第二百二十六面 鏡を人が通れるわけないよ
ランスロットは姿見に這わせた指を名残惜しそうに離した。表情は気だるげな愛想笑いに戻っている。
「そこの窓は嵌め殺しだから開かない。だから、この部屋の出入り口は二つ。廊下に繋がっているそのドアと、この……この、姿見だ。人間と思しきキミが廊下を通ってドアを開けてやって来ることなんてほぼ不可能だ。つまり、キミは姿見の向こうからやって来たということになる」
「鏡を人が通れるわけないよ」
「普通はそうだろうね。でも、そうとしか考えられないから。これはボクの重大な秘密なので普段は絶対に言わないのだけれど、キミには特別に教えてあげる。だってキミはアリスかもしれないから」
垂れて来ていた銀色の髪を耳にかけて、ランスロットは微笑む。
彼の言うようにぼくはこの姿見から出て来た。それは事実である。けれど、肯定すると自分がワンダーランドの人間ではないと答えることになってしまう。いや、もう疑われているのだから言ってしまってもいいのか? うーん、でも……。
ベッドから下りて、ぼくはランスロットに少しだけ近付く。ぼくの動きに合わせて青白い瞳が動いた。立ち止まったままぼくのことを目で追っていたのが、ぼくが斜め前に立った瞬間に踏み出して距離を詰めて来た。標的と対峙した時のナイトの駒の動き方である。トランプだと言い張っているけれど、やはりチェスなのだろうか。
彼が白のナイトの駒なのであれば。彼が白の騎士ならば、アリスと呼ばれるぼくに攻撃するようなことはない。おそらく。でも、この世界の人々は物語の登場人物その人ではないのだから何が起こるかは分からない。
「あの姿見はね、異空間に繋がっているんだよ。キミ、そこから来たんだろう?」
「でも、さっきランスロットが触った時は何ともなかったよね。突き抜けたり吸い込まれたりしないの?」
「あれはこちら側から入ることはできないんだよ。あくまでここへの入口だからね。こちらから出ることはできないよ」
「えっ! じゃあどうやって帰……。……あ」
しまった。ぼくは慌てて、思わず口を塞ぐ。
青白い瞳がぼくのことをじっと見つめていた。問い質していたけれど、まさか本当なわけがないと思っていたのだろうか。ランスロットは目を丸くしていた。
「キミ、本当にこの姿見から……? もしかしたらチェスの目を掻い潜る驚異の潜伏能力でも持っているのかもしれないと思ったけれど、本当にここから出て来たの……?」
「えぇと……」
「以前にも姿見からトランプのようなやつが現れたことはある……。やはり不思議の鏡は機能している……。それなら、彼女は……?」
ぶつぶつと呟いてランスロットは姿見とぼくを交互に見遣った。
「彼女」のことはよく分からないけれど、「トランプのようなやつ」のことが気になる。なぜなら、一つ心当たりがあるからだ。今日、ぼくは白ずくめの女が歌っている歌を姿見の前で口ずさんだ。そうしたら、いつもとは違う場所に辿り着いた。今日のぼくと同じようにあの歌を姿見の前で口ずさんで、猫と帽子屋の家に到着しなかった人がいる。伊織さんだ。
あの日、ぼくの目の前で姿見に引き摺り込まれてから何があったのか。ランスロットの言う「トランプのようなやつ」が伊織さんならば、大和さんと合流するまでのことが分かるかもしれない。けれど、それについて訊くためには自分が姿見の向こう側から来たということを認めなければならない。
「あ……。ラ、ランスロット……」
「なぁに」
「あのですね……。ぼく……ぼくは……。ぼくは、こことは違う場所から来ました」
「……本当に? 本当にキミは、この向こうから……。でも、そうだよな、他に部屋に入る方法もないし……。あの時も……」
ランスロットはまたぶつぶつとしばらく呟いて考え込んでから、自分を納得させるように数回頷いた。
「キミはやはりアリスなのか」
「きみの言うアリスって、何? 前、ぼくのことをアリスだって言った時、いつもとはちょっと違う感じになっていたよね」
「……外に出ようか。ここで長々と話していてチェスがやって来たら困るからね」
建物の中にいる間はボクの言う通りにしていてね。そう言って、ランスロットはクローゼットから銀色のローブを取り出してボクに被せた。そしてぼくはそのままくるんと包まれてしまった。「え?」とか言っている間に足が床から離れる。どうやら抱えられるか担がれるかしているらしい。
状況が分からないまま、ぼくは部屋の外に連れ出された。ドアの開閉音と、ランスロットの足音と、運ばれている感覚。時々誰かの話し声や足音、それに武器や防具が触れ合う音が聞こえて来た。
「ああ! あぁ、ランス君。丁度良かった!」
「ク、クロさん……。どうしたんですか、そんなに慌てて」
クロさん。すなわち、ルルーさんのお兄さんであるクロヴィスさんだ。ランスロットがここにいる時点で彼の存在も予想できたけれど、チェスの白の陣の拠点だというこの場所にクロヴィスさんがいるということはやはりそういうことなのだろう。クロヴィスさんは、確かにチェス側の人なのだ。
「随分大きな荷物だね。どうしたんだい」
「あ、いや、これは何でもないんですよ」
「重そうだね。手伝おうか」
「いや! いや、大丈夫です! それよりもクロさん、ボクに何かご用ですか」
「あー、えーとねぇ、そのねぇ……。……薬、君持っていないかな。陛下がお留守のようでね。陛下のお気に入りの君ならもしやと思ったのだけれど」
「いえ、ボクは持っていませんけど。リリィさんに訊いてみた方がいいかもしれませんね」
「そうか、それじゃあリリィを探しに行くか……。この時間だとまだ寝ているかな……」
クロヴィスさんの声からは徐々に元気がなくなっていった。道化じみた雰囲気は全くない。ランスロットは抱えるか担ぐかしているぼくのことを持ち直す。足音が動いたので、おそらくクロヴィスさんに近付いたのだろう。
「クロさん、体は大丈夫なんですか」
「ん……。どうだろうね。ワタシは大丈夫な状態なんてとっくの昔に過ぎているからね。いつまでこの誤魔化しが効くか……」
「つ、辛かったり苦しかったりしたら言ってくださいね。ボク、クロさんの力になりたいです」
「ふふ、ありがとう。そう言ってくれるだけでとても嬉しいよ。お礼代わりに荷物運びを手伝ってあげよう」
えっ、というランスロットの声の直後、クロヴィスさんの手と思われるものがぼくのことを掴んだ。
「むぎゃ」
「……は? ランス君、これ中身生き物?」
「あ、いや、えっと、あのですねぇ」
「何を隠している、ランスロット。見せなさい」
「あぁ、駄目ですクロさん、駄目、誰かに見られたら」
思わず動いてしまったぼくと、持ち直そうとしたランスロットと、ローブの中身を探るクロヴィスさん。銀色のローブははだけ、ぼくは床に落ちた。お尻か腰か何かその辺りを擦りながら、ぼくは顔を上げる。若干青褪めているランスロットと目を丸くしているクロヴィスさんがぼくのことを見下ろしていた。いつもはフードに隠れているウサギの耳が今日はぴょこぴょこ揺れているのが見える。
さて、どうしよう。
大きく動いたのはクロヴィスさんだった。ぼくを包み直そうとしているランスロットからローブを取り上げる。
「おや。おやおやおや! 猫兄弟のところの坊やじゃないですか! ランス君、どこから連れ込んだんです」
「クロさんどうかこれは内密に」
「キミ、今日はずっと屋内にいたはずですよね」
「後で説明します。とりあえず彼を外に連れて行くところまで手伝ってもらえませんか」
「坊やをここに置いておくわけにはいきませんからね。分かりました。リリィのところに行って来るので、少し待っていてください」
「リリィさんに言わないでくださいよ」
「言いませんよ。彼女に言ったところでワタシに利益なんてないですし。それじゃあ坊や、ちょっとだけ待っててくださいねぇ」
道化師じみた雰囲気を纏いながら、クロヴィスさんは廊下の向こうへ姿を消した。ぼくの存在を認識してから話し方も変わったから、ランスロット一人を相手にしている時の方がもしかしたら素なのかもしれない。
去り際に返却されたローブをぼくに被せて、ランスロットは小さく溜息を吐いた。
「クロさん……」
「ねえ、クロヴィスさんは」
「キミには関係のないことだ。誰が通りかかるか分からないから黙ってて」
「……はい」
しばしの間待っていると、数体のチェスが近くを通って行った。チェスは時々「ぎぎぎ……」とか言っているけれど意思疎通はできているらしく、みんなランスロットに親し気に声をかけて通って行く。ぼくの知らないランスロットだ。彼は本当にチェスなんだ。本当に本当にチェスなんだ。
それなら、どうして。
どうして、ランスロットは人間であるぼくのことを攻撃しないのだろう。自分のことをトランプだと言うのだろう。クロヴィスさんはどういう状況なんだろう。
考え込んでいるうちにクロヴィスさんが戻って来た。上着のフードを深くかぶっていて、ウサギの耳はすっぽりと覆われて隠れている。そして手ぶらだった先程とは異なり、ショルダーバッグと大振りの銃を肩から提げていた。大袈裟な身振り手振りをして登場した際に上着の裾が捲れて、太腿にもホルスターを付けているのが見えた。
「はいはーい、お待たせ! それじゃあランス君、坊や、行きましょうか」
物騒な武器を携えながら、これからピクニックにでも行くかのようにうきうきした様子で言う。その姿は舞台に躍り出て来た道化師のようにも見えた。
「アレクシス君、ボクが『いい』と言うまで顔を出さないでね」
そう言って、ランスロットはぼくにローブをかけ直した。




