第二百三十一面 本を読むくらいしか能がない
さすがにそろそろ遅くなるぞ、とラミロさんがリビングへやって来たので、ぼくはそこで帰宅することにした。夫人とラミロさんにちゃんと「おやすみなさい」を言って、リビングを後にする。
姿見を潜るためにアーサーさんの部屋に行くとニールさんが机に突っ伏して眠っているのが見えた。自分の部屋は夫人達が使っていて、リビングにぼくがいたからここにいたようだ。起こさないように小さな声で「おやすみなさい」を言って、ぼくは姿見に飛び込んだ。
◆
「大人を説得する方法?」
本を読みながらぼくの話を聞いていた亀倉さんが顔を上げる。
「神山君、大人と戦うの」
「お世話になっている人とちょっと意見の相違があって」
「うーん。難しいよね、大人に子供の意見を通すのは……」
夫人に「やってやろうじゃないか!」という旨を言ってしまったのでどうしたものかと考えていたけれど、数日考えてもどうにもならなかったので人に相談してみることにした。
朝のショートホームルーム前。クラスメイト達はそれぞれの時間を過ごしている。
ぼくと一緒に教室に入って来た璃紗は執筆中の小説の展開についてメモをしていて、ぼく達が来た時にはもう教室にいた琉衣は先程からずっとスケッチブックを広げながら船を漕いでいた。琉衣の様子が気になるけれど、メモ帳を広げている璃紗が時折目を向けているからそちらに任せておけばいいかな。具合が悪いわけではなさそうだし。
亀倉さんは栞を挟んで本を閉じる。今日の本は柳田国男の本だそうだ。
「その大人、優しい人? それとも、怖い人?」
「どちらかというと怖いかもしれない。いい人だけど」
「怖いのかぁ……。今年度から図書局長になって司書さんや先生とやり取りすることも増えたけど、みんな優しいから」
「いつもありがとう」
「鬼丸先輩はそつなくこなしてたから思ったよりも簡単なのかなと思ってたけど、先輩が有能だということがこの一ヶ月半程度で分かったよね……」
「水泳部もあるのに、亀倉さんやっぱり忙しくない? 大丈夫?」
我らが新図書局長亀倉七海は水泳部に所属している。得意な泳ぎはバタフライで、小学生の時から結構速くて界隈では注目されることもあるらしい。星夜中学校で兼部は認められていないけれど、図書局は立ち位置的には委員会扱いなので部活動と両方に参加できる。とはいえ、帰宅部の人が圧倒的に多いのが現状だ。
「忙しくないと言えば嘘になるけど、嫌じゃないよ」
「そう。図書室の中のことだったら、ぼく手伝うからね」
「ありがとう、神山君」
丁度そこに、馬屋原君が戻って来た。ぼく達のことをちらりと見てから席に着く。生徒会長はいつも忙しなく動いている。そんなに動く必要はないらしいけれど、馬屋原君は動くのが好きなのだろう、たぶん。
準備の速い生徒会長が一時間目の教科書やノートと一緒に一冊の文庫本を机の上に出した。何の本だろう。気になるな。
「そうだ。馬屋原君にも訊いてみたら?」
「でも本読み始めちゃったし」
「構いませんよ。神山君、おれに用事ですか?」
「神山君ね、大人の人と戦うんだって」
本を手にした馬屋原君が僅かに怪訝そうな顔になった。
「それはいただけませんね。登校の状況について生徒指導の先生と戦うんですか」
「先生とは戦わないよ! それに今年度はまだちゃんと学校来てるし……」
「それじゃあ誰と?」
「お世話になっている人と、ちょっと意見の相違があって」
「なるほど……」
生徒会長は先生とか大人と話をする機会も多いでしょ、と亀倉さんが言う。馬屋原君は開きかけの本を手元で弄りながら、少し考え込んでいるようだ。ちらりと見えたタイトルは『オリエント急行殺人事件』だった。怪奇小説や幻想文学が好みだという話をしていたけれど、ミステリーも好きなのかな。
返事を待っていると、村岡先生が元気よく「みんなおはよう!」と言って教室に入って来た。皆が揃っていることを確認して、朝のショートホームルームが始まる。馬屋原君の返事を聞くのは後になりそう。
先生からの連絡事項は特に変わったこともなくいつも通りで、軽く予定を確認してショートホームルームは終わる。……と、思ったところで先生は何やらプリントを手に取って配り始めた。
前の席から回って来たプリントから自分の分を一枚取って、残りを後ろの亀倉さんへ回す。『旅』という文字が見えたような気がする。
「えー、五月も後半に入り、六月になると修学旅行が近付いてくるわけですが」
教室にクラスメイト達の「わーい」とか「やったー」とかの声が広がった。ぼくはプリントに目を落とす。
修学旅行か……。もうそんな時期なんだ……。
学校行事なんて楽しめるものじゃない。学校そのものが嫌なのに、璃紗と琉衣以外のクラスメイトともたくさん交流しなければならないなんて、たまったもんじゃない。去年や一昨年なら、きっとそう思っただろう。でも今年は、なんだか楽しめるような気がする。
ぼくが変わったのかもしれないし、環境が変わったのかもしれない。
「このプリントは忘れずにお家の人に渡してください」
「はーい」
「それじゃあ今日も一日頑張ろう!」
「うぇーい」
一時間目は数学。国語担当の我らが村岡先生は一旦教室から出て行った。先生は三時間目にまた教室へやって来る。数学の教科書とノートを机に出して、一時間目が始まるのを待つ。
数学の先生が来るまで少し時間がある。本でも読もうかな。
「神山君、先程の続きですが」
「あ、うん」
馬屋原君はぼくと同じようにほんの僅かな時間も読書に使うタイプらしく、机の上には『オリエント急行殺人事件』が開きかけの状態で置かれていた。文字を追うためには数秒さえも逃したくないはずなのに、ぼくに話をしてくれるらしい。
「大人と戦う時には、真正面からは行かない方がいいですよ」
「それじゃあ、回り道をするの?」
「まあでも、あまり遠回りでもよくないですね」
「馬屋原君はどうしてるの、大人の人と意見が食い違った時」
彼のことだから、きっと何か素晴らしい方法を知っているのだろう。
ぼくが期待の眼差しを向けて返答を待っていると、馬屋原君はふっと目を逸らした。何もない方をちょっぴり見て、それから改めてぼくを見る。
「おれは……。おれは、キミにそう言っておきながら我が侭に色々言ってしまうタイプですね。なるべく回り道をしたいと思っていますが」
「我が侭言うんだ……意外だな……」
「幼い頃からそれでどうにかできてしまったので」
「……それは、お坊ちゃまエピソード?」
「はは、そうかもしれませんね」
ショートホームルームと一時間目の間にできた短い空白の時間、教室にお喋りが複数生まれる。喧騒と呼ぶには静かな小さいざわめきの中で、馬屋原君は聞き取れないくらいの笑い声を漏らした。
クールという言葉が似合う人である。冷たい表情の人ではないけれど、おとなしいお坊ちゃんのおすまし顔でいることが多い気がする。なんとなく、ジェラルドさんを子供の大きさに縮めるとこんな感じなのかなと思う。
「おれ達はまだ子供なんだから、格好悪いくらい駄々を捏ねてもいいと思いますよ。ただ、それで駄目なら適切な回り道を見付けるべきです。自分に使える方法で、相手に効きそうな方法で、効果のありそうな方向から回り込んで。……神山君、きみの得意なことはなんですか?」
「得意……」
ぼくの、得意なことは……。
「ぼくは、本を読むくらいしか能がない」
勉強は並みで、運動神経はない。友達が多いわけではないし、琉衣みたいにそこそこ顔がいいわけでもない。ぼくにできることで自信を持って「得意」と言えるのは、本を読んで人よりちょっぴり上手に味わえているような気になることくらいだ。
馬屋原君は頬杖を着いている。ほんの少し大人びている顔が、見守るようにぼくを見ていた。お金持ちで大きな家に色々人も来ると言う。大人の人との付き合いが多いと、雰囲気が引っ張られたり影響されたりするのかな。
「素敵な才能だと思いますよ。持っているものを活かせばいいんです」
「う、うん……」
「頑張ってくださいね」
教室の扉が開いて、先生が入って来た。




