第三十三面 ごゆっくり
夢を見ていた気がする。
電車に乗っている夢。過去の記憶。
親と出かけた時の思い出。幼稚園児だったぼくは靴も脱がずに座席に乗り、窓の外を見て怒られてしまった。おとなしくしなさい、と渡されたのは当時はまっていた綺麗な魚の絵本だった。
魚の絵本は今も本棚に入っている。ぼくはぎざぎざという愛称の魚が好きだ。格好いい魚で、憧れだったな。ちょっとツンデレっぽいんだけどね。
♥
揺さぶられた。それも思いっきり。痛い。
「おい、起きろ。アリス、クラウス、着いたぞ」
あれ? お母さんじゃない。この声は……。
「アーリースー」
「ニールさん?」
「お、おはよー。ほら、クラウスも起きろ」
あれあれ? 何で朝から目の前にニールさんがいるんだ?
「おはようございますアリス君。海に着きましたよ。他のお客さんもいますから、さっさと降りてしまいましょう」
アーサーさんもいる。ああ、そうか。
みんなで海に行くんだ。鏡の中で夜を明かしたのは初めてだな。
王宮騎士の威厳なんてどこかへ吹き飛ばしてしまっているクラウスが目を擦りながら大欠伸をしている。
「さあ、降りますよ」
アーサーさん、何だか引率の先生みたいだ。
「わあ! 海だぁっ……海、だ……」
ロボットの車掌さんに手を振られながら降り立ったのは、岩の目立つ海岸だった。ごつごつした景色に呆然としている間に銀河鉄道は空へ上って行った。曰く、このまま南西の国まで行くのだという。北東の国と南西の国は黄色同盟という何とも微妙な名前の同盟の下、協力関係にあるらしい。そもそも、銀河鉄道はその二国を結ぶ路線で、間に入っているワンダーランド国民が特別に乗車できるそうだ。要予約だけど。
「このような場所で降ろさなくてもいいと思うのですが」
「仕方ねえ、とりあえず歩くぞ」
よかった、ここが目的地というわけではないようだ。
北東の国とは陸続きだけれど、南東の国は島国で少し離れているためここには海があるのだという。今度地図でも見せてもらおうかな、言われただけじゃ地理がよく分からないや。
五分ほど歩くと、岩が砂浜に変わった。石畳の舗装がしてあったのでその道を進む。ほどなくして小さいけれど立派な宿泊施設が見えてきた。『HOTEL EAST COAST』と看板にある。『ホテル東海岸』か。南東の浜辺って言っていたけれど、東の海はここだけだから問題ないのかな。
フロントには紫のスペードを首から下げた女の人が座っていた。猫耳とうさ耳と鼠耳が入って来たのであからさまに顔を顰める。が、残りの面子を見て営業スマイルになる。
「ご予約の方ですか」
「予約はしていないのですが、六人分の部屋はありますか。二泊お願いします」
こんな朝早くからチェックインできるんだ。すごいなあ。
アーサーさんはカウンターに手を着いてお姉さんを覗き込むような体勢になる。お姉さんはほんの少し頬を赤らめているけれど、残念ながらその男は獣ですよ。
そうですね……。と、お姉さんはファイルを見ている。部屋の使用状況でも書いてあるのだろう。
「空きがもうなくなってしまうので、ドミノのお客様は別棟になってしまうのですが」
「全員別棟でいいですよ」
「あ、はい。分かりました。それでしたら三部屋取れますが。えーと、ツインツイントリプル」
ツインとツインとトリプルか。部屋割りはどうするんだろう。
アーサーさんはぼく達の方を振り向く。
「ルルーは一人がいいですよね」
「僕女の子だからね!」
「では、私と馬鹿猫がツイン。ルルーがツインで一人。ナザリオとクラウスとアリス君はトリプル。それでいいでしょうか」
「ああ」
「大丈夫だよ!」
「眠れればいいよ」
「OKです!」
「それでいいです」
フロントのお姉さんに向き直ってアーサーさんは部屋割りを告げる。
「はい、了解しました。では、二○二のツイン。二○三のツインがお一人。それと、二○八のトリプルになります。朝食と夕食はどうなさいますか」
「館内レストランだと事前予約が必要なのですか」
「大変申し訳ないのですが、ドミノを好まれないお客様もいらっしゃいますのでお時間ずらしているんですよ。なので、ドミノさんがいらっしゃる場合は事前予約が必要になります」
やっぱりそういう人はそれなりにいるんだな。ぼくも初めてニールさんの猫耳見た時なんじゃこりゃって思ったし。でも何だか差別っぽくてちょっと嫌だな。
ああ、駄目だ。思い出すな学校のことなんて。
「では朝食だけお願いします。夜は自分達でどうにかしますので」
「はい、了解しました。こちらにサインをお願いします。……はい。こちらがお部屋の鍵になります。案内図はそちらに貼ってありますので各自ご確認ください。それではごゆっくり」
受け取った鍵と朝食券をアーサーさんが配る。やっぱり引率の先生みたいだ。
とりあえず部屋に荷物を置こうということになり、ぞろぞろと別棟への渡り廊下を歩く。すれ違った他のお客さん達が「何でトランプがこっちに」みたいな顔をしていたけれど、その人達がトランプだと思っているであろううちの一人はドミノだ。
部屋に入ろうとしたらニールさんに袋を渡された。銀河鉄道内で買ったお弁当で、今日の朝ご飯だそうだ。お弁当を食べた後、お昼頃に海に行こうと言われた。とりあえず一休みだね。
ドミノ用別棟と言われたのでどんな部屋が待っているのかと思ったら普通のホテルの部屋だった。ヤバそうなものを想像したぼくの馬鹿。ドミノに失礼なのはどっちだよ。
「わーい、おれ、この一番寝やすそうなベッドがいい」
ナザリオが部屋に入るなり手前のベッドにダイブした。全部同じに見えるけれど何か違うのかな。
「これ全部同じだよね」
クラウスも同じことを思っていたみたいだ。眠り鼠には眠り鼠なりのこだわりがあるということだろうか。持参した枕を早速セッティングしている。
「アリス君はどっちがいい? 窓側と、真ん中」
「じゃあ真ん中」
「分かった。おれが窓側だね」
ボストンバッグをベッドの脇に下ろす。文字通り肩の荷が下りた。
部屋を見回して、旅行に来たんだなと改めて思う。家族旅行なんて両親の実家くらいだし、小学校の修学旅行にいい思い出はないから、こんなにわくわくする旅なんて実は初めてかもしれない。まだ始まったばかりだけどもう充分なくらい楽しいや。
小さいテーブルとソファがあったので、並んで座ってお弁当を袋から出す。日本の駅弁っぽいな、と思ったけれど北東の国イーハトヴはおそらくぼくの世界で言う日本に相当する国だろうから当然かもしれない。紙製の包みは青色で、白い星と銀河鉄道の絵が描かれている。『イーハトヴ名物銀河弁当』とある。音読するとナザリオとクラウスから歓声が上がった。ワンダーランドで使用されている文字は英語基準のアルファベットのようだけれど、話し言葉は日本語で通じているんだよな、どうなっているんだろう。それも今度聞いてみることにしよう。
銀河弁当の蓋を開けてみると、やっぱり日本の駅弁みたいだった。混ぜご飯に、芋らしきもののサラダ、漬物のようなもの、カップ入りの煮物、焼いた貝、小さいデザート。それと、ええとこれは、蕎麦か何かなのかな。
「おおー、美味しい。付いて来てよかったよ。兄貴には悪いけどさあ」
うん、美味しいねこれは。
ナザリオは蕎麦らしきものを突きながら「パスタ?」と首を捻っている。パスタではないと思うよ。
誰かと何かを食べる。学校に行っていれば給食や調理実習、他にも行事とかがあるだろう。ワンダーランドに来るようになってからはお茶会は毎日のようにしていたけれど、こうしてご飯を食べるのは初めてな気がする。誰かと食べると美味しさは何倍にもなるね。
デザートのお饅頭みたいなものが美味しかったな。大福と饅頭の中間のような、餅とも小麦粉生地とも言い難い不思議な食感で、中にはとろとろのクリームが入っていた。甘さ控えめだけれどしっかりとした牛乳のような味がしたんだ。
「来る途中で向こうに食堂が見えたんだよ。お昼に見に行ってみたいなぁ」
「ヤマネが積極的なのは珍しいね。じゃあ、後でチェシャ猫さん達にも言っておこう」
「わーい」
時計を確認して、「まだだいぶあるね」とクラウスが言う。
「何かする?」
「おれは寝てようかなあ。おやすみー」
ナザリオはベッドの上で丸くなる。食べてすぐ寝ると牛になるというけれど、ナザリオは眠り鼠のままだろう。眠り鼠であるが故に眠っているのだから。
「アリス君、何か遊ぶものとか持ってきてる?」
「一応」
ボストンバッグを開け、机の引き出しから発掘して来たトランプを取り出す。ワンダーランドにトランプを持ってくるなんて我ながらすごいことをしたと思う。
お弁当のゴミを纏めていたクラウスが目を輝かせた。
「カードだね! 国民必須ゲームじゃん! おれそれ大好き!」
そうなんだ?
「よーし、片付け完了。二人だから神経衰弱でもしようか」
伏せたカードをテーブルに広げる。スペードのジャックと神経衰弱という普通なら体験しえないことをすることになった。そもそもワンダーランドにいること自体普通ではないのか。
「アリス君が先攻でいいよ」
さてと。
わくわくした様子のトランプの前で、ぼくはトランプを捲った。