第二十二面 大事にしますね
クラウス。おそらくエドウィンの後輩だと言っていたクラウス張本人だろう。やって来た時の威勢はどこへ消えたのか、半泣き状態でエドウィンを見ている。
「何で兄貴が……」
「詳しいことは後で話すから、今は仕事に集中しろ」
「うう……」
ぐしぐしと涙を拭って立ち上がり、クラウスはエドウィンの手を引いて立たせる。表情を引き締めて、エドウィンに大岩に上がるように指示をする。
「あとは、そこのバンダースナッチですか」
「眠り鼠と、一緒にいる男の子もお願いするわ」
「分かりました」
レベッカさんに言われ、よいしょ……と大岩に上がったクラウスがぼくを見て首をひねる。
「どうして普通の子がこんなところに? 街まで送ればいいのかな」
「猫と帽子屋の家まででお願いします」
「ええっ……。えー、わかっ、分かった……」
バンダースナッチの首輪を掴み、ナザリオを引き摺って大岩から下りる。君もおいで、と言われたのでぼくも大岩から下りた。やっぱり格好良くなんて無理だから、滑り台みたいにして。
待機していたエドウィンの後ろには車が停めてあった。おしゃれな馬車の馬がいないバージョンみたいな見た目だ。オープンカーだけれど、スタイリッシュな感じは全くない。座席だけで車高の半分近くを使っているわけだけれど、ガソリンを入れる部分はどこにあるのだろう。もしかしてガソリンじゃないのかな。
クラウスが運転席に乗り、後部座席にエドウィンとぼく、そして黙ったままのバンダースナッチが乗る。ナザリオは足元で横になっている。何だろう、みんなしてナザリオの扱い酷くない?
コーカスレースの鳥達に見送られて、ぼく達は岩の広場を後にする。これだけ乗ってこんな岩場を進むなんて何だか心許ないな。
「クラウス、これ大丈夫なの」
「ガタガタ言ってるけど大丈夫だよー」
本当かなあ。
どうやらこの車、蒸気自動車らしい。スチームパンクな感じでぼくの大好物だけれど、王宮騎士なんだから馬を乗りまわしながらやって来るんだと思っていた。まさか車で来るとはな。
車に乗っている間、エドウィンは何も言わなかった。少し俯いて口を真一文字にしたまま、緑の瞳だけが虚ろにどこか遠くを見ているようだった。途中、大きな石を踏みつけて車がちょっと飛び上がった。その時にエドウィンにしがみ付いてしまったのだけれど、ごめんー、というぼくのこともちらっと見ただけで何も声をかけてくれなかった。うんとかすんとか言ってもいいじゃないか。
ほどなくして、車は猫と帽子屋の家に辿り着いた。ずっとやっていたのか、三人はティータイムを満喫している。
「おや、お帰りなさい。クラウスも一緒だったんで、え? バンダースナッチ……?」
アーサーさんがティーカップを取り落とした。石畳に落下したカップが紅茶を飛び散らせながら砕ける。銀に近い水色の瞳がすうっと冷たくなる。
「エドウィン、どういうことですか」
「ヤマネのやつが首輪を盗んで……」
ずんずんやって来たアーサーさんがエドウィンの胸倉を掴んだ。穏やかな微笑でも、冷たい顔でもない。眉間による皺と揺れる瞳が彼の怒りを表していた。
「アリス君を危険な目に遭わせるなといつも言っていますよね」
「……一匹くらいオレだけで倒せると思って」
「貴方が! 貴方がそこまで強いわけないでしょう! 人間相手なら問題ないのかもしれませんが、バンダースナッチですよ!」
「あの、帽子屋さん」
クラウスがハンドルから手を離す。
「どうやらレイヴンさんが負傷したらしくて……。そのうち救急隊が来ると思うんですが」
「イグナートが?」
一瞬、アーサーさんの瞳が危険な色を宿す。そして、左手だけでエドウィンを掴んでいたところに加えて右手でも掴みかかる。
「貴様ぁっ! 管理の仕事を任されているというのにどういうことだ!」
「おい落ち着け!」
様子を見ていたニールさんが駆けて来てアーサーさんをエドウィンから引き剥がす。今にも殴り掛からんとするアーサーさんを羽交い締めにして、後方へ下がる。
「離せ! 離せ馬鹿猫!」
「やめろ」
「一発殴ってやらないと分からないだろ!」
「いいから落ち着け!」
アーサーさんは眼光鋭くエドウィンを睨みつける。口元には鋭い犬歯が覗いていた。普段はどこからどう見ても人間なんだけれど、こういうまさに獣みたいな感じになることもあるんだな。もしかして、本気を出せば猫耳が生えたりするんだろうか。
振り払おうとしてアーサーさんはもがいているけれど、ニールさんはより強く締め上げる。
「俺の言うこと聞け」
アーサーさんの動きが止まった一瞬に、ニールさんが耳元で何か囁いた。ぼくには聞こえなかったけれど、それによってアーサーさんはおとなしくなる。
「すみません取り乱しました……。しかしエドウィン、気を付けて下さいね。私達は貴方のこと結構頼りにしているのですから」
エドウィンは目を逸らす。
ナザリオを連れて、ぼくは車を降りた。それじゃあ、と軽く手を振って、クラウスは車を発進させる。ぼこぼこと不安な音を立てながら車は木々の間に入って行った。
……エドウィン、大丈夫かなあ。
ニールさんはまだアーサーさんを羽交い締めにしていた。冷静さを取り戻したらしいアーサーさんが重心を落として、そのまま後ろ向きにニールさんの足を払う。バランスを崩したところで腕をすり抜け、尻尾を掴む。
「んがっ」
「いつまでくっ付いているつもりですか、汚らわしい」
「オマエが暴れたからだろ!? 手ぇ離せよ! そこ掴むな!」
いがみ合いながら二人はティーセットの席へ向かう。アリス君もおいでよー! とルルーさんが手を振っているので、ぼくはナザリオを引き摺りながら席に着く。
「ずっと飲んでたんですか?」
「私達はいつだってティータイムですから」
何だか緑色の不気味なお茶がティーカップの中で揺れていた。緑茶とか、そういうものではないのが明らかな、青汁並みにやばそうな色をしている。けれどお茶のいい匂いがする。目の前に置かれたので、勇気を振り絞って一口飲んでみる。あ、美味しい。
ぼくが変な顔をしていたのか、ルルーさんがにこにこ笑う。いや、いつも笑ってるか。
「グリーンベロウフのお茶だよー。見た目はすごいけど味はいいでしょ!」
「そうですね……」
少しお茶したら帰ろうかな……。もう両親が帰ってきているかもしれない。
「アリス君、今日は災難でしたね。バンダースナッチに出くわすなんて」
「あ、はい。チェスの力を持つ動物さんなんですね」
「あれはもうドミノとは言えねえな。今回のアレはきっとこの前の事件のやつだろ?」
「事件があったんですか?」
「うんうん! 街に現れて、何だか苦しそうな様子だったんだって。自分の影に飲まれてたらしいよ。だから保護って形で捕まったって。でも、ナザリオが首輪を取っちゃたんだねー。だから首輪を探していたんじゃないかな。たまにいるんだよ、影に飲まれて我を失っているだけで、本人はおとなしいってやつ」
「難儀な生き物ですね」
自分の力に取り込まれてしまうなんて、ちょっと怖いな。首輪を嵌められた後おとなしかったし、「カエセ」っていうのはそういう意味だったのか。苦しくて助けを求めに街まで来るやつもいるのか。
新しいティーカップにお茶を注いで、アーサーさんはいつも通りの優雅な動きで一口飲む。
「イグナートの容態は? 彼のことなので問題ないとは思うのですが」
赤く染まった姿が脳裏に過る。抉られた首元、食い千切られた肩口。皮膚が消え露わになった肉。人間じゃないのは分かっているけれど、体自体は人間と同じなんだ、見ていられなかったし、思い出したくない。
ぼくが黙っているので、三人は心配そうな顔になる。
「言いたくなかったら言わなくていいぞ。かなり酷かったんだろ」
「……食べられてました。大丈夫なんですか、あれ」
「あー、さすがにそれは彼でも厳しいかなー……。快復までしばらくかかりそうだね」
「心配ですね……。街まで運ばれるでしょうから、今度三人でお見舞いに行きましょう」
ナザリオは置いていくんだね……。
緑色のお茶を飲み干し、ティーカップをソーサーに置く。
「じゃあ、ぼくはそろそろ……」
「あ! 待って待って! 待ってよアリス君!」
ルルーさんはジャケットのポケットに手を突っ込んで、何かを取り出す。席から立とうとするぼくの手に強引に握らせ、大変満足といった様子でうんうん頷く。
「え、何ですか」
「ニールとアーサーと相談した結果、持たせておいた方がいいという結果になったんだよ。見て見て!」
手を開くと、小さな黄色いひし形が載っていた。ブローチ……かな。
「さすがにスートを着けていないと怪しまれちゃうからさあ」
「イグナートさんも黄色のダイヤにしろって言ってました」
「まあ、無難ですからね」
「無難だからな」
何が無難なんだろう。まあとにかく、これを着けておけば出会った人にとやかく言われないってことか。早速上着の胸ポケットに着けてみる。
宝石か何かが埋め込まれているのか、日差しを受けてきらきら光っている。綺麗だなあ。
「あの、これいくらだったんですか」
「お代はいりませんよ。アリス君、この国の通貨持っていないでしょう? 貴方の国のお金をもらっても困りますので」
「あ、ありがとうございます。大事にしますね」
◆
鏡をくぐり、元の世界に戻ってくる。階下から声が聞こえてくるので、両親は帰ってきているようだ。タイミングを見計らって靴を玄関に置いてくることにしよう。
姿見に自分を映す。黄色いダイヤが光っていて、ぼくもトランプになったみたいな気分だ。ワンダーランドに認められたような気がする。
さて、本でも読むかな。
適当に本棚を漁って出てきたのは『のどか森の動物会議』だ。森を開発しようとする人間と森の動物たちの攻防戦が描かれている。主役格として大食いの烏が登場する。
烏か……。イグナートさん、早く元気になるといいな。
表紙で笑う烏の絵にギルドオーナーを思い浮かべながら、ぼくは椅子に腰を下ろした。




