第二十四面 行かないで
今回の視点はとあるトランプです。
鈴の音がする。
フリルの塊みたいな小さな女の子が熊のぬいぐるみを抱いて廊下を走っていた。
あれは……?
ああ、私か。幼い頃の。じゃあ、ここはイレブンバック家の屋敷ね。
どこへ向かっているんだろう。後を追う。
『待ってー!』
女の子は何かを追い駆けているようだ。
角を曲がったので、私も角を曲がる。すると、そこに幼い私の姿はなかった。
『ねあ』
代わりに、絨毯の上には猫が座っていた。灰色に黒い縞模様。
……ダイナ?
『にあー』
首輪に付いた鈴が鳴る。
猫はちらっと私を見ると、踵を返して向こうへ走って行ってしまう。追い掛けようとしたけれど、走っても走っても進まない。どんどん猫が遠くなっていく。
待って。
待って!
ダイナ!
○
「いやぁっ、行かないでっ!!」
手を伸ばす。
そこはイレブンバック家の屋敷ではない。青空が広がっていた。外だ。
伸ばした右手を誰かに掴まれた。
「ミレイユ」
右手に誰かの左手の指が絡められる。
私は泣いていた。視界が濡れていてよく見えない。
「ミレイユ、俺はここにいるよ」
左手で涙を拭われた。銀に近い水色の瞳が優しく笑う。
「ニール……」
ああ、さっきのは夢ね。そうよね、ダイナがいるわけないもの。追い駆けたって会うことはできない。だって、だってあの子は……。
止まったと思ったのに、ぼろぼろと涙が零れてきた。
「わ、どど、どうしたんだ」
「大丈夫……。何でもないわ」
慌てる彼の胸に飛び込む。パッと見細そうだけれど、意外と胸板が厚いので包容力がある。温かい。このまま深い眠りに落ちてしまいそうだわ。さっきも寝ていたのにね。
「ねえ、ニール」
「ん?」
「貴方はどこへも行かないわよね」
「どうしてそんなこと」
「ずっと傍にいて」
彼の腰に手を回し、抱きすくめる。彼は私のもの。私が彼の飼い主。
飼い主を慰めるのはペットの仕事でしょう?
玄関のドアが開き、ラミロがテラスに出てきた。何か言おうとしたようだったけれど、私達のことをちらっと見てそのまま引っ込んでしまった。何よ。何かあるのならちゃんと言いなさい。何もないのね? そういうことにしてしまうわよ。
「少し悲しいの。慰めてくれるかしら」
言った途端、ベンチに押し倒された。
真夏の炎天下。テラスにはパラソルが広げてあるけれど、それは申し訳程度のものであり日差しは眩しいし、ぐさぐさと刺してくるような暑さがある。ニールの息が荒いのは、おそらく熱を逃がすためだろう。獣というのは難解な存在であり、彼だって猫なのか人なのかよく分からない体をしている。人のように汗をかくのだけれど、猫のようにハアハアと息もするのだ。
暖かいのは好きなのに暑いのは嫌いなんて我儘ね。でも、そこが好きよ。
日差しを受けて光る金色の髪に手を入れる。猫耳の付け根の辺りをガシガシ撫でてやるといつも通りの嬉しそうな声が漏れ聞こえた。もっと撫でて、と言わんばかりに擦り寄って来るので背中を撫でる。
ニールはとてもいい男なのよね。彼が人間だったら好きになっていてもおかしくないわ。夜毎密会を繰り返したっていい。公爵に何を言われようと、何度も何度も逢瀬を重ねるの。
男らしい大きな背中の向こうで尻尾がピンと立っていた。なあに? まだ甘えたりないっていうの?
結局彼は獣なんだな、と、いつもちょっとだけがっかりしてしまう。ううん、いいのよ。彼は私の飼い猫なんだから、私に撫でられて気持ちよさそうに鳴いていればいいの。いいのよそれで。
「ヒューヒュー、昼間っからお熱いですねー」
ニールの尻尾がぶわわっと膨らんだかと思うと、飛び上がって私の上、というかベンチから下りた。テラスに片膝をつき、私を抱き起こす。
「もっとくっ付いててもいいんだよ。このことはブリッジ公には黙っておくからさ」
「勘違いをしているようね。私達は飼い主と飼い猫、それ以上でもそれ以下でもないのよ」
ログハウスの前に現れたのは夏らしく露出多めのライオンだった。普段から露出は多いけれど、タンクトップではなく今日はキャミソールだ。あんな格好で恥ずかしくないのかしら。
キャシーはテラスの傍まで来て、私達を見上げる。
「ジェラルド見なかった?」
森の夜間パトロールをしながらチェスを追い払っているキャシー。ジェラルドという細マッチョ美形とのコンビで活動している。けれど、今日は一緒じゃないみたいね。先月アリス君と一緒にいてチェスに襲われた時も、助けれくれたキャシーは一人だった。最近仲悪いのかしら。ううん、あの二人に限ってそんなことはないでしょう。
「見てねえよ」
「私も見てないわよ」
「うえー、どこ行っちゃったのよー! もう、ジェラルドったら」
あら、どうしたのかしら。珍しく思いつめた表情ね。貴女にこんな顔ができるだなんて思ってなかったわ。
テラスの柵から身を乗り出したニールがキャシーを見下ろす。
「夜になれば戻って来るだろ。仕事放り出すようなやつじゃねえし、そういうのはオマエが一番分かってるだろ」
「んー。そうなんだけど」
「急いでるみたいだけど何かあったのか」
「ああ、ええと。この前、バンダースナッチの事件があったでしょ。だからパトロール強化中なの。バンダースナッチは昼間も活動するから。でも、途中でジェラルドがどこか行っちゃって」
尻尾が元気なさげに垂れている。何も言わずにいなくなったらそれは確かに気になるわね。
ひょいっと柵を飛び越えて、ニールはキャシーの前に下り立つ。女性にしてはがっしりした体つきのキャシーだけれど、ニールと並ぶとやっぱり女の子なんだな、と思ってしまう。普段からジェラルドと一緒にいるけれど、ジェラルドは見た感じが細いからちょっと違うわね。
突然ニールが迫って来たので、キャシーは一瞬びくっとして後退った。
「な、何よ」
「手伝ってやろうか」
「え、いいわよ。アンタは公爵夫人と思う存分いちゃいちゃしてなさい」
「何だその言い方」
「大丈夫大丈夫。公爵には言わないから。それじゃあ」
キャシーは茂みの中へ飛び込んでしまった。
「何だったんだアイツ。折角人が手伝ってやるって言ってるのに……」
「いつになったら誤解が解けるのかしら。私達のこと愛人だって疑ってるのよずっと」
「もう何を言ってもアイツは分かってくれないだろうな」
テラスに戻ってきたニールへ向けて両手を広げると、彼は再び私のことを押し倒してくれた。広い背中に腕を回す。
しばらくニールを撫で繰り回していると、玄関のドアが開いてラミロが出てきた。
「坊ちゃまがようやく寝付きました」
「ありがとう。見ておいてくれるかしら」
「はい」
ピーターはかわいい。かわいいけれど、公爵の息子なのだなと思うと複雑だ。どうして私はあんなおじ様と結婚してしまったのかしら。ニールが人ならよかったのに。
中に引っ込もうとしたラミロが閉めかけていたドアを開ける。どうしたのかしら、と思ったらマミが帰ってきたのね。ご苦労様。
「ただいま戻りました。あ、ニール様、いらしていたのですね」
「マミ、お帰りなさい。もうしばらくこうしていたいからピーターのこと頼めるかしら」
「あ、はい。かしこまりました」
買い物袋を抱えたマミがログハウスの中に入っていく。
「よくできた料理番だな」
「ふふ、ラミロもマミも自慢の使用人よ」
改めて彼の背に腕を回す。こうしていると、ダイナを抱いていたあの温もりを思い出す。
ダイナ、どうして突然いなくなってしまったの。どうしてあんな姿で戻って来たの。大事にしていたし、ダイナも私に懐いていた。ずっと一緒にいられるって思っていた。愛しいダイナ、私だけのダイナ。何に変えてもあの子を守る、そう思っていた頃もあった。それなのに、幼い私はあの子に何もしてあげられなかった。あの子を失った私は心のどこかにぽっかりと穴が開いてしまったようで、何に付けても関心を示さず、何に付けてもただぼんやりと生返事をしていた。気が付いたらおじ様と結婚することになっていたのだけれど、貴族と言ったって玉の輿ですらないし、心の穴は埋まらなかった。
私の心を満たしてくれたのは、猫耳と尻尾を生やした男だった。
抱いているだけで、撫でているだけで、それだけで私は幸せな気分になれた。ダイナが私の腕の中に戻って来てくれたようで、嬉しくて嬉しくて。
「奥様」
マミが窓から顔を出す。
「そういえば、街から戻ってくる途中でジェラルドを見かけましたよ。キャシーと一緒ではない時もあるのですね」
私とニールは顔を見合わせる。
「気になるな」
「ええ、でも……」
離れかけたニールの首に手を回して引き寄せる。
「もう少し、こうして……」
「我儘な女だな」
私とニールのことを見たら、ダイナも焼き餅を焼くのかしら。それはそれでかわいいわね。
ダイナ、私ね、彼がいるから大丈夫よ。だから安心して眠ってちょうだい。平気よ、だってそのうち私もそっちへ行くのだから。いつになるかは分からないけれど待っていてね。
私だけの愛しいダイナ。