第二百三十二面 見付かるといいわね
放課後、ぼくは骨董品店を訪れた。
カエルの置物の上には小銭がいくつか載せられていて、ピエロの格好をした人形が『OPEN』の札を掲げている。ドアを開けるとリロンリロンとベルが鳴った。
ロッキングチェアに座って本を読んでいたおじいさんが顔を上げた。ぼくを見て、にこりと笑う。今日は鬼丸先輩はいないみたいだ。まだ学校かな。
「いらっしゃい。やあ、君か」
「こんにちは。……お姉さんはいますか?」
「白ちゃんなら書庫にいるはずだよ」
「ありがとうございます」
並んでいる骨董品達の間を抜けて、店の奥にあるカーテンの向こう側へ踏み込む。廊下があって、すぐそこの目の前にドアが一つ見える。一応ノックをすると返事があった。白ずくめの女は、この奥にいる。
大和さんは彼女のことをレイシーと呼んだ。ランスロットはレイシーのことをぼくに訊いた。レイシーという人物がどのような人なのかをランスロットから教えてもらうことはできなかったけれど、白ずくめの女に逆に「ランスロットって知ってる?」と訊いたら何か反応があるかもしれないし、ないかもしれない。
ドアの前に立ち止まってどう切り出そうか考えていると、中から声がした。
「栞、帰って来たの? ごめんなさい。撤収するわ」
「あっ……。いやっ、違っ……。ぼ、ぼくです!」
「アリス……?」
ゆっくりとドアが開いて、最初に出て来たのは長い白い髪だった。小さくさらさらと揺れる髪に続いて、白い靴と白いワンピースの裾、そして全身が出る。カーテンに包まれた薄暗い空間に現れた白ずくめの女はなんだか薄っすら発光しているように見えた。
「え、えっと……。こんにちは」
「はい、こんにちは。どうしたのアリス。私に用事? 今日はかぐやは一緒ではないようね。……この間の彼は、ちょっと変だったわ。……ねえ、アリス。かぐやの右目に、何か変わったものなんてあったかしら」
「えっ!? いやぁ、知らない……です……」
義眼に気が付かれてしまったのかな。大丈夫だといいんだけれど。
白ずくめの女は本を一冊手にしていた。ちらりと見える文字から察するに、おそらく『走れメロス』。
「あの、今お時間大丈夫ですか」
「えぇ、大丈夫よ。さ、どうぞ」
書庫に招き入れられる。白ずくめの女は『走れメロス』を手にしたまま、ブラインドが下ろされた窓の方を見ていた。長くて白い髪は体の輪郭を覆い隠していて、なんだか奇妙な生き物の後ろ姿のようにも見える。大丈夫だとは言ったけれど、向こうを向いたままだ。声をかけていいのかな。
付箋が貼り付けられている棚があった。ピンク色の正方形に、『読んだ本は元の場所に戻してください 栞』とインクが走っている。別の棚には黄緑色の長方形に『本を横にして積まないでください 栞』とある。この書庫の主は先輩である。先輩が白ずくめの女にここを自由に使わせるとは思えないけれど、全く使わせないというわけにもいかないのだろう。その代わり随分と注文を付けている。彼女は結構本の扱いが雑なのだろうか。もしそうなら、敵だ。
振り返る動きに合わせて白い髪が大きく広がった。ブラインドの隙間から差す光が何本もの細い白の中で揺らぐ。逆光の中で血のような赤い瞳が光ったような気もする。
「あら、怖い顔。どうしたの、まるで栞みたい」
「棚に貼ってあるメモは先輩がお姉さんに?」
「そうね。細かいのよね彼」
「本は丁寧に扱うべきだと思います」
「同じことを言うのね、栞と。分かった分かった。気を付けるわ。それで貴方の今日の用事はなあに?」
白ずくめの女は大袈裟なくらい丁寧な手つきで『走れメロス』を本棚に戻した。絹ごし豆腐をそのまま手で持って冷蔵庫に入れているみたいだ。
「あの、レイシーって名前は分からないって言ってたじゃないですか」
「えぇ」
「それじゃあ、その……。ランスロットって名前には心当たりないですか? 知り合いにいない?」
「ラン……スロッ、ト……」
髪と同じ真っ白い睫毛に縁取られた目が大きく見開かれた。この反応は、何か知っているのかもしれない。
わくわく、ドキドキという気持ちを沸き上がらせながら、ぼくは次の言葉を待った。白ずくめの女の次の台詞が書かれたページを、早く目にしたい。
しかし、白ずくめの女はぼくの期待には添わない返答をした。ゆるゆると左右に振られる首の動きに合わせて髪が揺れる。
「ごめんなさい。分からないわ。以前栞が読んでいた本の登場人物の名前だと思うけれど、知人には……」
「そうですか……」
この人はランスロットの言うレイシーではないのかな。それとも、覚えていないのか。
「あっ。でもね。でも……どこか、別のところで聞いたこともあるような気がするのよ……。それがどこなのかは、分からないのだけれど……」
「えっ」
「アリスは、そのランスロットという人に会って私の話を聞いたの? レイシーってどんな人? 私なの?」
「どんな人なのかは聞けていないんですけど、レイシーの行方を気にしているらしくて」
「そう……。その人の探しているレイシーが見付かるといいわね」
白ずくめの女は小さく欠伸をした。
「それとも私がそのレイシーなのかしらね。自分のことが……分かるといいのだけれど……」
もう一度欠伸をしてから、ぼくの横を過ぎて行ってドアを開ける。
「本を読んでいると疲れるわ。一休みするから何かあるならまた今度来てね」
「あっ、待っ――」
するりとカーテンを潜り抜け、白ずくめの女は姿を消してしまう。
追い駆けてカーテンを開けたぼくは、何かにぶつかって「うにゃ」だか「んぬ」だか、よく分からない悲鳴を上げて後退することになった。結構硬かったな。衝撃はあったけれど、特に痛みはない。閉じてしまったカーテンを改めて開けると、段ボール箱が宙に浮いていた。誰かが箱を持って立っているらしい。もっとカーテンを開けると、そこにいるのが先輩であることが分かった。
雅野高校の制服姿の先輩は段ボール箱を抱えている。カーテンの向こうからぼくが顔を出したのでちょっぴり驚いているようだった。
「神山君」
「こ、こんにちは鬼丸先輩」
「白さんと書庫にいるっておじいちゃんが言ってたけれど、もう話は終わったのかい」
「読書して疲れたからって切り上げられちゃって」
「そう」
先輩はぼくのことを押し退けるようにして書庫に入ると、段ボール箱を床に下ろした。箱自体はスーパーにあるようなスナック菓子の袋が入っていたもののようだけれど、今は本が十数冊入っていた。年季が入っていそうな感じである。
「その本は?」
「古本屋さんで仕入れてきたやつだよ。この書庫に収めるものもあるし、売り場のディスプレイに使うものもあるよ」
骨董品店の店頭には本棚やサイドボードなど、ものをしまう家具も置かれている。どれも格好いいアンティークで、見本として本や置物などが収められていた。伊織さんの人形などはそのものも売り物だけれど、本には『こちらの本は非売品です』とメモが添えられている。こうして時々仕入れているらしい。
箱の中から一冊取り出して、ぼくに差し出す。何だろう。
「よければどうぞ」
「トランプの表紙……? あっ!? こ、これっ!!」
「『アリス物語』だよ、芥川と菊池の。古本屋さんの奥で見付けてね。キミに見せたら喜ぶかと思って。丁度来ていてよかったよ」
「へぇっ!? はっ、う、わ、わぁっ……!? あ……。おゎ……。はぁ……!?」
ぼくは受け取った本の表紙を捲る。表紙を持っている自分の手が震えていた。表紙を閉じて、裏表紙を捲る。奥付には昭和二年と書かれていた。変な声が口から漏れた。
『アリス物語』とは、芥川龍之介と菊池寛が訳した『不思議の国のアリス』である。これはその初版本だ。今、ぼくはおそらく鼻息を荒くして興奮しているに違いない。自分で自分の顔は見えないけれど、きっと人に見せない方がいい顔になっている。
「えっ。あっ、エ!? よ、よければ、とは……? も、もらえるんですかッ?」
上擦った声が出た。神山有主、気持ち悪いぞ。弁えなさい。
「ははは。まさか。こんなにいいものをあげるわけがないだろう。ボクにとってもお宝だからね」
「アァっ……そ、そうですよね……。じゃあ、どういう……?」
「貸してあげる。返却期限は二週間後です」
図書室の支配者が、昨年度までと変わらない営業用の愛想笑いでそう言った。




