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アリス少年と鏡ノ空間  作者: 月城こと葉
三冊目 ぐるぐる回る鳥会議
21/235

第二十面 厄介なことになったようだね

 睨みつけるエドウィンと微笑むイグナートさんとの間に火花が散る。この光景前にも見たな。その時はイグナートさんとではなくてアーサーさんとだったけれど。管理管理と言っているわりにやっぱり管理できていないと思う。


「じらしてなどいないよ。私は君達のことをちゃんと考えて……」


 指輪をきらきらさせながらイグナートさんが両手を広げたタイミングで大きな音がした。同時に地鳴りがする。


 エドウィンが立ち上がってフランベルジュの柄に手をかける。イグナートさんは余裕たっぷりだった顔を強張らせると重心を落とすように膝を曲げ、翼を大きく広げる。ぼくはというと、何もできないままへたりこんでいた。格好悪いけれど、ぼくは普通の人間だし、この音が何によるものなのか分からないので迂闊な行動はしない方がいいだろうと思ったから待機をしているだけだ。決して怖いとかそういうんじゃない。


 広場の周りは大岩が囲っているため周囲の状況がいまひとつ分からない。何かが近付いてきているのか、それとも近くで何かが発生しているのか。チェスに遭った時のような底知れない恐怖と不安があった。汗の滲む手を握る。


「イグナート! 眠り鼠を見付けたぞ! しかしな……」


 ハワードさんが広場に降り立った。小脇にナザリオを抱えている。まるでネズミを捕まえた梟だな。いや、実際そうなのか。


 生真面目そうな四角いフレームの黒ぶち眼鏡をちょっと押し上げて、ハワードさんは唸る。その様子を見てイグナートさんも眉間に皺を寄せた。漆黒の翼が軽く羽撃かれる。


「レイヴン?」

「厄介なことになったようだね、ハワード」

「全くだ。エドウィン、眠り鼠は見付けた。だから速やかに帰りたまえ」


 ハワードさんはナザリオをぼく達の方へ投げつけてきた。柄から手を離したエドウィンと一緒に、二人で受け止める。こんな風に扱われているのにナザリオは相変わらずぐっすりと眠っていた。いつも通りのパジャマ姿で、いつも通りに枕を抱いて。


 ん? この枕、いつも持ってるやつだよね?


「エドウィン、これいつもの枕だよね。ナザリオは本当に枕を盗んだの? それなら盗んだ枕を持ってるはずじゃない?」

「それは……」


 エドウィンがぼくから目を逸らす。何を隠しているんだろう。


「ヤマネ、起きろ。アレはどうした」


 何かを持ち出したのは確かなんだろうか。エドウィンはナザリオの肩を揺すって呼びかけるけれど、眠り鼠は目を覚まさない。そうこうしているうちに地鳴りがどんどん大きくなってきた。イグナートさんとハワードさんが身構える。


 そして……。


「カエセ……」


 大岩の向こうから影が伸びてきた。人影が岩に飛び乗る。


「チェス……?」

「違う、あれはバンダースナッチだ。オマエはヤマネを連れて小屋に避難していろ」


 岩に乗った影はすらりとした細身に黒いライダースーツ姿だった。後で調べて分かったことだけど、ライダースーツというのは間違いで、正しくはレーシングスーツというらしい。おそらく男だと思われるその影は獣耳と尻尾を装備しているので森に住むドミノなのだろうけれど、何だか禍々しい雰囲気だ。ドミノ型チェスとかいうとんでも生物なんじゃないだろうかと思ってしまうほどだ。


 バンダースナッチはふさふさの尻尾を高く上げ、時折揺らしている。


「カエセ……」


 ぐるるという唸り声を上げて、バンダースナッチが広場に飛び込んできた。影を纏いながら動くさまはやはりチェスのように見える。手で着地をして、その勢いのまま地面と平行に体を回すことで周囲を蹴散らす。身構えていたイグナートさんとハワードさんがその場から飛び退くが、反応の遅れたハワードさんの翼が半ば巻き込まれるようになった。何枚かの羽根が飛び散る。


 ナザリオをぼくに預けて加勢しようとしたエドウィンだったが、イグナートさんに制止されてしまう。


「あれは人間の手に負えるものじゃないよ。だから言わないようにしたのに……」

「オレはアレを探していたんだ」

「何だって?」


 イグナートさんが振り向く。が、そこに隙ができた。影が大烏の懐に飛び込む。


「ぅぐっ……!」


 吹っ飛ばされて大岩に叩きつけられる。漆黒の羽根が何枚も飛び散った。ぼくの見間違いじゃなければ黒に混じって赤が飛んでいたと思う。


「イグナート!」

「う……く、離……せ……!」


 バンダースナッチがイグナートさんに飛び付き、腕を押さえつけていた。足下から影が広がり二人の姿が見えなくなる。影からはみ出ている翼がもがいているのだけが見えた。ハワードさんが駆け出す。


「やめたまえ! おい!」


 動けなかった。動いたところでぼくには何もできないのだけれど、足がすくんでしまっていた。というか、腰が抜けた。足が、手が、体が震える。


 ハワードさんが影の中に手を突っ込んでバンダースナッチを引き剥がそうとしているが、影はうんともすんとも言わない。聞こえてくるのはぐちゃぐちゃという不気味な音と苦しそうな呻き声だけだった。影の下にじわじわと赤が広がっていく。


 こんな状況なのにナザリオはまだ眠っている。やり場のない恐怖を訴えようとエドウィンの方を見ると、表情を映さない緑の瞳が見開かれ、わなわなと震えていた。不健康そうなほどに顔は青褪め、脂汗が滲み、呼吸も荒い。口元に手を当て、じりじり後退る。けれど、その足取りすらもおぼつかない。よろめいてそのまま蹲ってしまう。


「エドウィン」

「……うぅ」

「大丈夫……?」


 訊ねるぼくの声も震えていた。依然として影からはぬちゃぬちゃという音と……呻き声はもう聞こえなくなっていた。ハワードさんはまだイグナートさんの名前を呼び続けている。


「大変よ! そっちにバンダースナッチが! ……え」


 レベッカさんが飛んで来たが、上空で留まる。一緒にいたヘレンが「嘘でしょ」と言ったのが聞こえた。


「レベッカさん! 皆を呼び戻していただけますか! ヘレンも! 早く!」


 ハワードさんの呼びかけに頷き、二人は別々の方向へ飛んでいく。


「この……いい加減にしたまえよ……」


 影の中に手を突っ込んでいるけれど、やはりうんともすんとも言わない。怖い……怖い、けど……。ぼくにもできることはあるはずだ。ナザリオを放り出して、ハワードさんに駆け寄ろうとした。した、けれど……。


「ハワード、下がりなさい」


 大岩の上にチャドじいさんが立っていた。言われた通りにハワードさんは引き下がる。


「騒がしいと思ったら、犬が現れたか。……。儂の息子に手を出すな!」


 おじいさんとは思えない動きでチャドじいさんが飛び降り、着地する。携えている杖は仕込み杖だったらしく、強く一振りすると鞘の部分が抜けて刀身が姿を現した。コーカスレースの創始者なのだから、それなりの実力者であるのは確かだろう。


 はあっ! と言ってチャドじいさんは杖を振るった。影の中を抉り取るような動きだった。バンダースナッチの唸り声がして、一瞬影が解ける。その隙にハワードさんが影に飛び込みイグナートさんを外へ引っ張り出した。バンダースナッチの視線の先がイグナートさんからチャドじいさんへ変わる。チャドじいさんが飛び降りてきてからこれが完了するまで一瞬だった。瞬きしていたら見逃していたかもしれない。


「イグナート! 君、しっかりしたまえ!」


 ハワードさんに抱きかかえられたイグナートさんはぐったりとして動かない。首元から左肩にかけて赤く染まっている。


「カエセ……」


 バンダースナッチはチャドじいさんを虚ろな目で見ていた。口の周りが真っ赤になっている。このバンダースナッチはさっきから返せ返せと言っているけれど何を返して欲しいのだろう。


「ヤマネ、アレをどこへやったんだ……」


 今にも倒れそうなくらいふらふらしているエドウィンがナザリオを揺さぶる。でもやっぱり起きない。しびれをきらしたエドウィンは強引に起こそうと、ナザリオの両頬を掴んで引っ張る。


「いててててて! 痛いよーう!」

「ヤマネ、アレをどこへやった。早く出せ」

「ううー。酷いよーう……。ん、アレ? 何?」

「やはり寝惚けていたのか。まさかここか?」


 ナザリオから枕を奪い取り、カバーの中に手を入れる。すると、ベルトのようなものが出てきた。チャドじいさんに投げようとしたエドウィンだったけれど、視界の端に血塗れのイグナートさんが映る。「ひっ」という小さな悲鳴がぼくには聞こえた。一瞬硬直するエドウィンからベルトのようなものを奪い取り、ぼくはチャドじいさんに向かってそれを投げつける。投げつけたはいいけど何なんだろう。


 ベルトのようなものを受け取ったチャドじいさんは仕込み杖でバンダースナッチを打ち、相手が体勢を崩したところでそれを首にかけた。ベルトじゃなくて首輪だったようだ。


 首輪を嵌められたバンダースナッチは膝をついて動かなくなる。纏っていた影も全て消えていた。


「ハワード、後は頼むよ。儂は休んでくるから」


 杖を元通りにして、チャドじいさんは小屋へ戻っていく。


「イグナート、しっかりしたまえ……。目を覚ましてくれ……」

「……ハワードさん」


 ぼくはハワードさんの肩に手を置く。何かできるわけじゃないし、何の意味もないかもしれないけれど、寄り添うことでどうにかなればな、と思う。まさかこんなことになってしまうなんて……。噛みつかれた、とかじゃない、これは確実に捕食されている。あまりにもむごくて、ぼくは直視することができない。


「泣いてばかりじゃ駄目ですよ、ちゃんと弔ってあげないと……」

「いや、勝手に殺さないでくれナオユキ君」

「え」


 赤の中で黒が光る。ぐったりとしたまま、目だけが動いてぼくを見る。


「まさかこんなことになるとは思わなかったよ。油断は禁物だね」

「イグナート、よかった。無事なのだな」

「これくらいでくたばる私じゃないさ。まあ、動けないけれどね」


 ちょっと待って、何でこの人生きてるの。いや、生きててよかったね、なんだけど、どうしてこんな状態で生きてるの。


「ハワード、悪いけどしばらく世話を頼めるかな」

「もちろん」


 状況についていけない。何か知っているかと振り向くと、ナザリオは再び眠りだしているし、エドウィンは頭を抱えていた。


「え、えと、これって一体……」


 羽音がして、鳥達が広場に戻って来た。イグナートさんの姿を見てみんなぎょっとしていたが、ハワードさんの「問題ない」の一言で全員が安堵した。


「あ、あの……。イグナートさんは不死身とかそういうのなんですか」

「まさか。違うよ。強いからさ」


 答えになっていない気がするけれど、その一言を最後に動かなくなる。それこそ死んだような感じでハワードさんに体を預けている。


「あのう……」


 ハワードさんは眼鏡のブリッジを押し上げ、咳払いをする。


「まあ、そういうことだ」

「ナオユキ!」


 まだだいぶ顔色の悪いエドウィンが呼ぶ。座ったまま動かないバンダースナッチの首輪を掴み、ナザリオを抱え、完全に帰る体勢だ。


「帰るぞ」

「待ちたまえ。エドウィン、今回のこと詳しく説明してもらおうか。我々もオーナーがこんな状態になってしまった以上、報告をしなければいけないからな。それ相応の決定が君に下されると思った方がいい」


 はっとして、エドウィンは唇を噛んだ。






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