第二百二十七面 本当に何も知らないの?
武器や防具の音。足音。話し声。ドアの開閉音。
銀色のローブにくるまれて、ぼくは運ばれている。外の様子は全く分からないけれど、水の音が聞こえるので川か湖が近くにあるのかもしれない。白の陣の拠点がどこにあるのか、それは徹底して知られたくないようだ。
「ランス君、人間一人運ぶのは大変でしょう。代わりますよ」
「え。でも、クロさん銃持ってるのに。しかもそれ大きい方だし」
「君と一緒に外に出るんですから、重装備の方が周りに怪しまれないでしょう?」
「それはそうですけど。そこに加えてアレクシス君なんて持てないですよね」
「……ランス君、もうだいぶ日が傾いて来ましたね。馬を呼んでそれに乗せましょう」
馬かぁ……。と、ランスロットは乗り気ではない様子だ。馬に乗るのは得意ではないのかな。
「自分一人でも上手く乗れないのに、人を乗せるなんてできるかどうか」
「ワタシが坊やと一緒に乗りますから。ほら、さっさと出して」
「はい……」
ぼくは地面に降ろされた。自分の足が地に付いているのが随分と久し振りのように感じる。被せられているローブを少しずらして外の様子を窺うと、木立の中に佇んでいるランスロットの姿が見えた。クロヴィスさんの姿は見えない。ぼくの後ろにいるのかな。
地面に揺れる影が別の生き物のように蠢いていた。少し躊躇いがちに手を広げるランスロットに迎え入れられるように、影が形を作りながら浮かび上がる。それは馬の形をしていた。鎧を纏った影の馬だ。
チェスのナイトの駒は騎士の駒。馬の頭を模した形の駒である。このワンダーランドの夜の世界を闊歩するチェス達の中で馬を駆使するのは、馬上の騎士たるナイトと竜騎兵の役を担っているルークだ。ルークの駒は戦車とか塔とか色々あるけれど、ここで出会うのは重装備の馬を駆って規格外の砲撃を放つ、人馬一体の生身の戦車である。
ルークだというクロヴィスさんは馬には乗らないのだろうか。わざわざランスロットに頼んだのは、ランスロットがぼくのことを気にしているからかな。
影の馬は嘶くこともなく、一言も発しない。それどころか、呼吸すらしていないように見えた。
「上出来ですね。ほら、坊や」
背中を押されてぼくは立ち上がる。近付いても、影の馬は全く反応を示さなかった。ただの質量のある影だ。
「あの、ぼく馬に乗ったことなくて」
「それならほら、掴まってください」
いつの間にか馬上にいたクロヴィスさんがこちらに手を伸ばしていた。ぼくのことを見ている表情は道化師の笑顔ではなく、優しい兄のものだった。けれど、伸ばされた手をぼくが取った途端に表情は切り替わった。ぼくはひょいと引き上げられ、前の方に座らされる。
「本陣からもう少し距離を取っておいた方がいいですね。どっちへ向かいます?」
「北東の森、三月ウサギの庭、クロックフォード家。アレクシス君、あの家の子なので」
「あまり行きたくないところですが仕方ないですね。ランス君、遅れないように。坊やはしっかり掴まっていてくださいね」
返事をする前にローブをすっぽり被せられ、それと同時に影の馬が走り出した。走っているというよりも、地面を蹄で滑っていると表現した方がいいかもしれない。足音は聞こえないし、もっともっと揺れてもいいくらいなのに恐ろしいほど動きが安定していた。
しばらく進んで行くと、遠のいていた水の音が再び近付いて来た。先程のものとは別の池か湖があるのだろう。そうして、影の馬はスピードを緩めて立ち止まった。「もういいでしょう」というクロヴィスさんの声と共にローブが取り払われる。
夕暮れの森の中、壊れかけの塀が地面に影を落としている。ブランシャール家の敷地の外壁……なのかな? 影の馬に乗ってからあまり時間は経っていないけれど、どれくらいの速さだったのかは分からないので白の陣の拠点がどの辺りにあるのかは見当が付かない。
クロヴィスさんが大きな溜息を吐いた。
「あぁ、嫌だ嫌だ……。なるべく近付きたくないんだけどな……。……おっと! いやぁ、辿り着きましたねぇ! 坊や、いつもの三月の庭ですよぉ! この辺なら敷地の端の方なので誰も来ないでしょう。修繕もされていないような場所ですし、ランス君とのお話にはぴったりですね」
「ランスロットは? 追い付けるものなんですか」
「来ますよ。ほら」
指差した先の木々の間で影が動いた。その影が馬の形をしていると気が付いた時、乗っているランスロットの姿が見えた。と、思ったら落馬した。
「えぇっ!?」
「まぁ、いつものことですよ」
ランスロットは立ち上がって影の馬に乗り直すが、しばらく進んだところで動きを制御できなくなってしがみつくのがやっとの状態になった。そして再び落馬した。白の騎士というものはそういう定めなのだろうか。
下馬したクロヴィスさんに手を引かれてぼくは地面に下りる。すると、乗っていた影の馬は霧散していなくなってしまった。
「やあやあランス君、お疲れ様ぁ」
ぼく達のところへ到着したランスロットは、激しい戦いを終えて戻って来たかのように疲れ切っていた。呼吸を整える横で、仕事を終えた影の馬が姿を消す。
「ちょっと……飛ばしすぎですよクロさん……」
「今度乗馬のコツを教えてあげましょうか」
「いや、いいです」
「そうですか。残念残念。それではワタシはその辺で周りを見ているので、坊やとお話するならご自由にどうぞ」
ひらりと手を振ってクロヴィスさんはぼくから距離を取った。大きな銃を背負い直して、暗くなっていく森の中を警戒するように見回す。
もう、夜が近い。チェスの時間が始まろうとしている。チェスは他の陣のチェスを攻撃するものだ。のんびりしていたらぼくだけではなく二人も危ないだろう。ランスロットはくたびれているから、戦力はクロヴィスさんだけだ。
「アレクシス君、どこまで話をしていたっけ」
「えぇと、どこだったかな。ぼくがワンダーランドの人間じゃないって辺りかな」
「あぁ、そうだね。キミ……。キミは、アリスなのか」
つい先ほどまでへばっていたのが噓のように、気だるげな愛想笑いを浮かべてランスロットは言った。ほんの少し、愛想笑いの奥から恍惚そうな表情が滲み出ている。
伊織さんのことについて訊かなきゃ。
「きみの言うアリスが何なのかは分からないんだけど、部屋で話していた時に言っていた『あの時』のトランプみたいな人のことを教えてもらえないかな」
「……あれは、ボクの姿見から出て来たんだよ。すぐに逃げて行ったから、あの後どうなったかは分からないな」
「ねえ、その人どんな人だった?」
「興味津々だね……。髪の長い男で、キミの知っている情報屋に目元がよく似ていたよ。そういうやつが出たって話を情報屋にした時、あの男は随分と熱心そうにこの情報に食いついていたね」
あぁ、それじゃあ……。それは、おそらく……。
あの日、姿見に引き摺り込まれた伊織さんはランスロットの部屋に到着したんだ。すぐに逃げたのなら、ランスロットにこれ以上話を訊くのは難しそうだな。
「それじゃあ、それじゃあさ、ランスロット。きみの言うアリスって何? ぼくはなお……アレクシスで、アリスではないよ」
「名前のことじゃないよ。キミは本当に何も知らないの? 彼女から何も聞いていないんだね?」
「彼女……?」
「彼女が連れて来たわけじゃないなら、キミはどうやって……。いや、それまあ置いておくか……」
ランスロットは考え込むように少し黙る。それから鈍く光る銀色のローブを羽織って、ぼくの周りをゆっくりと一周した。足りないのか、もう一周。それでもまだ足りないらしくおまけにもう一周した。
「探しているんだ、ボク達は。アリスを」
立ち止まったランスロットはぼくを振り返る。青白い瞳がほんの一瞬紫色になったように見えたけれど、夕日が反射して違う色に見えただけかな。
「アリスって、何なの?」
「どこまで言っていいものなのか、ボクには判断しかねるけれど……。アリスは境界の果てより来る者だ。アリスを見つけることが、我々の目的。ボク達はアリスを探している。他の陣営よりも先に……」
「ランス君、坊やがアリスだという確証がないのならあまりべらべら喋らないでくださいね。アリスじゃなかったら、君、情報漏洩ですよ」
「すみません。……アレクシス君、詳しいことは……これ以上は話せない、かも。キミはアリスかもしれないけれど、アリスではないかもしれないから。彼女がいればいいんだけれど……」
完全に夜になる前に戻りましょう、とクロヴィスさんがやって来た。深く被ったフードの下はすっかり影になっていて表情がよく分からない。夜はチェスの時間だけれど、チェスにとっても危険な時間でもある。
ランスロットはまだ話し足りない様子だ。ぼくも聞き足りない。
「ランスロット、彼女って誰のことなの。名前を教えてくれないとその人が誰なのか分からないから、彼女がどうこうっていう質問にぼくは答えられないよ」
「それはそう……」
左耳のピアスを指先で撫でて、ランスロットは静かに目を閉じた。近くにいても上手く聞き取れないくらい小さな声で何かを呟いてから目を開ける。
「分かった。教えよう」
「ランス君、それ以上は」
「レイシー。レイシー・L・カルダモニカ。それが彼女の名前だよ」




