん、夜ご飯に冷やしたぬきうどんをいただいたぼく達はひとまずホテルに戻り、しばし休憩の後ウミガメ食堂へ来ていた。夜だけれど、ぼくとクラウスだけではないからチェスに襲われる心配はおそらくないだろう。
パーヴァリさんは何事かと目を丸くしている。
「花火しましょう、花火。今回のために、ぼく買って来たんですよ。折角だからパーヴァリさんも一緒に」
「んああああありがとうございます! 楽しそうですね!」
ワンダーランドには打ち上げ花火はあれど手持ち花火はないのだという。
「こうして蝋燭の火に近付けるとですね……」
ぼくが持った手持ち花火の先端から淡い赤色の火花が散った。ススキの穂のように伸びる。
「ほら、小さいけれど花火です」
「すっごーい! おれにもやらせて!」
袋から一本取り出したナザリオが花火の先端に火を点ける。すると、小さな火の玉をくっ付けた先っちょからパチパチと、これもまた小さな火花が弾けた。ナザリオがなぜかしょんぼりした顔になる。
「何だかアリスのやつよりしょぼいよ」
「それは線香花火って言って、そういうものなんだよ。その儚さこそが美しいって前に誰かが言ってた」
「ふーん。おれは派手なやつの方がいいなあ」
「線香花火もいいよ。綺麗でしょ」
「アリスの国ではこういう美しさってのが大事なの? あ、馬鹿にしてるとかじゃなくて、疑問」
こういう美しさ、か。確かに、日本では散っていく桜とか、消えてしまう花火とか、一瞬光る露とか、昔からそういうものを綺麗だって考えていたんだろうな。
「うん、そうだよ。ほんの一瞬の美しさを大事にするんだよ。その時その時が大切な景色だからね」
「ふうーん。いいなあ、そういうの」
そんなぼく達の目の前をススキ型花火で戦いながらニールさんとルルーさんが走って行く。大人げないな本当に。尻尾の毛が焦げても知りませんよ。
ねずみ花火に火を点けたパーヴァリさんがびっくりして顔を引っ込める。くるくる回りながらねずみ花火はクラウスの足下を過ぎる。
くすくす笑いながらアーサーさんがみんなの様子を見守っていた。
「アーサーさんも、ほら」
「私にそのようなもの持たせて大丈夫ですか?」
アーサーさんは不敵な笑みを浮かべる。麦藁帽子を被っているのに加えて、蝋燭の火で下から照らされているため不気味な影が端整な顔に揺れている。火を持たせると性格が変わるとかそういう人なのだろうか。ぼくが警戒していると、「冗談ですよ」と言って実に楽しそうに笑った。ぼくの手から線香花火を奪うように取り、蝋燭の火を点ける。小さな火球から小さな火花が弾ける。
「同時に火を点けて、最後まで火の玉を落とさなかった人が勝ちって、よくやるんです」
「おおー! 面白そう! アリス君、おれにもその種類のやつやらせてよ」
割って入って来たクラウスがぶつかったためアーサーさんの持っていた線香花火から火球が落ちた。一瞬戦闘態勢のニールさんに似た殺気を感じたけれど気のせいだと思いたい。クラウスはぺこぺこと謝っている。
ああ、楽しい。
楽しい。
誰かとこうして過ごす夏。こんな時間を共有できる誰かがいるなんて夢みたいだ。
この一瞬このひとときを、大切にしたいな。
残り七本だったので、ねずみ花火に追い駆けられていたパーヴァリさんも呼び戻してみんなで線香花火に火を点ける。
小さい花火は料理の演出に使えそうですね、と料理人らしいことを言う。
ぼくが手にした線香花火の火球がぽとりと落ちるまで、みんなで輪になって砂浜に座っていた。そうして夜は更けていく。