第三十五面 おれだって王宮騎士だ!
麦藁帽子を被り直して、カフェエプロンを装備したアーサーさんが「いらっしゃいませ」と言うと店表にいた女の人達が歓声を上げた。
何だこれ。
パーヴァリさんがアーサーさんに看板になれと言い、客引きをすることになった。獣である自分の店には人間があまり来ない。美形のアーサーさんを店表に置けば客を呼べると思うから、らしい。パーヴァリさんもお客さんも勘違いしているけれどアーサーさんはあれでもドミノだ。双子だと言っても「二卵性かなー」で済まされそうなレベルに似ているニールさんが不服そうに爪を出していたけれど、猫耳があるから仕方ないと思う。
「あのさあ、うどんは美味しかったよ。美味しかったけどさ」
私服に着替えたクラウスがお皿を洗いながら言った。
「何でこんなことになってるのかなあー」
水着のままのナザリオがお皿を拭きながら続きを言う。
「ぼくに聞かれても」
そしてぼくはそのお皿を棚に戻す。
なぜかぼく達まで手伝う羽目になってしまっていた。アーサーさん効果は凄まじいもので、先程浜辺でこちらを睨んでいた人達さえやって来ている。奥さんや娘さんにお父さんも連れられて来ているらしかった。帽子屋さんすごいな。ドミノだってバレませんように。
「はーい、お皿お皿」
ルルーさんがお皿を持ってくる。
「三月ウサギさん、おれ達何でこんなことになってるんですか」
「不可抗力だよね!」
「王宮騎士は副業禁止なんですけど」
「じゃあクラウス君だけお礼金貰わなければいいよ」
「ええ……」
ニールさんはというと、テラス席の外れで猫らしく日向ぼっこをしている。「拗ねてるんですよ」とアーサーさんは言っていた。ニールさんも働きたかったのかなあ。
「ああ、疲れた」
夜。バスタオルを被ったクラウスがベッドに崩れ落ちた。ナザリオは見慣れたパジャマ姿でとっくに眠っている。
あの後日が暮れるまで働かされた挙句、お礼金とかは特になかった。しかし夕ご飯をご馳走になった。冷やしきつねうどんだったけれど。
「お風呂気持ちよかったねえ」
「早く乾かさないと風邪ひくよ」
動きたくなーい、とクラウスはベッドでごろごろしている。ああもう、布団が濡れちゃうよ。
「ほら、ドライヤー」
「おー、ありがとうアリス君」
受け取ったドライヤーのスイッチを入れ、髪を乾かそうとする。が、コードの可動域から出たためプラグが抜けた。無言のドライヤーを手にクラウスは動かなくなる。
「風邪ひくって」
コンセントを差し直し、温風をクラウスに浴びせる。黒髪が風に揺れた。
このドライヤーもイーハトヴの発明だそうで、北東の超機械国家は蒸気機関や電源装置を駆使してあらゆる便利道具を作っているのだという。ただ、作り方は国家機密だそうだ。すごいよこのドライヤー、家で使っているのよりハイテクな気がする。温風と冷風、それぞれの風量調整機能に加えて髪にいい成分を放出するスイッチがある。何が出てくるのかも国家機密だそうだ。ちょっと怖いので使わないでおくけれど。あとすごく早く乾く。何これすごいよ。
「ん。アリス君さあ、確か夜に遊べるんだって言って小さい花火持ってきてたよね。ごめんねこんなことになっちゃって」
「明日の夜でいいよ」
クラウスが謝ることではない。ぼく達はパーヴァリさんに振り回されただけだ。とんでもない食堂を見付けたナザリオ本人はもうぐっすりだ。無責任だよなあ。
バスタオルを放り投げてクラウスは立ち上がる。
「カードしようか」
「昼間いいだけやったでしょ」
「でもまだ寝る時間じゃないし……」
クラウスは窓辺に歩み寄る。星でも見ているのか、黙って外を眺めている。ぼくはというと、荷物の整理をしていた。旅行の荷物が行きは綺麗に入っていたのに帰りは入りきらないというのはよくあることだ。そうならないようにこうして適宜詰め直し作業をしている。
ナザリオの寝息とぼくがごそごそバッグをいじる音だけがする。
アーサーさん達はどうしているのかな。三人でミッドナイトティーだろうか。雨を避けてここまで来たのに結局紅茶飲めていなかったからな。
「あれ?」
クラウスが声を上げる。
「どうしたの」
「あれ見て」
持っていた着替えをバッグに突っ込み窓辺に駆けよる。クラウスの指差す先、砂浜に人影が見えた。
「あれってここに泊まってるお客さんかな。どうしてこんな時間に外にいるんだろう」
「星でも見てるんじゃないの」
クラウスは険しい顔をしている。
「おれちょっと様子見に」
劈くような叫び声が聞こえてきたのはその直後だった。人は一人なのに、明らかに一人分ではない影がその人の周囲に揺れているのが見えた。
「行かなきゃ!」
クラウスが部屋を飛び出す。
あれってもしかしてチェス?
「え、待ってクラウス! 剣忘れてるよ!」
ベッドの脇に置いてあった剣を手に取り、ぼくは後を追った。
「クラウス! やっと追いついた。剣忘れてるよ、しっかりしてよ王宮騎士」
「あ、ごめん」
クラウスは苦笑しつつ剣を受け取る。
「あれはチェス?」
「そう。おそらく赤のビショップ」
血塗られたように真っ赤な法衣を纏った人物が立っていた。赤い石の付いた大振りな杖を携え、斜め前を眺めている。ぼく達のことは視界に入っているようだけれど動く様子はない。
先程の悲鳴の主だろう。女の人が死に物狂いでこちらへ逃げてくる。
「た、助けて下さい」
「アリス君、その人を連れてホテルに戻って」
クラウスは鞘から剣を抜く。エドウィンが佩いているフランベルジュとは趣の異なる細身の剣だ。曰く、エストックという種類だそうだ。月光を受けてきらりと光る。
女の人はぼくの手を掴んで「ありがとうございます。ありがとうございます」と泣いている。逃げようとして転んだのか、白いフレアスカートに砂が付いていた。膝もすりむいているみたいだ。
「行きましょう」
「あ、だめです」
「え?」
「すみません、少しそちらに」
そう言って斜め前を指差す。ぼくに動けと言うことだろうか。
「おれだって王宮騎士だ! 赤のピショップ、覚悟!」
向こうは任せておいて大丈夫だろう、あれでもエドウィンの弟だし。
ぼくは斜め後方へずれてから女の人に手を差し出す。
「行きましょう」
「ふふ」
女の人が笑う。その綺麗めの笑顔に薄っすら影が差しているように見えた。なぜだか背筋がざわざわする。
「優しい子、ありがとう」
ヤバい。そう思った時にはもう遅かった。
女の人はぼくの手をがっちりと掴んだまま離さない。妖しく笑った姿が影に包まれ、それに気が付いたクラウスが振り向く。しかしビショップの相手をしているクラウスは身動きが取れない。影が霧散すると、女の人の格好がブラウスとスカートから甲冑に変わっていた。手から伸びる影がぼくに纏わりついてくる。どうやら彼女もチェスだったらしい。おそらく白のポーンだろう。
「ぐぎ、ぎぎぎ。ぐぎぎぎぎ」
軋むような声を上げてポーンはぼくに影を絡ませてくる。
「アリス君!」
クラウスの声にポーンもビショップも反応した。
「アリス? ア、リス……。あなた、が?」
そう。と言ってポーンはぼくから手を離す。纏わりついていた影も消える。
「ふぅん……」
にやりと笑ったポーンの姿が影に溶けて消えた。何だったんだ。アリスという名前は彼女にとって何か意味のあるものなのだろうか。
ビショップの反応はポーンのそれと大きく違うもので、斜めに進みながらどんどんこちらへ近づいてくる。先程ポーンに言われて動いたせいで、ぼくはビショップの斜め前にも来てしまっていた。進行方向にいないクラウスのことは完全に無視している。
「アリス、アリス……。おまえが?」
ビショップが杖を振るうと、先端の石から影が放たれた。斜め一直線上に伸びる影が迫って来る。
クラウスが攻撃を仕掛けようとするけれど、砂に足を取られて思うように動けないでいた。変に滑ってビショップの斜め前に躍り出る。そしてエストックの突きで杖を弾き飛ばす。ドヤ顔でぼくを振り向いているが、あれはおそらく偶然だ。なぜなら今バランスを崩して砂浜に倒れているからだ。格好悪い。
ビショップは倒れているクラウスを見下ろしている。斜め前だ。クラウスがいるからか、ぼくの方へは来られないみたいだ。いや、安心している場合じゃない。チェスが狙うのは人間だ。自分が対象から外れてラッキー、ではなくて、このままではクラウスが危ない。
影が揺れていた。伸ばされた影は杖を引っ張って来てビショップの手元に収める。そして、クラウスに狙いを定める。
「クラウスっ」
「おらあああああッ!」
ぼくの声が遮られて、別の影、何かの影がビショップの上に落ちた。そのまま降下して司教冠の脳天を叩く。冠ごと頭を叩き割られる勢いで攻撃されたビショップは砂浜に膝を付いた。
「二人共大丈夫」
丸い耳、細長い尻尾、着ているのはパジャマ。現れたのはナザリオだった。
冠を押さえながらビショップは影に消える。
「ありがとうナザリオ」
「あんなに騒がれたら目が覚めちゃうよー。追い掛けてみたらチェスと戦ってるしさあ」
ホテルの方を見ると、ニールさんが腕組をして立っていた。電気の点いている客室は出て来た時より増えていて、窓に人影が見える。みんな外の様子を窺っているのだろう。
「いてて。ありがとうヤマネ。チェスを追い払えるなんて、きみもやっぱりドミノなんだね」
「んえー、馬鹿にしてる?」
三人連れ立ってホテルへ戻る。入口に立っていたニールさんがぼくとクラウスにデコピンした。うう、痛い。
「オマエらなあ、人間だけで外に出るなんて無茶なことするんじゃねえ。殺されてたかもしれねえんだぞ」
「女の人がチェスに追われてたから。でも、その女の人もチェスで。ねえ、アリス君」
「え、あ、そう。そうなんですよニールさん。女のチェスでした」
ニールさんは頷く。
「そりゃあチェスにも女はいるだろうな。大方、色の違うチェスの諍いに巻き込まれたってところか。パッと見普通のトランプみたいなやつもいるからな、気を付けるんだぞ」
「はあーい」
「分かりました」
そして、ナザリオの頭を乱暴にぐしゃぐしゃと撫でる。
「ご苦労様」
「んー、おれまだまだ眠いよ。先に部屋に戻ってるね」
大きな欠伸をしながらナザリオは別棟へ歩いて行く。ぼくも一緒に戻ろうとしたらニールさんに呼び止められた。
「アリス」
「何ですか」
「クラウスも」
「んん?」
「チェスの叫び声は俺も聞こえていた。おそらく他の客達にもな。だが、誰も行こうとはしなかった、何故だと思う」
「ええー? そんなの分かんないですよー。チェシャ猫さんが心冷たいんじゃないですか」
クラウスがデコピンをくらう。
「フロントの横に客室状態の表示があるのを見なかったのか。全室全員部屋にいると書いてある。だから、外で襲われているのはここの客ではないと分かったんだ。この近隣のホテルはここだけだし、他にあるのはウミガメモドキの食堂くらいだからな」
つまり、ぼく達は確認せずに飛び出してみんなを心配させてしまったということか。
「誰かを助けようって動くことはいいことだけどな、ちゃんと状況を確認しろ」
「はあーい……」
「そうですね」
パジャマに着替えて横になる。
「アリス君、電気消していい?」
「うん」
アーサーさんとルルーさんは疲れて眠ってしまったそうで、騒動に気が付いていないのだとニールさんが言っていた。あの二人にもそういうことがあるんだな。
「兄貴と父さん元気かなあ」
暗がりからクラウスの声がする。
「お母さんは?」
「あ、母さんはね、いないんだ。おれが小さい時に事故で死んじゃったんだって」
「え。ごめん」
「いいよ」
寝返りを打ったクラウスがこちらを向く。カーテンの隙間から月明かりが差し込んでいるけれど、逆光になっているのでシルエットしか見えない。
「おれ、本当に小さい時でさ、母さんのこと全然覚えてないんだ。写真しか見たことなくて。兄貴も父さんもあまり話したくないみたいだから聞くに聞けないし。……どんな人だったのかなあ」
エドウィンは緑色の瞳をしているけれど、クラウスは緑ではなく青色の瞳だ。それぞれ両親からの遺伝なのだろうけれど、どっちがお母さんと同じなのかな。
「きっと優しい人だよ。エドウィンもクラウスも優しいから、きっとお母さんもそうだよ」
「そうだといいなあ」
そういえば、とクラウスは話題を変える。
「チェスがアリス君の名前に反応してたよね。心当たりとかある?」
「……いや、特に」
「不思議だねえ」
心辺りなら十分にあるじゃないか。ぼくがアリスで、ここがワンダーランドで、あれがチェスならば。この世界にとってアリスって何なんだ……。
「明日も遊ぼうねー。おやすみ」
再び寝返りを打ってクラウスは背を向ける。
「うん、おやすみ」
ぼくはまだ、この国、この世界にとって新参者で、知らないことばかりだ。




