第二面 ようこそ、ワンダーランドへ
待っていたよ。アリス。
よく来たね。
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「ようこそ、ワンダーランドへ」
帽子を被った男が笑う。
ワンダーランド。
ここは、不思議の国……?
考え込んでいると、帽子の男に手を握られた。そのまま問答無用に引っ張られる。
「あ、あのぅ」
「こんなところで立ち話もアレですから、外で座って話しましょー」
引き摺られるようにして部屋を出て、建物の外に放り出される。
振り向いて見てみると、レンガ造りの頑丈そうな家だ。ドアには帽子を被ったネコの形をしたノッカーがくっ付いている。
男の声がして、そちらを見ると家の前には広い庭があった。ぴかぴかの石畳に、色とりどりの花が咲く花壇、そして噴水。短く刈り込まれた芝生の一角にテーブルと椅子が何脚か並べられている。テーブルの上にはティーポットやティーカップ、ケーキが綺麗に並んでいる。
テーブルの脇に立つ男に手を振られ、そちらへ向かう。
「ティータイムなんですよ。いいタイミングでやってきましたね」
「えーと、あの……」
「私はアーサー。以後お見知りおきを」
帽子をちょっと脱いで挨拶をして、すぐに被り直す。
「あ、あの、ぼく……」
アーサーさんはティーカップに紅茶を注ぎ、ソーサーに載せてぼくの前に置く。少し赤みの強い水色をしたお茶だ。
「どうぞ」
どうぞじゃないです。
「ここはどこなんだろう、この人は誰? 帰れるのかな。……って思っているでしょう」
思ってます。
「話せることはちゃんと話しますよ。ささ、まずはお茶をどうぞ」
促されて、ぼくは椅子に腰を下ろす。
テーブルの脚には天使の装飾がしてあって、椅子も同じようだった。
にこにこと紅茶を勧めてくるアーサーさんに根負けし、ティーカップを手に取る。取っ手の部分がネコの形をしている。
ふーふー冷まして一口飲んでみると、何とも言えない不思議な香りが口の中に広がった。ハーブティーだったのかな。今まで飲んだことのないお茶だ。
「オオカブリグサモドキの花を混ぜたフレーバーティーです」
「お、おおかぶ?」
ぼくの隣に座ったアーサーさんは優雅な動きで紅茶を飲んでいる。
「教えてあげましょうか、ここがどこだか」
整った顔が妖しく歪む。目が細められ、銀に近い水色の瞳が鈍く光る。
「ここはワンダーランド。おかしな者達が暮らす、おかしな国です。貴方の暮らす世界とは異なる空間です。私はこの家でのんびりきままに帽子を作りながら暮らすアーサー・クロックフォード。貴方は元いた世界に帰れますよ、鏡を使えば」
ほら、ちゃんと教えたでしょう。完璧です。といわんばかりにアーサーさんは満足げな顔をしている。
分かったようで分からなかった。
つまり、ぼくは鏡を通って異世界に来てしまったということなのか。
そんな漫画か小説みたいな物語じみたことが実際にぼくの身に起こった。
いまいちピンとこないし、正直信じられない。ぼくは本当は部屋で寝ていて、これは夢かもしれないじゃないか。
「あの鏡は元々国の上層部が別世界に干渉するために作り出したもの。それが先代女王の頃に私の父に譲渡されたんですよ。詳しいことは分からないんですけどね、父はもういないので」
ティーカップを手にアーサーさんは言う。
「けれど、私は二つあった鏡を片方無くしてしまった。別世界へ向かう『行きの姿見』と、帰ってくるために持ち歩く『帰りの手鏡』のセットだったんですが、手鏡を姿見の中に落としてしまい、行方知れずに……。探しに行くと言っても、手鏡を見付けることができなければそのまま異世界暮らしですよ。恐ろしくて探すこともできず……。あれからだいぶ経ちました。先程、部屋で物音がしたので様子を見てみれば、なんと、姿見の前に少年がいるではありませんか。貴方は異世界から来たのでしょう? 鏡を通って」
「多分……」
アーサーさんの落とした手鏡が巡り巡ってぼくの元へやって来て、ぼくはそれを通ってこの世界に飛ばされてしまった。
「貴方の名前は?」
「え、あ、なお……有主です……」
「ナオユキ?」
「有る無しのうむの『う』に、『あるじ』で有主。漢字分からないですよね、ごめんなさい」
ティーカップをソーサーに置き、アーサーさんは虚空に指を滑らせる。『有』『主』と書いているようだった。漢字、分かるんだ。
「……『アリス』か」
呼ばれたくないその名前。けれど、彼がワンダーランドの住人ならばぼくが『アリス』でもおかしくはない。
「ナオユキ、難しいです。アリス君って呼んでもいいですか? 嫌だったらやめますけど」
いつもなら胸に鈍い痛みを感じるけれど、今日は全く感じなかった。この人に『アリス』と呼ばれても、苦しくない。
紅茶を飲み干し、ぼくは席を立つ。
「姿見を通れば元の世界に戻れるんですよね」
「そのはずです」
「手鏡を使えば、またここに来られますか」
「え? ええ、おそらく」
「ちょっと色々混乱してるんで、帰ります」
帽子を被ったネコのノッカーが付いたドアを開け、家の中に入る。姿見の置いてある部屋に入ると、窓が開いて外からアーサーさんが顔を出した。何で外から開くのだろうと思ったけれど、ここがワンダーランドならぼくの常識は通用しないのかもしれない。
「貴方とはいいお茶が飲めそうだ。けれど、貴方が『アリス』ならもう来ない方がいいですよ。手鏡も返していただければそれでいいのですが」
「すみません一旦帰ります」
ぼくは姿見に飛び込んだ。
◆
目を開けると、そこは神山家のぼくの部屋だった。
あれは夢だったんだろうか。
口の中にまだお茶の香りが残っている。
元手鏡の姿見を振り返ると、わずかに鏡面が波打っていた。
夢じゃ……ない……。
この鏡は異世界と繋がっている……。
スポーツができるわけでもなく、勉強ができるわけでもなく、友達がたくさんいるわけでもなく、顔が特別イケてるわけでもないようなこのぼくが、いつの間にか御伽話の主人公になってしまっていたらしい。