第百八十六面 ほんと鈍感だよな
ぼくは無事に二学期を生き延びた。
えっ、すごくない? 一学期に続き二学期も乗り切ったよ! ぼくはすごいぞ! 偉い! やったぁ!
ぼくはやったぞ!
「やったぁっ!」
「有主、あんた何してるの」
声のした方を見ると、母がドアを開けて立っていた。自室で一人喜びに手を振り上げていたぼくはそろそろと手を下ろす。なんかこれデジャビュだな。
「璃紗ちゃん迎えに来てるよ」
「はーい」
カレンダーは二〇二〇年十二月。二学期はもうすぐ終わりだ。もう勝ったも同然だ。ここまで来たのだからぼくの勝利は確実である。
コートを羽織ってリュックを背負い、ぼくは部屋を出た。
「おはよう、有主君」
「おはよう璃紗。今日も寒いね」
璃紗はコートのポケットに手を突っ込んで立っていた。転ぶと危ないからね、と優等生然としたことを言ってポケットに手を入れない彼女が一体全体どうしたというのだ。ぼくの視線に気が付いたのか、璃紗はポケットから手を出して見せた。いつも使っている水色の手袋はそこにはない。
三つ編みおさげのさきっちょを指先でいじりながら、璃紗は少し俯く。
「昨日出かけた時に別のコートのポケットにしまって、そのままにして忘れて来ました」
「えぇ……。珍しいね」
「うっかりうっかり」
「ちょっと待ってて」
まだ時間に余裕はある。ぼくは踵を返して家に入った。驚いている母の前を過ぎて自室に向かい、ハンガーにかけてあるジャンパーをひっくり返し、玄関に戻る。
「これ、よかったら」
「えっ」
「えっと、駄目かな……?」
ぼくが璃紗に差し出したのは深い緑色の手袋だ。同じのばかり使っていてはすぐに駄目になってしまうから、手袋は数組持っている。緑の手袋はちょっぴりおしゃれなやつなので、女の子でも問題なく使えるだろう。
おまえはどうするのだという視線を受けて、ぼくは先程からはめている青い手袋を見せた。
「ぼくはほら、こっちがあるからさ」
璃紗は緑の手袋にそっと手を伸ばした。若干躊躇っているようなので軽く押し付ける。
「ぼくのじゃちょっと小さいかもしれないけど……」
「ううん、大丈夫。ありがとう。……ふふ、あったかい」
「じゃあ行こっか」
そうして、ぼく達は連れ立って歩き出した。
道中のお店はどれもみんな赤や緑で彩られている。簡単なイルミネーションを設置している民家もいくつかあった。クリスマスはもうすぐそこだ。
「有主君、あのね……」
「有主! 璃紗ちゃん! おっはよー!」
「んぎゃあ」
「あわわ、おはよう琉衣君。有主君大丈夫?」
璃紗の言葉を遮る形で琉衣がぼくに激突してきた。衝撃はリュックで和らげることができたけれど、そもそも体の大きさが違い過ぎるのではたらく力の大きさもおかしくなる。その結果、ぼくの体は見事に前のめりになってしまった。琉衣がリュックを引っ張ってくれたのでなんとか踏み止まる。
「何すんだよ! 危ないだろ!」
「そんなに吹っ飛ぶとは思わなかった」
琉衣の身長はどんどん伸びているのだから、もう少しぼくとの差を意識して動いてほしい。悲しいことにぼくの身長はさほど変わっていないから、このままだと体の大きさも力の大きさもどんどん差が開いて行ってしまう。もっと身長がほしい。
琉衣はぼくのリュックから手を離す。
「これだけ威力が出たってことは、今日のオレは元気みたいだな……」
そんなこと言われたら文句なんて言えないよね。ぼくは静かに睨みつけるだけに留めた。
感慨深げに自分の手を見ていた琉衣は、ぼくと璃紗に視線を移して「お」と声を上げた。ひねもすナンパしまくっている遊び人みたいな動きで璃紗の手を自分の方へ引き寄せ、そこそこいい顔を近付ける。
「これ有主の手袋だな」
「わ、忘れちゃって……貸して貰ったんだ」
「へえ……。いいなあ、なんか有主に包まれてる気分なんだろ」
「んえっ!? べべ、別にそんな!」
「待って、待って、琉衣どういうこと? ぼくに包まれたいわけ?」
まさか! と大袈裟に身振り手振りも添えて琉衣は言った。そこまで否定されると若干寂しい気もする。
「ふふ、へへへ。オレも美千留の手袋を借りれば美千留にぐへへへへ……」
今日の琉衣は本当に調子がよさそうだ。最近気温が下がってきているから体調が気になっていたけれど、今のところは問題ないみたいだね。
璃紗はというと、なぜか緊張した面持ちで自分の手を見つめていた。躊躇いながらもそっと顔に手を近付け、両手で頬を包む。そしてすぐに変な声を上げて手を離した。何をしているんだろう……。少し顔が赤いのは寒さのせいだろうか。
そういえば、璃紗は先程何かを言いかけていた。赤信号で立ち止まり、ぼくは璃紗の袖を引く。
「ねえねえ、さっき何を言おうとしてたの」
「えっ! えぇと……」
璃紗は琉衣の方をちらりと見る。
「えっとね……。二人の時に話そうか」
「よく分からないけど分かった」
信号が青になると、璃紗は左右を確認した後逃げるように速足で歩き出した。残されたぼくと琉衣は通常のペースで横断歩道を渡る。道行く生徒の間をのんびり進んでいるうちに、璃紗はどんどん先へと行ってしまう。
ぼくは璃紗に何かしてしまったのだろうか。もしかして、手袋を貸したのはお節介だったのかな。琉衣に指摘されて恥ずかしかったのかもしれない。
コートのポケットに手を突っ込んで琉衣は歩いている。璃紗の手を取った時に見えた彼の手は素手だった。冷やさない方がいいと思うのだけれど。そんなぼくの視線に気が付いたのか、琉衣はすれ違ったサラリーマンをひらりと躱しながらぼくを見た。
「おまえってほんと鈍感だよな」
「失礼なやつだな」
「璃紗ちゃん、きっとおまえのことクリスマスデートに誘うつもりだぜ」
「クリスマス……。あぁ、いつも一緒にケーキ買いに行ってるからね。そのお誘いかなあ」
「ふふ……。オレに聞かれたくないってことは、秘密のお話なんだろ。デートだぜデート」
「いやぁ……」
似たようなやり取りが去年もあったような気がする。あの時はワンダーランドで言われたんだったっけ。
「ぼ、ぼくと璃紗はただの幼馴染だよ……。そんなんじゃ……。そういうのまだ早いって……。まだ中学生なんだし……」
「早くねえって。美千留に聞いたけど小学生でもいるらしいぜ、カップルになってるやつら」
「えぇっ!? 最近の若い子よく分からない!」
おまえはジジイか、とツッコミを入れられた。人を好きになること自体に年齢制限なんてないものね。恋愛とか、カップルとかは大人のイメージがあるから少し驚いてしまった。改めて考えれば、子供が恋に落ちる物語だってたくさんある。おかしいことではないのだろう。自分の周りにそういう人がいないから馴染みがないだけなのかもしれない。
琉衣は両手を口元に寄せ、息を吹きかけて温めている。
「オレも……。オレも、告白とか、そういうのされたこと何回かあるし……」
「何回か!? モテモテじゃん! そこそこ顔いいだけのことはあるね」
「そこそこは余計なんだよな。実際オレの顔はめちゃくちゃいいんだからさ」
「それでどうなったの」
「ばーか、オレが美千留以外の女に靡くわけないだろ。全員綺麗に振ってやりました。へへん」
そこは威張るところなのだろうか。
「璃紗ちゃんから何を言われるのか楽しみだな」
「むー」
他人事だからとにやにやして楽しんでいるようだけれど、もしも琉衣の言う通りになってしまったらぼく達三人の関係性がどうにかなってしまうのではないか、ということは考えないのだろうか。その程度で壊れるような関係じゃないだろと、琉衣は笑うのかな。
そこそこいい顔がぼくから視線を外した。ぼくもそちらを見る。いつの間にか学校に着いていたようだ。校門のところでみんなに挨拶をしていた先生がぼく達にも挨拶をする。
「みんなおはよう」
「お、おはようございます」
「おはようございまーす。有主ぃ、今日もほどほどに頑張っていこうぜ」
昼休み、ぼくは璃紗に教室から連れ出された。第二理科室前の壁際で、璃紗は三つ編みおさげのさきっちょをいじっている。
「有主君……」
「うん」
「……二十四日は空いていますか」
「うん」
表情がぱあっと明るくなった。
「それなら、わたしと一緒にお出掛けしませんか」
「いいよ。いつもみたいに一緒にケーキ買いに行くんでしょ」
おさげをいじっていた手が止まった。璃紗は一瞬沈黙、否、硬直してから少し困ったように微笑んだ。どうして今、きみはそんな顔をしたんだろう。なぜ、ぼくはそんな顔をさせてしまったんだろう。
色んな本を読んできた。本を通して色んな人生を見てきた。色んな喜びを、怒りを、悲しみを、愛を、勇気を、思いを。それでも、まだまだ分からないことばかりだ。事実は小説より奇なりとはよく言ったもので、こうして日々を過ごすだけでも新たな発見や体験に出会うことができる。
恋の話だって読んだんだ。人間と人魚の儚い恋も、かわいそうな娘が王子様と出会う夢のような恋も。主人公達の思いに触れて追体験した。何度も、何度も、何度も。その度に自分も苦しくなったり、嬉しくなったりした。泡となって風となったり、ガラスの靴を落としたり。
でも、淡い恋に心揺さぶられるのはページを捲っている時だけなのだ。本を閉じた途端、ぼくはそういうものから一瞬で引き離されていく。分からない。きみの、気持ちが。
「うん……。うん、そう。そうだよ。今年はどんなケーキを買おうかな。楽しみだね。ふふ」
璃紗、どうしてそんな顔をするんだ。ぼくはなんて答えればよかったの。




