第二十一面 己惚れるなよ
岩の広場には緊張した空気が漂っていた。
腕組をしたハワードさんが岩に腰かけて足まで組んでいた。黒縁眼鏡がぎらぎら光っている。その横には向かって左にレベッカさん、向かって右にはセリーナさんが控えている。そして、その正面にはエドウィンが膝を抱えて座っている。両脇には向かって左にグスタフじいさん、向かって右にヘレンがいて動きを封じられている。そして、ぼくは両者の間、といっても広場の真ん中ではなくて、大岩の上に座っている。ぼくの左にはティリーがいて、右にはエルシーがいる。ナザリオはぼくの後ろで相変わらず眠っていて、その横におとなしくバンダースナッチが座っていた。バンダースナッチはうなだれたまま全く動かない。そして、ぼくの向かい側の大岩にチャドじいさんが座っていて、イグナートさんは奥の小屋で横になっているそうだ。
夏の日差しがじりじりと広場に落ちる。岩に照り返していて暑いし眩しいし、何より突き刺さって来て痛い。日焼けなんてしたら、両親に何を言われるのだろう。半引き籠り状態のぼくが野外にいるなんて……。言い訳はその時に考えるか……。
広場に影が落ちる。見上げると風来坊の蝶がひらひら飛んでいた。
蝶が頭上を過ぎて行ったのが合図だったかのようにハワードさんが口を開く。
「エドウィン、今回のいきさつを話してくれるか」
エドウィンはフランベルジュを大事そうに抱えていた。観念したかのように息をついて、語りだす。
「ことの発端は眠り鼠がバンダースナッチの首輪を持ち出してしまったことだ。街の交番で一時的に拘束されていたんだが、『枕下さい』と寝惚けた眠り鼠がやって来て、警官達の忠告も聞かずに首輪を持ち出した。だからオレに捜索するようにと命が下された。眠り鼠を一人で探すのは難しい。だから帽子屋達に協力を求めた。そしてナオユキを連れて行っていいと帽子屋が言ったので、オレはナオユキを連れてここまで来た」
ナザリオが訪れたのは寝具店ではなく交番で、持ち出したのは枕ではなく首輪だった。それ以外についてはぼくも知っていることかな。
「コーカスレースのことはいつも頼りにしているし、ナオユキにオマエ達を紹介するいい機会だとも思った。そしてオマエ達は眠り鼠を見付けてくれた」
「君はバンダースナッチが絡んでいることを隠していたな。それは何故だ?」
「ナオユキを怖がらせたくなかった」
「君ねえ……」
ハワードさんが眉間に手を当てる。
「元々我々はバンダースナッチの調査をしていた。その息抜きになるかと、ただの鼠探しだと思って依頼を受けたのだよ? バンダースナッチが関わっているのだと言ってくれればそれなりの装備をして出発していたよ。それに分かっていたらティリーやエルシーを捜索に出すことはなかったんだ。君、どうするのだね幼いティリーが襲われたなんてことになっていたら」
ハワードさんに睨まれてエドウィンは黙ってしまう。ぼくは勇者なので大丈夫ですよとティリーは言っているけれど、それってコスプレみたいなものだよね。
「まあしかし、襲われたのがイグナートというのは我々にとっては不幸中の幸いだけれど、君にとってはとても不幸だな」
「くっ……」
「管理対象を自分のミスで負傷させるなんてとんでもないことだ。ほうれんそうをきちんとしろと士官学校では教えていないのかな」
「できると思ったんだ……。バンダースナッチの一匹ぐらいオレの手で……。だからオマエ達には眠り鼠の捜索だけを……」
「己惚れるなよ若造が」
先程までと比べると声のトーンがものすごく下がっていた。眼鏡の奥で瞳が鋭くなる。梟は児童書などにおいてはもっぱら頭のいいキャラクターとして描かれがちで、冷静沈着なイメージがある。ハワードさんだって学者風だ。けれど、梟は腕の立つハンターでもある。音もなく飛んできて獲物を捕らえるのだから恐ろしい生き物だ。
「己の力を過信するな。君は我々と比べれば何の力も持たないただの人間なのだから。君に空が飛べるか? チェスと戦うことができるか? 帽子屋達の管理を任されたからといって図に乗らないことだ。親の七光りで得たエリートの道で今に至るのだから、決して君の実力が今を形作っているのだとは思わない方がいい。フランベルジュを扱えるぐらいしか能がないのだからな」
そこまで言わなくてもいいんじゃないかな、と思うけど、ハワードさんの言わんとすることは分からなくもない。ちゃんとした情報を与えられなかったうえにオーナーが大怪我したのだから、ぶちギレていてもおかしくない。怖さは滲んでいるけれど静かに尋問しているんだからすごい。
エドウィンはフランベルジュを抱いたまま縮こまっている。
「このことはしっかり報告させてもらうからな」
ハワードさんの横で議事録らしきものをとっていたセリーナさんがそれをメッセンジャーバッグに入れる。
「それではハワードさん、わたしはこれを審議会へ届けて来ますね」
さすが伝書鳩というべきか、そういう仕事は彼女が行っているらしい。セリーナさんはメッセンジャーバッグを肩に掛け直して飛び立った。
「悪いけれどナオユキ君、迎えが来るまでここで待っていてもらえるかな。日が暮れるまでには街まで送るから」
「あ、いえ……ぼくは……。あ、とりあえず猫と帽子屋の家までで大丈夫です」
「そうか? 分かった」
ふわあ、と欠伸をして、ハワードさんは立ち上がる。
「駄目だ……眠い……。レベッカさん、後はお願いします……」
梟だから、昼間はあまり得意ではないのかな。それなのにちゃんとお仕事してるってすごいなあ。
「ハワード、また夜寝ていないのね?」
「書類の整理が終わらなくて……。大丈夫です、三徹なんていつものことです」
夜行性どうこうじゃなくて仕事熱心すぎるだけだ。どこの世界にもいるんだなあ、こういう人。
ついでにイグナートの様子も見てくる、と言ってハワードさんは小屋へ引っ込んだ。
「あの子大丈夫かしら……。さて、と。……エドウィン、ちょっときつく言ったけれど分かってね。私達だって慈善事業としてやっているのではないのよ。今回の依頼の報酬に、オーナーの治療費上乗せでお願いするわね。いい?」
レベッカさんに訊かれてエドウィンは力なく頷く。
「私達は確かに何でも屋のギルド、優秀なコーカスレース。危険な依頼もこなしてみせるわ。けれどね、危険な時は事前に教えて欲しいのよ。ちゃんと準備しないと危ないでしょう? 今回のことはしっかり内容を確認しなかったこちらにも非はあるわ。オーナーが無事だったからこれ以上貴方を責めるようなことはしない。でも」
差していた日傘を畳み、それでエドウィンを指す。
「二度と今回のような事態を起こさないでちょうだい。貴方はお得意様だから、これからも良好な関係を維持していきたいの。いいわね」
「……はい」
「いい子ね。それじゃあ、セリーナが戻ってくるまでおとなしくしていてね」
ぼくの横にいたエルシーが手を上げた。
「レベッカさん、このバンダースナッチはどうしますか?」
「それもエドウィンと一緒に引き渡しね」
「はーい」
「あの……」
控えめに手を上げると、鳥達が一斉にぼくを見た。ああ、やっぱり鳥の目って怖いな。
「バンダースナッチって何なんですか……」
「ええー? ナオユキ君、バンダースナッチのこと知らないの? 本当にワンダーランド国民?」
横からエルシーがぼくを覗き込む。ティリーも小首を傾げている。
「もしかしてナオユキ君はバックギャモンだったりするのかね」
エドウィンの横にいたグスタフじいさんが広場から大岩の上のぼくを見上げる。……バックギャモン? 双六の原型といわれるボードゲームだよね。トランプ、チェス、ドミノみたいに何かのことを指しているのかな。
「世間知らずのようね」
ヘレンがくすくす笑った。馬鹿にしている風だけれど嫌味な感じはない。地元で人気のお嬢様が庶民を見て浮かべる笑いだ。ん? 下には見られているな。
「異邦人よ。別の国の人のこと。まあ、平和に暮らしていればワンダーランド国民でもバンダースナッチなんか知らないかもしれないわね」
わざとらしく咳払いをして、ヘレンは改めてぼくを見上げる。
「バンダースナッチは犬よ。元々はね。昔、チェスに身を捧げた犬がいたの。影に囚われた裏切り者の犬の末裔、それがバンダースナッチ。昼間も動けるし、獣でも酷く襲われるから恐ろしい存在よ。何十年も前に街に侵攻して大騒ぎになってね、術者が犬を封じる首輪を作り出したの。アナタの後ろにいるのは今おとなしくしているでしょ? 首輪を嵌めれば影を封じることができるから、普通の獣と同じになるの。そいつは影の力が強いのね、だから動くこともできないの」
なるほど。
「首輪を使えばチェスも封じることができるんじゃないかって言われてたけど、本物を封じることは無理なのよ。で、首輪をすれば普通になるから街で管理下に置かれつつも平和に暮らしているバンダースナッチもいる。いつ別のバンダースナッチに奪還されるかっていう不安はあるけれど、バンダースナッチ側も首輪を恐れて普段はひっそりと森の片隅で暮らしているのよ」
ガタガタと岩場を進んでくる音が聞こえてきた。セリーナさんが広場に下り立つ。
「車が来ましたよ」
そして、ドアの開閉音。よいしょ、という大岩によじ登る声。
「お待たせしました! コーカスレースのみなさん、この度は王宮騎士ともあろう者が多大なご迷惑をおかけして大変申しわけありません! 全く! 謹慎処分だコラァ!」
大岩の上に現れたのは青い腕章をした軍服姿の少年だった。軍帽には青色のスペードが付いている。この人も王宮騎士だろうから、番号はジャックだろう。少年騎士は格好よく大岩から飛び降りてエドウィンに駆け寄る。グスタフじいさんを見て、もう一度エドウィンを見る。
「グスタフじいさん、問題の騎士はこの人ですか」
「そうだよ」
「謹慎処分だコラァ!」
少年騎士は片膝をついて、座っているエドウィンに目の高さを合わせる。
「返事しやがっ……」
エドウィンは無表情のまま目の前の少年の名前を呟いた。
「クラウス」
威勢の良かったクラウスが尻餅をついて後退った。困ったような、泣き出しそうな顔になってしまっている。
「あ、兄貴……!」