第一面 白を追い駆けて
小さい頃から自分の名前が嫌い。
その漢字のせいなのか知らないけれど、付けられるあだ名が嫌いだった。
今日は兎さん追い駆けてないの? ハートの女王にいじめられた? 帽子屋さんとお茶会するんでしょ?
アリスちゃん。かわいい名前。
やめろ。やめてくれ。ぼくをそう呼ばないで。
嫌……。嫌だ……。
♥
嫌だっ!
……夢か……。
じっとりとした汗でパジャマが体に貼り付いていた。
嫌な夢だったな。昔のことなんてすぐに忘れられたらいいのに。
時計を見ると、二本の針は午前八時を指し示していた。壁にかかった制服を見て、もう一度時計を見る。
「八時よー」
階下から母の声が聞こえてきた。階段を上って来る。
「有主、今日は学校どうするの?」
「行かない。行きたくない」
ぼくは布団に潜り込む。「そう」と言って母は階段を下りていく。
時計の斜め左下に掛けられたカレンダーは今が二〇一九年六月であると告げている。たくさん書きこめるはずの予定欄には何も書きこまれていない。四月のカレンダーには「入学式! 中学校!」と書かれていたけれどそれも昔のことだ。入学式の後は数日授業に出ただけで、後はずっと休んでいる。元号が令和に変わって一ヶ月も経ってしまった。学校に行きたくならないのは、変わった時にあった長い休みも影響しているのだろうか。
原因は、簡単に言えばいじめなのかもしれない。けれど、いじめなんてものじゃない。ぼく本人が言うんだからいじめじゃあない。ちょっとしたいたずらというか、からかいというか、そんなものだ。それで不登校か、って、呆れる人もいるかもしれないけど、ぼくにとってはもう我慢の限界だった。
有主というぼくの名前は正直読みにくい。
小学生の頃、いやもっと前、幼稚園の頃から言われてきた。
アリス。
きらきらしてるけど、むしろそっちの方が読みやすいわけで。
有名な外国の児童文学の主人公の女の子。その名前で呼ばれることがよくあった。最初の頃はあまり気にしていなかったけど、だんだん周りの反応が気になるようになってきて……。
いじめじゃない。けれど、そうやって呼ばれるのが嫌になってきた。
やめて、もうやめて。
言い続けて、小学校ではそう呼ぶ人はほとんどいなくなったけれど、中学生になると新たな出会いがある。小学生の時から言い続けてきたやつらにも新たな仲間が増える。
みんな言った。アリスだと。
クラスメイトと言い争いになって、向こうにけがをさせた。
その次の日から、ぼくは家に引き籠っている。
引き籠る? 本当の引き籠りの人に怒られちゃうな。だってぼく、学校には行かないけど外には出るから。
本を買いに行くんだ。
本は好き。色々な世界を旅できるし、その世界に閉じ籠っていられるから。それに、色々な出会いがあるけれど、誰もぼくのことを見ないでいてくれる。みんなが見ているのはあくまで主人公なんだもの。
ページを捲れば、世界はそこに広がっている。
午後になってから、ぼくは本を買いに出かけた。
いつもの本屋さんで『オズの魔法使い』を買って、家路に着く。絵本でしか読んだことがなかったから、文庫本で読みたいと前から思っていたんだよね。
本屋さんの袋を手に歩いていると突然目の前が真っ白になった。何だろうと思ってよく見てみると、それは長くて真っ白な髪だった。
白い帽子に、白いワンピース。目を引く白い髪の女の人がぼくの前を横切った。
女の人がいなくなった後に何かが落ちていたので拾ってみると、白いハンカチだった。兎の刺繍がしてあってかわいらしい。あの女の人が落としたものだろう。
「あ、あのっ、待ってください!」
ぼくは女の人の後を追い駆けた。
女の人は角を曲がり、直進して、また角を曲がり、どんどん進んでいってしまう。
「あれ……。どうしよう」
完全に見失った。
しかも……。
「ここ、どこ……?」
迷った。
絵本に出てくるような、ヨーロッパの街みたいな家が林立している。近所にこんなところがあったのか。いつも本の中に見ている景色が目の前に広がっていた。辺りを見回していると、白い姿が角の向こうに見えた。
「あ! あのぅ、すみませーん!」
角を曲がると骨董品の並ぶお店があった。店表には大きな目をぎょろりとさせたカエルの置物があった。御利益でもあるのか背中に小銭がいくつか置いてある。
白い女の人はこの中だろうか。
ドアを開けると、上に付いたベルがリロンリロンと鳴った。
店内は昼間だというのに薄暗くて、ちょっと不気味な雰囲気。お高めそうな壺や、ドレスを纏った球体関節人形、お祭りに使いそうな仮面、古びた柱時計が沈黙を保っている。
「わあ……」
いいなあ、こういうの。
店内を見て回っていると、悪魔の形の脚をした机の上に白い兎のぬいぐるみが置いてあるのを見付けた。傍らに手鏡が置いてある。植物が絡み合っていて、その中に気味の悪い怪物達が埋もれているデザインの枠で、覗き込むと怪訝そうな顔をしたぼくが映り込んだ。そして――。
「いらっしゃい」
ぼくの背後におじいさんが映り込むと同時に声が発せられた。
「若いお客とは珍しいね」
「う、わ、わああああっ!」
びっくりした!
振り向くと、おじいさんもぼくの声にびっくりして目を丸くしている。
「わわ、ごめんなさい! お店の人ですか?」
おじいさんは「そうだよ」と頷き、テーブルの上に置かれた鏡を見た。板垣退助とか大久保利通みたいな立派過ぎる髭をわしわしいじりながら、ぼくを見る。
「こんな奥まったところにある寂れた店によく来たね」
「女の人を追い駆けていて……」
ぼくは手にしたハンカチを見下ろす。
「白い女の人、知りませんか」
「そんな客は来ていないけどねえ」
「そうですか」
確かにここに来る角を曲がったと思ったんだけどなあ。
「きみ、この鏡あげようか」
「え?」
「売れ残っていてね。ほら、こんな不気味なデザインだからかね。さっき興味深そうに見ていたよね。あげようか」
おじいさんは手鏡を手に取り、ぼくに差し出す。草木に埋もれた怪物たちがぼくを見上げる。
「えっ、タダってことですか」
「久しぶりのお客さんだしねえ。特別に」
「でも……」
ぼくが返事をしないでいると、おじいさんは強引に手鏡を持たせてきた。鏡面にはおろおろするぼくの顔が映っている。
――アリス。
「えっ」
今、声が聞こえたような……。おじいさんはにこにことぼくを見ている。声、気のせいかな。
「よかったら今度は友達を連れておいで」
友達なんてしばらく会っていないけど……。
おじいさんに見送られて、ぼくはお店を後にした。鏡、貰ってきちゃったけど本当によかったのかな。
ハンカチを交番に届けてからぼくは家に帰った。
部屋で一人、貰ってきた手鏡を眺める。何度見てもやっぱり不気味なデザイン。けれど、こういうデザインは嫌いじゃない。ぼくの好きなファンタジー小説の扉絵に、こういうのも時々ある。
――アリス。
「声が……」
気のせいなんかじゃない。やっぱり声がする。どこから?
――アリス。
この……手鏡から……?
手鏡をそっと掲げて、自分の顔を映す。すると、ぐぐっと鏡に引っ張り込まれるような感覚があった。
「えっ、うわっ!」
慌てて、つい手鏡を放り投げてしまった。あぁっ、割れちゃうじゃないか!
ところが、手鏡は空中で光を放ち、大きな姿見に変わって壁際に着地した。
「……何これ」
何だ。まるで御伽話じゃないか。ぼくはいつから物語の主人公になんてなったんだ。
――アリス、覗いてみて。
姿見にはぼくの全身が映っている。
この鏡から、声が……。
引っ張り込まれそうだなんてきっと気のせいだ。そう思って鏡面に手を当ててみると、波打った。
軽く押してみると指先が鏡の中に入っていく。
「どこまで入るんだろう……わっ」
手首まで突っ込んだあたりで、引きずり込まれた。
◇
「いてて……」
お尻打った……。
ここはどこだろう。お尻をさすりながら立ち上がり、辺りを見回す。
誰かの部屋だろうか。タータンチェックを基調としたカーテンや布団が目に付く。
もしかしなくても鏡の中だったりするんだろうか。そんなことがあるわけがない、けれど、そうとしか考えられない。
後ろの壁を見ると、手鏡が化けたのと同じデザインの姿見が立てかけてあった。何とも言えない微妙な顔のぼくが映っている。
「お客さんですか?」
背後に人影が映り込んだ。
「ひいいっ」
振り向くと、今度はおじいさんではなくて若い男が立っていた。三つ揃えのおしゃれなスーツの似合う、結構美形な男だ。そして、おしゃれな帽子を被っていた。
男はぼくと鏡を見比べて、ちょっときょとんとしてから薄く笑った。
「ようこそ、ワンダーランドへ」
ぼくが手に入れたのは、とんでもない鏡だった。