第百八十七面 特別な本
ぼくはカレンダーを見て日付を確認する。十二月二十四日。今日は璃紗との約束の日である。
あの日はあの後なんだか微妙な空気になってしまったのだけれど、放課後にはいつも通りに戻っていた。いつも通りを装っていたんだと思う。璃紗に無理をさせてしまったかもしれない。
「有主君」
身支度をして外に出たぼくを出迎えてくれた璃紗は、淡いピンクのダッフルコートを着ていた。学校へ行く時に着ている濃紺のダッフルコートとは随分と印象が違って見える。三つ編みおさげを纏めているゴムはシンプルなものだけれど、赤と緑があしらわれていてクリスマスにぴったりだ。ぼくに向かって小さく振られた手は水色の手袋に包まれている。
玄関から一歩踏み出したところでぼくは動きを止めてしまった。視界に飛び込んできた璃紗の姿を、思わずじっくりと見つめてしまったのだ。硬直するぼくのことを璃紗は不思議そうに見ている。見惚れているのだと思う、これは。
「有主君……?」
「……か」
かわいいね。
言いかけた言葉は、ぼくの後ろから顔を出した母に遮られた。
「まあー! 璃紗ちゃんかわいいねー。有主、こんな別嬪さんと歩けてよかったね!」
「かっ、かわ……。おばさんったら、褒めても何も出ませんよ?」
「うー! もうっ、お母さん!」
「なになに、どしたの有主」
「もう! もう! いってきます!」
ぼくは母を家に押し込むようにしながら玄関のドアを閉めた。母に先を越されてしまった。今から改めて「かわいいね」なんて言っても、母が言っていたからぼくも言いました、という風に受け止められてしまいそうでなんだか嫌だ。
鍵を閉めて、璃紗を振り返る。
「かわいいって言われちゃった。お気に入りだから嬉しい」
「似合ってるよ」
「ありがと」
ぼくが言いたかったのはこんな当たり障りのない言葉ではなかった。タイミングが悪かったようだ。母が言うよりも早く、躊躇うことなどせずに勢いよく言えばよかったのに。変に意識をして緊張しているのだろうか。
それじゃあ行こうか、と言って歩き出した璃紗の後を追う。これは例年通りのケーキのお遣いであって、デートなどではない。はずなのだ。けれど、妙に璃紗のことが気になった。上手く言葉に出せなかったのも、緊張してしまうのも、琉衣が変なことを言うからだ。全くもう。
会話のないままぼく達は歩き続けて、商店街のケーキ屋さんの前を通り過ぎた。そうして、クリスマスイベント真っ最中の空ヶ丘公園に辿り着く。イルミネーションで飾られた公園は今年も見事で、何度だって眺めたくなる美しさだった。
テンションが上がってしまったのだろうか、奇声を上げて駆けて行く子供がいた。母親と思しき女性がそれを追い駆けている。仲良しグループで写真を撮り合っている人達の姿も何組か見える。日常とは少し違う場所をそれぞれが楽しんでいる。その様子を見ていると、それだけで自分も楽しくなってしまう。
少し前まではこんな場所には長居したくないと思っていただろう。外に出るだけで精一杯で、人の多いところになんて行きたくなかった。人が怖くて、部屋に閉じこもって、本に埋もれて。今も本には埋もれているけれど、こうして外を楽しいと思えるようになった。
「綺麗だね。こういう景色も上手く書けるようになりたい」
「書けたら読ませてね」
「うん」
璃紗はメインの大きなツリーの方を見ている。スタッフの人が確認を終えたらしく、「よし」という声が聞こえた。そして、きらきらした光と共に歓声が上がる。
「ねえ、有主君。あのツリーの下で告白したら永遠の愛で結ばれるんだって」
「よくあるよねそういうの」
こちらへ伸ばされた璃紗の手がぼくの手を掴んだ。手袋二つ分を隔てて、微かに体温が伝わってくるような気がした。気がしただけかもしれないけれど。
「もう少し近くで見ようか」
手を引かれた。
きみはいつもぼくの手を引いてくれる。尻込みしがちなぼくの手を引っ張って、色々な景色を見せてくれる。気が付いた時には隣にいて、十四年も経ってしまった。
メインのツリーの下で立ち止まる。璃紗はぼくから手を離し、向かい合って立つ。そうしておさげのさきっちょをいじりながら、ちょっぴり困ったように笑った。
「有主君」
「うん」
「なんか緊張しちゃうな……。ううん、頑張れわたし」
おさげをいじっていた手が止まると同時に表情が凛々しくなる。何を言われるのだろう、ぼくは。
「えっとですね……。わたし、ちょっとだけ気になってる人がいるの。自分のこの気持ちが親愛なのか恋愛なのか、そこがまだ分からなくて。やっぱり友情だって思ったら、『ずっと友達でいてね』ってここで言う。恋なんだって思ったら、『付き合ってください』ってここで言う。自分の気持ちが決まるまで、その人とはこれまで通りに接していてもいいよね。変に意識しちゃうと変になっちゃうから。わたしがそんなんだったら、相手も引き摺られちゃいそうだし」
「……璃紗はいつも引っ張ってくれるから絶対その人引き摺られると思うよ。いつも通りでいいんじゃないかな。その方がお互いに安心できると思う」
ぼくが答えると、璃紗は少し驚いた表情になった。というよりも、きょとんとしたという表現の方が合うだろうか。ほとんど同じだけれど、その方がぴったりだと思う。眼鏡のレンズ越しに軽く見開かれた目がぼくのことを見ている。
イルミネーションを見て盛り上がる人々の中から、ぼく達だけが抜き出されたようだった。光も、声も、時間すらも止まってしまったかのように感じられた。ここにあるのは、ぼくと璃紗の二人だけの空間。離れているのに、互いの鼓動が聞こえそうだった。
璃紗がくすりと笑う。それを合図に周囲が動き始めた。今夜はサンタさん来るかな、と言いながら親と歩く小さな子供がぼく達の横を過ぎていく。
「そう。それなら、そうしようかな」
ほっとした様子の璃紗は文字通り胸を撫で下ろした。
「璃紗の出した答えがどちらであっても、相手の人はきっと分かってくれるよ。だって、たぶんその人も同じような気持ちだろうから」
「そう……。そっか。うん。変な話をしちゃってごめんね。ありがとう、聞いてくれて」
「何度だって聞いてあげるよ、璃紗の話」
そうだ。何度だって、ぼくはページを捲ろう。きみがくれる物語の。
「ぼくには本を読むことしかできないけれど、璃紗はそのお話を紡げるからね。璃紗の話、たくさん聞かせて。友情でも、恋情でも、ちゃんと読むよ」
「……ふふっ。ありがとう、有主君。それじゃあまた、ここで表紙を捲ってくれる?」
「もちろん」
約束だよ。手袋越しに、ぼく達は指切りをした。
璃紗はどんなお話を聞かせてくれるのだろう。どんなものでも、ぼくはそれを聞こう。それを読もう。そうしたら、ぼくの考えも纏まるかもしれない。小さい頃からずっと一緒だった。並んで絵本を読んでいた。
いつかここで手にする本はきっと、二人でページを捲る特別な本になる。
「よし、ケーキ買って帰ろっか」
「今年はどれにしようかなあ」
「わたしはちゃんと両親にどんなのがいいか聞いて来てるから」
「うわぁ、さすがだね……。うーん。まあ、ケーキ屋さんで色々見て決めればいいか」
互いに笑みを向け、自然と手を取り合ってぼく達は空ヶ丘公園を後にした。




