第二十九面 恐れながら王子様
今回の視点はとあるトランプです。
それは今まで見たことのない生き物だった。生き物だったのかどうかを確認する余裕は実はなかった。もしかしたら北東の隣国で研究の進んでいる自動機械人形とかいうものだったのかもしれない。兄上にそんな機械について説明されたことがある気もするけれど、楽しくなかったので忘れてしまった。何と言っていたかな。ロボ……ロボ、何だったかな。
正体は分からないけれど、とにかく黒いそれが目の前に現れて、ああ、もう駄目だと思った。
しかし、今、僕にはどうやら意識があるようなので無事だったらしい。
目を開けると、そこにあったのは知らない天井だった。白一色に凹凸によるストライプが広がっている。起き上がって周囲を確認しようとしたが体が動かない。一体どうしたのかと無理に上半身を起こして、僕は悶絶することとなった。体中を駆け抜ける激痛に動きを封じられ、再び仰向けに倒れる。城のものと比べると質は落ちるが柔らかいベッドだ。
誰かの足音が近付いてきた。先程悶絶した際に変な声が出てしまっていたので、それを聞きつけてやって来たのだろう。あんな声を聞かれてしまうとは王家の恥晒しになってしまうというのに情けない……。
ドアが勢いよく開かれる音がした。仰向けになっている僕にはその姿は見えないが、おそらく僕のことを助けてくれた心優しい者なのだろう。待てよ、傷付いた僕を食そうとしている先程の化け物かもしれないだろう。
「何だ今の変な声!」
「殿下が目覚めたのでは」
「んぐうえぇ! って言ってたぞ大丈夫か」
「えっ。ええ、おそらく大丈夫だと思いますが」
声からして男が二人か。これがあの化け物だとは思えないから、おそらく助けてくれた心優しい者達だな。さすが我が国民。人間の素晴らしさがよく分かる。
「ああん? 何だ、目ぇ覚めてんじゃねえか」
枕元までやって来た片方が僕の顔を覗き込む。彼が僕を助けてくれた素晴らしき国民……。
「ぐっ!?」
僕は自分の目を疑った。そして彼の、いや、そいつの姿をはっきりと捉えて総毛立った。
猫だ。
猫耳が生えている。
……獣だ。
痛みなんてこの際どうだっていい。僕は起き上がり、転げ落ちるようにしてベッドから離れる。猫から逃げた先にはおしゃれな帽子を被った男が立っていた。
「殿下」
「ああ、オマエが僕を助けてくれたのだな。心優しい誇るべき我が国民よ、ありがとう」
「はあ……?」
帽子の男は困惑しているようだった。仕方ない、こんな家の中に獣が入り込んでいるだなんて恐ろしいに決まっている。
「あまり無理をなさらないように……」
いたわるようにそう言われて、忘れかけていた体の痛みがよみがえった。声にならない叫びを上げて倒れ伏す。またもや王家の恥を晒すこととなってしまった。僕の馬鹿。こんなの全然面白くない。
「殿下」
「なぜオマエは」
「はい?」
「なぜ獣などを家に入れるのだ」
帽子の男は黙っている。「えーと」とか「ん」とかぶつぶつ言っているが何を困っているのだろう。僕がこうして倒れている間も背後には猫耳の獣が立っているのだろう。恐ろしい。気色悪い。なぜこの男はこんなやつを追い払うこともせず僕の近くに立たせておくのか。不敬極まりない、母上に「首をお刎ね!」をやっていただきたいところだが、彼は僕を助けてくれた恩人なのだ。致し方ない、大目に見てやろう。楽しくないけど。
「殿下、私も……。いえ、何でもありません。……殿下をお助けしたのは私ではありませんよ」
「何?」
「大怪我をして倒れていらっしゃるところへ偶然通りかかったコーカスレースの方々が貴方をここまでお連れしたのです」
「コーカス、レース?」
何のことだろう。方々ということは複数人だから、何かの団体なのだろうか。僕を救ってくれた素晴らしき国民について知らなかったとはこれも王家の恥となりうることかもしれない。城下はよく視察していたはずだが、そうか、僕が国境警備に出かけた後にできた団体なのだな。後で礼に行かなければ。
帽子の男は屈み、倒れている僕に手を差し伸べる。
「殿下、お立ちになれますか」
「多分無理だな」
「ええ、見れば分かります」
ではなぜ聞いた。
男は手を引っ込めてしまう。
「コーカスレースの話によると、彼らが根城にしている岩場からやや北東に向かった辺りで倒れていらっしゃったとか。身に覚えはありませんか」
この帽子男は僕をベッドに横たえることもせず床に倒れさせたまま、背後に猫を立たせた状態で話をしようというのか。物腰は丁寧だがやはり不敬なやつだ。首の一つや二つ飛ばしてやりたい。
「化け物が」
「化け物?」
「黒い何かに襲われて、気が付いたらここに……」
帽子男は「なるほど」と何やら思案しているようだが、何がなるほどなのだろう。思い当たることでもあるのだろうか。やっとのことで動く顔を上げて、傍らに屈む男を見上げる。銀に近い水色の瞳が僕を見て微笑んだ。
「あれからどれくらい経っているんだ」
「連れてこられてから二日ほどですね。ただ、コーカスレースにも二日ほど」
「四日も」
「怪我人を見付けて手当てしたのはいいが付きっ切りにはなれないので、とのことでこちらまで。どうやら彼ら、貴方がウィルフリッド殿下でいらっしゃったとは気付いていなかったようですよ」
「は、何たる不敬な……」
「恐れながら王子様」
帽子男は目を細める。瞳孔までもが猫のように細められた気がしたが、おそらくそれは僕の見間違いだろう。しかし、何だこの感覚は。上手く言い表せないが、本能が危険だと告げている気がした。あの化け物を見た時とは異なる恐ろしさを、眼前の男に感じる。
足音がしたのでちらとそちらへ視線を向けると、猫が僕の横を通って帽子男の傍らへ移動した。あれ? この二人似ているな。気のせいだろうか。
「貴方を尊敬している国民、貴方を知っている国民、そのような者達ばかりだと思われるのは間違いですよ。お気を付けください」
僕に指図までするつもりか、と思ったが、直後に帽子男はにこりと微笑む。その微笑からとてつもない威圧感が放たれていて僕は何も言えなかった。けれど、そうか。確かにそうだな。国民達に愛される、そんな王子になれるよう城下の視察を強化しよう。国民とのふれあいは大事だな。
猫が完全に見下す目で僕を見下ろしていた。目が合う。鳥肌が立つ。ああ、なんて気持ちの悪い。同じ部屋にいるというだけで虫唾が走るのに、目が合ってしまった。逃げ出したいが体は動かない。帽子男はそんな僕をにこにこと見ているだけだ。
「殿下、おそらく迎えが参ります」
「え」
「クロンダイク公あたりが」
なぜ彼が? と思ったが、迎えが来るのならば誰だって構わないか。
アイザック・クロンダイクは兄上と懇意にしているらしいが、僕は彼のことをさほど好きではない。先代のクロンダイク公、彼の父親は優しいおじさんだったが、彼は獣共に傾倒しているという噂があるから好きになれない。なにが「もふもふしている」だ。気色悪いことを言う。もふもふだと? それならば普通の犬や猫を撫でればいいではないか。畜生であることに変わりはないから、僕は普通の犬猫も嫌いだけどな。
それにしても、僕がこんな状態になっているというのに城は何をしているんだ。すぐにでも駆け付けて助けてくれればいいのに、心優しい国民の手を煩わせて……。
猫の耳がぴくりと動いた。うへえ、気持ち悪い。
「来たな」
「早いですね」
来た? 迎えだろうか。
ひょいっ、と猫に担ぎ上げられた。うわ、やめろ離せ。
「おい」
「おい、ではありません殿下。私はマーリンと申します」
「マーリンとやら、この猫はオマエの家来か何かなのだろう、どうにかしろ」
もがくことすらできない僕を見てマーリンは笑う。その目が一瞬蔑むように見えたのはおそらく気のせいだろう。
「お言葉ですが殿下、お一人で歩けるのですか」
「あ」
今にも吐きそうなくらい気分が悪いが、これも仕方のないことか。面白味の欠片もない、なんて苦痛だ。しかも猫が歩くと揺れるから体中が軋むような感じで結局痛い。
「ジェラルド、早かったのですね」
玄関を抜けて外に出たところでマーリンが言った。僕は外の景色を見て驚愕した。周りに建物なんてない。道の舗装なんてされていない。あるのは土と草と木と花。森の中だ。いよいよマーリンという男への疑問が尽きなくなって来る。この男は獣を家に置いているだけでなく、好き好んで森になんて住んでいるのか。ブリッジ公のように事情があるのかもしれないが、獣と影の兵団の蔓延る森に平気な顔をして住んでいるこの男の気が知れない。いや、気はおかしいのか? もしかして。
ジェラルド、と呼ばれた者がいるのだろうが、後ろ向きに担がれている僕には家と森しか見えない。
「俺の足を舐めないでほしいな。連れてきたぞ、御所望のクロンダイク公と、おまけのアルジャーノン殿下だ」
兄上? 兄上もいるのか?
「ウィルフリッド殿下、ごぶ」
「ビル! よかった! 無事だったか!」
クロンダイク公の言葉を遮って兄上が叫ぶ。全然無事ではないのですが。
猫に下ろされたのは蒸気自動車の座席だった。運転席にクロンダイク公がいて、こちらを振り向いてほっとした顔をしている。そして、車の横に愛馬に乗った兄上がいた。相変わらず北東の隣国から仕入れた工学マニアなアクセサリーが耳元で揺れている。
「久しいなビル。驚いたぞ、ジャバウォックに襲われたそうじゃないか」
「ジャバ?」
「俺も何か知らないんだけどな。まあ、オマエが生きててよかったよ」
「……兵士や作業員は」
兄上は悲しそうな顔になる。まさかみんな……。
「被害は甚大だ。多くの者がこの世を去った。恐ろしい化け物だったそうだな。しかし、生存者はいる。洞穴に逃げ込んでいた者達と、吹き飛ばされたが一命を取り留めた者達だ。皆も街へ移送されるから、オマエも傷が治ってからでも挨拶に行った方がいいな。……死んだ者達の家へは俺も付いて行ってやるからさ」
面倒臭い、退屈だ、と僕が不甲斐ないばかりにみんなを大変な目に遭わせてしまった。ごめんねみんな。
僕に面白くも楽しくもない仕事を振った父上が悪いので恨むなら父上にしてくれ。頼む。
「兄上達を呼びに行ってくれたジェラルドとかいうやつはどこだ。礼を言おう」
すると、長身でポニーテールの男が振り向いた。マーリンと何やら話していたこの男がそうか。と思って、僕は自分の目を疑うことになる。耳が生えている。馬の耳だ。そして額に角が一本あった。
獣だ。
「礼には及びませんよ殿下。……クロンダイク公、殿下はドミノがお嫌いなようだから早く出発した方がいい」
「言われなくても分かってる」
車がごとごとと音を立てる。ぷすぷすと変な音もしているが大丈夫だろうか。
「ザック、今度一緒に北東の隣国へ機械視察へ行かないか」
「断る。オレの車じゃないし、誘うなら車貸しを誘ってくれ」
蒸気自動車が走り出す。マーリンがにこやかに手を振っていたので、動く範囲で振り返す。うん、いい人だったな。
おそらくこの体が治るまでしばらくかかるだろう。きっと退屈な時間が待っている。早く面白いことできるようになりたいな。……って、車結構揺れるな。痛いよ。
「ウィルフリッド殿下は帽子屋と仲良くなったんですか?」
「僕を家に置いていてくれたんだ。いい人だろう?」
クロンダイク公はからからと笑う。
「あは、失礼。いやあ、珍しいですね、殿下がそんな」
「ん? どういう意味だ」
馬で並走している兄上も実に愉快そうに笑っている。
「ビル、帽子屋は獣だよ」
え?
がたころりん、という車とぱかぱかいう馬の蹄の音だけが響いていた。
どこからどう見ても人間だったのに、そんな。僕は獣風情に手を振り返し「いい人だった」などと。……悲しい。こんなの全然面白くないよ!