第二百二十四面 まだ読んでいないみたい
五月になって、連休があって、四日が来て、ぼくは十五歳になった。また一つ年を取ったけれど、だからと言って何かが変わるということはない。学校へ行って、帰って来て、本を読んで……。何の変哲もない平凡な日々が続いている。
平和だ。退屈なくらい。
「神山先輩、ちょっといいですか」
なんでもない放課後。カウンターから図書室を眺めていると宿谷君に声をかけられた。座っているぼくのことを覗き込むようにして見下ろしている宿谷君はとても大きな存在のように見える。手には数冊の本を抱えていて、何やら困っている様子だ。
まさか、再び蔵書にいたずらでもされたのだろうか。でも、あれは馬屋原君がなんとかしてくれたはずだ。
「その本、何かあったの」
「あ。いえ、これはただ持っているだけです」
「それじゃあ、何の用?」
宿谷君はきょろきょろと図書室を見回して、集っている生徒達が皆各々の読書に集中しているのを確認してからぼくを改めて見下ろした。図書局の仕事中におしゃべりをするのは良くないけれど、カウンターに用事のありそうな人がいなければ多少は問題ないだろう。
「仕事が終わってから、勉強教えてもらいたいんですけど……。今度小テストがあって」
「え。いいけど、ぼくそんなに成績いいわけでもないよ。何の教科?」
「数学……」
「数学かぁ~」
数学か……。数学は璃紗に訊いた方がいいかなぁ……。
ぼくの成績は特別良くも悪くもない。不登校を極めていたブランクはかなり埋まっていて、授業にも付いていけているしテストの点だって平均点より高い。けれど、当然得意なものと苦手なものがある。数学はあまり得意ではない。
「国語なら……。いや、でも大丈夫。数学だね。頑張る」
「え……。だ、大丈夫なんですよね?」
「たぶん」
何とも言えないぼくの返答を聞いて何かを察したらしい宿谷君は不安そうな顔になってしまった。
この本借りたいんですけど、という生徒がやって来たことでぼく達の会話はそこまでとなった。その後は普通に図書局員としてそれぞれ本日の仕事を全うし、やがて図書室閉館時間になる。司書さんに司書室を少し使いたいということを伝えて、ぼく達は移動した。
図書室だよりの確認用原稿をよけて、宿谷君はノートと問題集を広げた。一年生の春の授業内容。四月の間は途中まで登校できていたし、一年生の内容を理解できているからこそ今の授業内容が理解できるのだから、なんとかなるだろう。問題集から顔を上げると、心配そうにぼくを見下ろしている宿谷君と目が合った。
「大丈夫なんですよね?」
「そんなに心配? 大丈夫だよ。うん。分かる、これなら。どの問題について知りたいの」
「この問五なんですけど」
「これはね……」
教科書も確認しながら、ぼく達は問題集との戦いを始めた。人に勉強を教えることは自分の勉強にもなるというから、宿谷君に教えることでぼくも理解を深められるといいな。
そうして、しばらくの間ぼく達は数学と戦った。「今何時か分かってる?」と司書さんから声をかけられて、ぼく達は思ったよりも時間が経ってしまっていたことに気が付いた。腕時計を見て、お互いに「随分集中していたね」と笑い合う。
「そろそろ帰りましょうか」
「小テストの対策は万全?」
「うーん、後は自分で頑張ってみます」
勉強道具を片付けて、図書室を後にする。
まだ居残っているどこかの部活の声を聞きながら、廊下を歩く。背の高い宿谷君と並んでいると自分が小さくなってしまったみたいで、「キノコのこちら側」を食べて背を伸ばしたい気分である。
宿谷君のエナメルバッグからはスズメのキャラクターのキーホルダーがぶら下がっていた。まん丸の茶色がころころと揺れていてかわいらしい。
「先輩、前に王子様の出て来る本を探していたじゃないですか。本をお薦めしてあげた人、気に入ってくれましたか?」
「まだ読んでいないみたいなんだよね」
「え! 図書館の貸出期間過ぎちゃいますよ!?」
「うん、過ぎそうになったら延長するよ」
あんなに面白いのにまだ読んでいないなんて! と、宿谷君は残念そうな、憐れむような顔をした。
鬼丸先輩に探りを入れられた日、寺園人形店に戻った時にアトリエに立ち寄ったぼくは『幸福な王子』と『白鳥の王子』の絵本が作業台の上に置かれたままになっているのを見付けた。読もうとは思っているけれどまだ集中して読める状態ではないらしく、この間一緒に当番だった寺園さん曰く「寝ている日が多い」とのこと。眠りたいのに眠れないという状態だったのが眠れるようになったのはいいことなのかな。
信号待ちで立ち止まっていると、向こう側の文房具屋の前に見覚えのある人物を見付けた。茶色を基調とした雅野高校の制服姿で、リュックを背負っている。鬼丸先輩だ。
青になった信号を渡って進んだぼくは文房具屋の前で立ち止まった。ぼくを見て宿谷君も立ち止まる。
「鬼丸先輩、こんにちは」
「ん? あぁ、神山君」
先輩は店頭のワゴンに置かれたセール品の文房具を手にしていた。ぼくから宿谷君へと、上の方へと視線が移される。
「キミは……」
「一年生の宿谷君です。宿谷君、こちらは鬼丸先輩」
「へぇ、よろしく」
「あなたが!? 鬼丸先輩!? あの!?」
「ボクのことどんな人間だって伝わってるの」
宿谷君は感激した様子で、差し出された先輩の手を思い切り掴んでぶんぶん振った。
「宿谷雲雀です!」
「お、鬼丸栞だよ……」
「わぁ、本物の鬼丸先輩だ! オレ、オレ神山先輩に憧れて図書局に入ったんです。神山先輩が困ってる時に声をかけてくれたのが鬼丸先輩なんですよね? だから、鬼丸先輩は神山先輩の恩人。つまり、鬼丸先輩がいなければ今の神山先輩はいないってことですよ。オレの大好きな神山先輩は鬼丸先輩のおかげで……」
「待って。ストップ。待って。勢いがヤバい」
先輩は宿谷君の手を振り解き、飛び退くようにして距離を取った。不審者を見る目を宿谷君に向けながら、先輩はさらに数歩後退る。対して、宿谷君はわくわくとした表情のまま先輩を見つめていた。
どうすればいいのか分からなくてぼくは黙って様子を見守る。先輩が持っているボールペンのボディが綺麗な紫色をしているな、とか、そんなことを考えていた。
両者の動きが一瞬止まった直後、踏み出したのは宿谷君だった。反射的に先輩は後退しようとしたが、宿谷君が先輩を捉える方が圧倒的に早かった。一気に距離を詰めて、羨望の眼差しを向ける。
「わぁ、あぁ、鬼丸先輩! 好きです!」
「神山君、この子大丈夫?」
「鬼丸先輩の書いた推薦図書の文章めちゃくちゃ好きで、オレもあんな風に人に本を薦められるようになりたくて」
「そう……ありがとうね……。あの、ここの店で売ってるブックマーカーが使いやすくておすすめだよ。文房具、飛び切り新しいものを買うのなら大きなショッピングモールにでも行けばいいんだろうけれど、ここはいいものを売っているからね。おすすめ」
微妙に話題をすり替えられたような気がするけれど、宿谷君は大袈裟なくらい大きく頷いて店内に入って行った。背の高いその姿が棚の影に見えなくなったところで、先輩はぼくに目を向けた。解放されて少しほっとしているようにも見える。
「神山君」
「い、いい子なんですよ宿谷君」
「きみが信頼を置いているのならそうなんだろうね。……あのさ、うちの店にあの人が来てから白さんがぼんやりしていることが多いんだけど何か心当たりはない? レイシーだっけ。その名前にやっぱり何か思うところがあるのかな。あの人は何か言っていない?」
「特には」
「そう」
先輩は手にしたボールペンを確認してから、レジの方へ歩いて行った。ぼくも少し文房具を見て行こうかな。
そして、使いやすそうなノートを一冊買ってぼくは帰宅した。
控えめな挨拶で立ち去ろうとしていた先輩は、「またお会いできる日が楽しみです!」と食い気味に宿谷君に言われてかなり困惑した様子だった。
制服から着替えて、ぼくは姿見の前に立つ。
白ずくめの女が本当にレイシーなら、彼女は鏡の向こう側からやって来た人ということになる。本人に分からなくて、大和さんも確信が持てないのだから今は彼女の正体を確定させることはできないけれど。先輩が言っていたようにレイシーの名に何か反応を示しているのは確かなんだけどな。
そういえば、あの日……。
伊織さんが姿見に飲み込まれた日。きっかけはあの歌だった。あの歌は、何なんだろう。大和さんがワンダーランドで聞いたと言っていた、レイシーの歌。骨董品店で白ずくめの女が口ずさんでいる歌。
「えっと、確か……。回れ、回れ……歪な歯車。迷え迷え……時の、中で。……踊れ、踊れ、つ、繋がれた、まま……? 歌え? 歌え、古の、うた? くるくる……。くるくるくるり、きらきらら……?」
――おかえり、レイシー。待っていたよ。
「えっ」
姿見の向こう側から声が聞こえた。声を認識した直後、自分の意思など無関係にぼくは姿見に引き寄せられた。
あの時と同じだ。
――レイシー、おかえりなさい。
そうして、ぼくの周りの世界は鏡の向こう側へと切り替わった。




