第二十七面 おれの気持ちだからさ
今回の視点はとあるトランプです。
泣き声が響いていた。耳がキーンと鳴って、痛くなる。
「う……ぅああ。ふええ」
まだ幼い弟を抱きかかえて、うろうろする。揺すっても揺すっても、弟は泣き止まない。求めているのは母親か。
「お母さーん」
声は轟音にかき消されて届かない。
「お母さあーん!」
こっちまで泣きたくなってきた。何が起こっているのか分からなくて、だんだん視界が潤んでくる。
「お、お母さ……」
黒い何かが横切った。母の姿も見える。
「ああっ、駄目、来ちゃ……駄目……。逃げ……」
お母さん? どうしたの?
そこにいたのは黒い犬だった。影を纏っていて、お母さんに覆いかぶさっている。ぐちゃりという音がして、お母さんの腕がだらりと垂れる。
「エド……逃げて……。クラウスを……お願い……。パパの所へ」
「お母さんっ」
「ごめん、ね……」
月明かりの下で、お母さんの緑の瞳が最後の煌めきを消した。犬がこちらを向く。
「う、うわああああああああ!」
弟を抱いたまま、走る。走る。走る。
コテージに駆けこみ、お父さんに今あったことを言った。血相を変えて飛び出そうとしたお父さんが、心配そうにこちらを覗き込む。
「エドウィン」
泣き叫ぶ弟の声も、優しいけれど震えたお父さんの声も、何も聞こえなかった。見てきたこと聞いてきたことが頭の中でぐるぐる回る。お母さんの叫び声。黒い犬。月光。弟の泣き声。震えていた自分の足。犬の瞳。お母さん。赤。赤。赤。赤。赤。ぐちゃぐちゃ。赤。赤。犬。赤。お母さん。お母さん、だったもの……。
お父さんが弟を抱き上げた瞬間、我慢していた全てを吐き出すことになる。
○
目覚めは最悪だった。
「くそ……」
よりにもよってあの時の……。今でも時々思い出す。その度に具合を悪くして、すぐにダウンしてしまう。ああ、今も気持ち悪いな。
こういう日は出勤したくないものだが、オレは現在自宅待機を言い渡されているので出勤はしなくていい。
布団を抱えて寝返りを打つ。
弟はきっと覚えていないんだろうな。
先日コーカスレースがバンダースナッチの襲撃を受けた。目の前で襲われるレイヴンを見て、あの日の光景がフラッシュバックしてしまったのはいわずもがな。オレは何もできなかった。トラウマを振り払おうとしたものの、結局周りに迷惑をかけてしまった。駄目だ、こんなんじゃ。
足音が近づいてきて、部屋のドアが開けられる。
「エドウィン。……まだ寝てるか」
「起きてる」
「そろそろ飯にするぞ」
「……」
父さんは「元気出せよ」と言ってドアを閉めた。
元気なんて、どうやって出せばいいのだろう。忘れてしまった。
感情がない。とよく言われる。はっきり言って、楽しいとか、嬉しいとか、オレにはよく分からない。いや、分からなくなってしまったんだ。あの時からずっと、オレは無を生きている。辛いとか、悲しいとか、腹立たしいとか、感じているのかもしれないが自分では分からない。
目の前で母親を食い殺されたショックとか、多分そういうのではない。と、自分では思っている。
動こうとしない体を強引に起こして、ベッドから立ち上がる。ドアを開けて廊下に出ると鼻腔をくすぐる甘い匂いが漂って来た。今日の朝食はどうやらパンケーキのようだな。
「あ! おはよー兄貴!」
朝から元気だな。
オレが他人にクラウスの紹介をする際、弟だと言わないのには理由がある。あくまで王宮騎士としての紹介を心掛けているからだ。仕事に私情を挟むのはよくない。だから、バンダースナッチを見て怯えているようじゃいけないんだが……。
クラウスは蜂蜜を大量にかけていた。父さんがそれを見て苦笑する。いつもの朝。変わらない日常。ずっと寝込んでいたから、揃って朝食をとるのは久し振りだった。
「おはよう、母さん」
食卓に置かれた写真立てに挨拶をする。これはカザハヤ家の習慣だ。
焼きたてのパンケーキがオレの前にも置かれる。父さんの料理もこの十数年で随分と上達したものだ。たまには手伝ってやった方がいいだろうか。
「兄貴~、おれ今日も父さんのお手伝いしたんだよー」
「そうか、よかったな」
「もっと褒めてくれたっていいじゃん。おれ準備するの早くなったよー!」
「オマエはもう少し大人になったらどうなんだ」
クラウスは口を尖らせる。
「なにそれー! おれだっていつもお仕事頑張ってるよ。それに、おれまだ大人じゃないし。十八だし」
そういうことを言っているんじゃない。
「あ、そうだ。ねえ兄貴、おれが何か作ってあげようか。非番だし」
「は?」
「美味しいもの食べれば元気になるよ」
「余計なお世話だ」
「おれの気持ちだからさー。ね?」
クッキー作ったの、食べて。と言ってくる女みたいな顔をするな。
オレが黙っているとその沈黙を了承と取ったのか、クラウスはにこにこしながらパンケーキを食べ始めた。父さんもにこにこしているだけだ。今更やめろとは言えない空気だな。クラウス、そんなこと言ってオマエ料理できるのか。何だか不安だな。
適当に蜂蜜をかけてフォークを突き刺す。うん、今日も美味しいな。
朝食後、父さんは書類の整理をすると言って書斎へ向かった。クラウスは上機嫌で商店街へ出かけて行ったが、本当に大丈夫だろうか。変なものを食わされて未来のオレが腹を壊さないことを祈る。
自宅待機と言われても、することが特にないので暇の極みに達する。どうせ会議をしたところで謹慎処分になるのだろうからこの先しばらくは家で怠惰な日々を貪ることになるのだ。趣味の一つや二つあればいいところだが、生憎オレには趣味と呼べるものがないのが現状だ。カードゲームだったり、ボードゲームだったり、そういうものでもいいし、絵を描いたり、物語を書いたり、それに、何かスポーツを始めてみるとか。例えばクリケットとか。いいや、駄目だ。きっとどれも続かない。
自室に戻り、ベッドに寝転ぶ。脇に置いたフランベルジュが物悲しそうにこちらを見ていた。オマエもしばらくは臨時休業だ。たまにはゆっくり休んでくれ。
暇だな。
本でも読むか。
起き上がり、オレは書庫へ向かう。しかし、家にある本は大体読んでしまっている。今更読み返したところで全く面白味の欠片もないと思うが、暇つぶしにはなるだろう。
本棚の上に置かれていた本を背伸びして手に取る。誰だ、元あった場所に戻さなかったやつは。この家で一番身長が高いのは父さんだから大方父さんだろうな。クラウスがわざわざ踏み台を使って本棚の上に置くとは考えにくい。
ぱらぱらとページを捲ってみると、どうやら動物図鑑か何かのようだ。犬や猫など身近なものから、ドミノについても軽く触れられている。人間も動物なのでページが設けられているようだった。しばらくぱらぱら見ていて、あるページに目が留まる。
「ジャバウォック……?」
挿絵として、黒い龍が描かれている。大きな瞳。鋭い無数の牙。髭のような角のような何か。長い指。長い首。太い尻尾。膜のような大きな翼。そして何故かぼろぼろのベストを纏っている。
人を襲う怪物で、森に住む。理由は不明だがバンダースナッチやトーブ、ボロゴーヴ、ジャブジャブ、ラースと共に現れることがある。
と記述がある。
バンダースナッチのボス的なものなんだろうか。並んでいる他の動物達についても後のページに説明があるが、どれも見たことがないものだ。この世界にはまだ見ぬ生き物がいるということだな。やはり森に入る時は注意するに越したことはないだろう。
本棚の空きがある部分に動物図鑑を押し込む。
やっぱり暇つぶしなら寝るのが一番だな。昼寝しよう。
「兄貴ー! 兄貴兄貴~!」
布団にくるまっていると、背後で勢いよくドアが開かれた。
「おれ頑張った! できたよ! 食べて!」
「何……?」
「ふっふーん。もう寝込むほどでもないって分かってるんだからね! 昼間っから寝てないで、おれの力作食べてよ」
起き上がって振り向くと、クラウスは自信満々な顔をしている。帰ってたのか。さっきの発言も踏まえると、買い物を完了して何かを作ったというわけか。
「早く早く!」
言われるままリビングへ行くと、テーブルの上にパイが載っていた。パイ生地から魚が顔を突き出している。
「スターゲイジーパイか」
「兄貴これ好きでしょ?」
「オマエがこれを」
クラウスはえっへんと胸を反らしていたが、オレが訊ねると変な顔になって気を付けをする。寝不足の鶏みたいだな。
「マミさんに手伝ってもらった……」
マミさん。公爵夫人のところの料理番だな。大方八割くらいは彼女がやったのだろう。
「食べて食べて!」
「分かった分かった」
オレは席に着く。パイ生地から顔を出した魚達がこちらを見上げている。この見た目のせいでスターゲイジーパイを嫌う奴らもいるが、オレは好きだ。というか、オレはただ単にフィッシュパイが好きなだけだと思う。
クラウスは正面に座ってにこにことオレを見ている。そんなに見られると食べにくいな。
「美味しい?」
「ああ、美味い」
「よかったー。兄貴、元気そうでよかったよ。やっと笑ってくれたね」
そうか。オレはずっと笑っていなかったのか。自分の表情なんて分からないし、そもそもあまり顔に出ないタイプだから普段から表情が乏しいと周囲に言われている。それでもコイツはオレの顔を見ているのか。自分の表情がどうなっていようがどうでもいいが、オレが笑うことでコイツも笑ってくれるのなら、それはきっといいことだろう。
クラウスにはずっと笑っていてもらわないと。母さんに頼まれたんだ、コイツのこと。オレが失ってしまった分、コイツには笑顔でいてほしい。
ここまで読んでお気付きの方もいるかと思いますが、四冊目(第四章)は各話の開始時刻がだんだん早い時間になっています。開始時刻が朝まで遡ったところで、次回からは昼に戻ります。




