第二百二十二面 真面目ちゃんだな
「かぐや」
「離せっ!」
白ずくめの女の手を払い除け、大和さんは右目を押さえて後退する。
「あら……? 私……。私、今貴方に何か言ったかしら……。何を……私……」
「の、納品は済ませたから。鬼丸君、角田さんによろしく伝えておいてね」
そして逃げるように店を出て行ってしまった。ぼくは先輩と白ずくめの女に挨拶をしてから後を追って外に出る。ぼくが店のドアを閉める頃には大和さんはもう車に乗り込んでいて、右目を押さえたまま俯いていた。
助手席に乗り込んで声をかけると、左目がぼくのことを見た。青い瞳は日の差し込む車内で揺れている。
「大和さん」
「あれ以上見られたらさすがに気が付かれると思って……。それに、そもそも……あまり見られたくない……。触られた時に手を上げなかったこと褒めてくれていいんだぜ。伊織じゃなくて、俺ならもっと思い切り払うからさ」
「顔色がよくないです」
「調子はずっと悪いんだって……」
どん、という音にぼくはびっくりして振り向いた。ぼくを追って来たのか、車の横に先輩が立っていて窓を叩いている。無視するわけにもいかないので窓を開けると、先輩は閉めさせないぞと言うように枠に手を載せた。
「その人大丈夫?」
「あ、えっと、伊織さんスランプが体に響いていて……」
「白さんのこと、何か知っているんですか。レイシーって何なんですか。知っているのならボクにも教えてください。得体の知れない女をおじいちゃんの傍に置き続けたくないんです」
「僕のこと嫌いなんだろう? 嫌いな人の言うこと信じるの、鬼丸君は」
大和さんは包みを剥がして飴を咥え、車にキーを差し込む。エンジンがかかった。先輩の質問には答えずに発進するつもりらしい。ぼくもとりあえず撤退したい。先輩の気持ちは分かるけれど、答えるとなると伊織さんと大和さんのこと、そしてワンダーランドのことまで説明しなければならない可能性がある。つまり、ぼくのことも。
ハンドルに大和さんの手がかかったのを見て、先輩は枠に載せていた手を車内に伸ばして来た。ぼくのパーカーのフードを掴んで離さない。このまま車が動くと大変なことになる。
「鬼丸君、危ないから離れてね」
「運転のお供は缶コーヒーって言ってましたよね、伊織さん。眠くならないように」
「よく覚えてるね……。でも今日は飴の気分なんだよ」
眼鏡の奥で先輩の目が驚きに見開かれた。
「伊織さん」
「何」
「ボク、アナタとコーヒーの話をしたことはありませんよ。運転中はコーヒーをかかせないだなんて、一度も」
「は……?」
「アナタは一体、誰なんですか?」
「嵌めたのかい、僕を」
ミステリーなどで度々目にする、探偵役が犯人を引っ掛ける会話。犯人しか知りえない物事を発言させたり、実際にはなかったことをあたかも真実であるかのように語りそれに同意させることで嘘を見抜いたり。
先輩は犯人を見事に嵌めた名探偵の笑顔であり、大和さんは名探偵に嵌められ計画が狂ってしまった犯人の悔し気な顔である。
「神山君、この人は誰?」
「こ、この人は……」
どうしよう。完全に追い詰められた。
先輩と伊織さんはそこまで頻繁に顔を合わせていたわけではないから上手く切り抜けられるかもしれないと思っていたけれど、そうはいかないらしい。先輩はぼくが思っていたよりもずっとずっと伊織さんに執着していて、伊織さんのことをよく見ている。何らかの軋轢があって憧憬と嫌悪を同時に抱いているからこそ、その対象と接触する時には大いに注意を払っているということだろう。恐ろしい観察力と記憶力。探偵みたい。
発進を待っていた車のエンジンが止められた。キーを抜いて、大和さんは左目を先輩に向ける。顔に浮かんでいる表情は伊織さんのものではなく大和さんのものだ。
「有主君、彼は信用に足る子?」
「えっ……。お、鬼丸先輩はいい人です……」
「そう。……鍵開けたから乗りな。少しだけ答えてやるから」
先輩が後部座席に乗ったのを確認し、大和さんは再び施錠する。
「あの……。本当に、伊織さんじゃないんですね……」
「よく見ているんだな。そんなに伊織が好きか」
「嫌いです」
「そんなにはきはきした声で言うな。アイツのことが嫌いだとか言われるとお兄さんちょっぴり悲しいぞ」
「あの人とは色々あるので……」
色々について先輩は話すつもりはなさそうだ。大和さんもそこには触れようとはしていないようである。代わりに飴を一つ後ろに差し出す。
「よかったらどうぞ」
「あ、ありがとうございます……?」
「伊織をよく見ている君に、俺はどう見えている?」
棒を持って飴を眺めていた先輩は顔を上げる。怪しげな男から渡された飴をどうしようかと思っていたらしい先輩は、ぼくが同じものの包みを剥がして口に入れたところを見て少し安心したようだった。伊織さんのふりをしている不審な男を警戒し続けていた先輩の緊張感が少しだけ弱まったように見えた。
顔も背格好もほとんど同じで、着ている服は伊織さんのもの。声は違うけれど他人の声なんて親しくない限り覚えていないだろう。髪型だってその日の気分で変わるものだ。両方を知るぼくから見てもクオリティはかなり高く、数回しか会っていない人ならば彼が伊織さんではないなんて気が付かなさそうなくらいだ。実際、違和感を覚える人はいるけれど本人ではないと指摘して追及してきたのは先輩が初めてだ。
「神山君と一緒に店に入って来た時には伊織さんだと思ったんです。顔がよく似ていたから。でも、何か違うような気がして……。上手く擬態しているけれど別人ですね、どう見ても。イメージチェンジしたと言われて信じてしまう人も多そうですが、ボクは騙されませんよ」
「ご立派な名探偵だな。でもそれなりに誤魔化せてるみたいで安心したよ。余程伊織のことが好きじゃない限りは気が付かれねえってことだよな」
「だから好きじゃないですって。それでアナタは誰なんですか」
大和さんは後部座席を振り返ってにやりと笑った。飴の棒を弄びながら、舌先で飴を転がす。
「俺はアイツの兄貴だよ」
「お兄さん……? でも、寺園さんは二人兄妹ですよね」
「あぁ、つぐみちゃんと俺は違うんだよ。俺は伊織の双子の兄貴で、大和っていうんだ。河平大和」
「河平さん……? えっと、つまり……。アナタ、大和さんは河平家に……。違う、逆か。伊織さんは元々は寺園家の人間ではなかった」
「そういうこと。でもあんまり外に言いたくない話だから今日この車の中で話したことは他言無用な」
詮索もしないこと、と大和さんは付け加える。先輩は明らかになった事実に驚いた顔のまま頷いた。「確かに似てな……」まで言いかけていたのをぼくは聞き逃さなかった。確かに似てないよね。言ってしまいそうになるのは分かるし、言い切ってしまわない先輩は偉いと思う。
諸事情で別々に暮らしていること。諸事情で伊織さんは遠方にいて、代わりに大和さんが来ていて伊織さんを演じていること。諸事情については教えられないこと。大和さんは説明を終えると小さくなっていた飴を噛み砕いた。
ワンダーランドのことも獣のことも伏せつつ、それでいてなんとか納得できるぎりぎりのところという説明だった。疑っていない人ならばすぐにでも分かってくれそうだけれど、先輩はどうだろう?
「そうなんですね、分かりました。……と言うことはできないですね。どんな事情なのかは知りませんが、人の振りをして生活するなんて……。アナタ本人はどこへ行ってしまったんですか? 伊織さんがアナタの振りを? 双子の入れ替わりなんて、物語じゃないんですから。何か不都合なことが起こったらどうするんですか」
「真面目ちゃんだな」
「いや、だって問題が起きたら困りますよね」
「困るんだよな。だから俺が俺だってことは内緒な。僕はあくまで寺園伊織だからね」
「神山君は……。というか、寺園家の人はみんな分かっていてアナタに加担しているんですか。一体何がどうして……。犯罪とかは関係ないんですよね? アナタに協力して、それによってボクが不利益を被ることはありませんか?」
先輩の言いたいことはよく分かる。詮索されたくないことがあって、双子の兄弟の振りをしていて……。そんなの気になることばかりだし、何かあるのではないかと心配になってしまう。自分はこの話に乗ってしまっていいのだろうか、と。
大和さんは飴の棒をゴミ箱に捨てると、穏やかな笑みを浮かべた。伊織さんの笑い方であり、それを見た先輩が一瞬不愉快そうな顔になる。
「僕が危ないことをすると思う? 法に触れるようなことに手を出すと?」
「……故意に何かすることはないとは思います。故意には」
「故意」を強調して先輩は言う。二人の軋轢の原因が絡んでいそうだけれど、触れないでおこう。
「僕は危ないことをしていないし、大和だってここで何かをするつもりはないから安心してほしいな。君は僕のことを嫌いかもしれないけれど、僕は君を信用に足ると思って話をしているのだから。どうか大和のことは内密に。僕はあくまで僕だからね」
「……伊織さんはともかく大和さんは少し怖い感じがしますね。言いふらして回ってやるなんて言ったらここでどうにかされてしまいそうです。では口外しないようにしましょう。致し方ない」
「話の分かる子でよかった。それじゃあ僕と神山君は店に戻るから……」
「本題がまだですよ、伊織さん」
前方に向き直った大和さんに「逃がさない」と言うように、先輩は運転席のシートに手を掛けた。ハンドルに手を伸ばしていた大和さんがバックミラー越しに後ろを窺う。
「店まで着いて来るつもり?」
「白さんのことを聞きに来たんですよ、ボクは。何かご存知なら教えていただけますか?」
大和さんは答えずにドアの鍵を纏めて閉めた。蛾のキーホルダーが揺れるキーを差し込み、エンジンを掛ける。このまま発進するつもりらしい。先輩が慌てて降りればそれまで、乗ったままであれば話を続けようということだろうか。
先輩は少し驚いたようだったけれど、運転席から手を離して座り直し、シートベルトを締めた。それを確認すると、大和さんはアクセルを結構強めに踏み込んだ。




