第百八十五面 ページを捲るのが怖い
「大和さん洗面台にも煙管の灰ばらまいてました」
「あのクソ芋虫野郎……! なんなんだ。俺に何か恨みでもあるのか。接点持ったのなんか割と最近じゃねえか」
絨毯に落とされた灰を片付けていたニールさんは、「畜生!」と叫びながら廊下へ出て行った。水回りの方から更に「あの野郎今度やったらぶっ飛ばす!」という声が聞こえてくる。
「アリス君はあの芋虫さんとお話できたの?」
「はい」
「芋虫さん、ちょうちょさん……。ヤマトはあらゆる情報をかき集めて売りさばいている。彼を意のままに使うことができれば……。あー、嫌な感じの金持ちみたいな考えでちょっと自分が嫌になっちゃうな」
ルルーさんはぶんぶんと首を横に振ってから、小さな溜息を吐いた。ニールさんが放り出していった塵取りと箒を拾い上げて、暖炉の傍に片付ける。
「ルルーさんは……ルルーさんは、どうするんですか。クロヴィスさんのこと」
「うーん、どうすればいいんだろうね。直接会って色々話したいけどそうもいかないしね。やっぱりチェスと一緒にいるんだってことが分かっただけでも前進したっていうか、そんな感じ。ううん、分かっていたんだけどね。だってチェスに、あの女に誑かされて……」
「あの女」
「……ん。と、とりあえず、ランスロット君? のことについてニールからも話を聞きたいよね。アーサーがいる時じゃないと嫌だって言ってたからしばらくは難しそうだけれど……」
暖炉の中に薪を放り込みながらルルーさんは言う。放り込んで、放り込んで、火を点けずに暖炉から離れる。何がしたかったのだろう。確かにそろそろ暖炉が恋しい季節だ。そこまでやったのなら火を点けてきてほしい。
そして、うろうろしながらキッチンの方へ行ったかと思うと、マッチを手にしてリビングへ戻って来た。なるほどマッチがなかったのか。やがて、暖炉からはオレンジ色の炎がぼんやりと揺らぎ始めた。
もう冬だ。もう冬なのに、アーサーさんはまだ街に引き籠っている。
「あのねアリス君。一昨日のことなんだけど」
ひばさみで暖炉の中を突いていたルルーさんは、ぼくに背を向けたまま話し始めた。
「異邦人の入国が禁止になったんだ。というか、隣国がみんな揃って『ワンダーランドには行かないように』って国民に言ったらしくて」
「チェスの関連ですか?」
「そう。異邦人が襲われたらやっぱり困るでしょ。政治家とかお金持ちとか、その辺も全員禁止。やり取りをするなら必ずこちら側が国外に行くことになったの」
探してるんだよ、とナザリオが言う。
「探しているらしいんだ、『アリス』を」
「あぁ、そのことも大和さんに訊いておけばよかったかも……。ぼくのことを見てチェスは目の色を変えるし、『アリス、アリス』って興奮するみたいだもんね……」
チェスが言っている『アリス』という名は、伝説に語られる勇者のものだと思われる。アリスと呼ばれるぼくに『アリス』を重ねていると考えるのが妥当だけれど、ぼく自身に対して何らかの意識を向けている可能性も捨てきれない。もしそうなら、とても怖い。そもそも、伝説の内容や勇者のことをチェスが探す理由が分からないからこれ以上の考察は現段階ではできない。だから、大和さんに訊いておくべきだった。
悪態をつきながらニールさんがリビングに戻って来た。ぼくの顔を見て「あっ」と一声。猫耳がぴくりと動いた。
「アリス、今日のことを帽子屋に教えてやってくれねえか。オマエの都合のいい日で構わねえからさ」
「チェシャ猫、ナオユキ、悪いがそれは許可できない」
ゆっくりとリビングに入って来たのはエドウィンだった。後ろにクラウスが控えている。
「は? オマエらどうやって入って来やがったんだ」
「えっと、玄関の鍵が開いていたので……。お、おれは兄貴のこと止めましたからね!」
「不用心だな、チェシャ猫」
先程大和さんが出て行ってそのままだったのだ。入って来たのが不審者ではなくてよかった。
エドウィンはフランベルジュの柄に軽く左手を添え、右足に体重を掛けて立つ。無表情のまま、無言のまま、右手でクラウスに指示を出す。
クラウスはファイルを手に一歩前に出た。紙を捲り、口を開く。
「一般国民による街と森の往来に届け出が必要になりました。街と森を移動する際は境界に配置されている警察、軍関係者に対して目的を告げ、人間は氏名及びスートと番号を、獣は氏名及び与えられている通り名をそれぞれ提示すること。……ってことなんですが。あれ? 兄貴、どうしてアリス君は駄目なの? スートと番号見せればいいだけだよね」
「ナオユキにはスートも番号もないだろ」
エドウィンは表情一つ変えずにそう返事をした。そして弟のことをちらりと見てから、重心を動かして左足に体重を掛けた。フランベルジュから左手を離し、柄から下がるアレキサンドライトを軽く撫でる。
無表情な緑がぼくを見ている。
「国王陛下公認の特例なのでスートの提示はおそらく不要になるが、そもそも理由を言うことができないだろう。帽子屋が街にいることは一部の者しか知らないんだ。ミスのないようにとブリッジ公からも念押しされている」
「あ、そっか……」
「そういうわけなのでオマエが帽子屋の元へ行くことは許可できない。オレが伝えて来てやるから紙にでも書いてくれ」
「ったく面倒臭ぇことになってやがるな。ちょっと待ってろ」
戻って来たばかりのニールさんがまたリビングを出て行った。
森と街の往来が制限されたということは、ぼくは街に行けないし、アーサーさんも街から出られないのだ。ぼくはクロックフォード家の世話になっているみなしごのアレクシス少年を装って行けば通行自体には問題はなさそうだけれど、エドウィンが言っているようにアレクシス少年には街へ行く理由などないから難しい。アーサーさんは一応ぼくの渡したスートを持っているけれど、ご近所は騙せても警察や軍のことは騙せないだろう。
数分の後、封筒を手にしたニールさんがリビングにやって来た。淡い緑色の封筒に、真っ赤な封蝋が押されている。玄関のドアに付いているノッカーと同じ、帽子を被った猫があしらわれた印だ。あれはもしかするとこの家の紋章めいたものなのだろうか。
ひらりと見せつけるように封筒を振ってからエドウィンに差し出す。
「開けるんじゃねえぞ」
「分かっている」
「それで? 何の用だよ。勝手な往来は禁止ですって言いに来ただけじゃねえだろ」
エドウィンは手紙をクラウスに渡すと、その手からファイルを奪い取った。ぱらぱらと書類を捲る。何が書いてあるのだろう。クラウスが目を逸らしたように見えたけれど。
挟み込まれている写真を一枚取り出し、こちらに向ける。正確には、ニールさんにだけ見せた。銀に近い水色の瞳が小さく震え、目が見開かれる。
「なになに? 僕達にも見せてよ」
「馬鹿兎はナザリオとアリスがこれを見ないようにしてくれ。オマエも見ない方がいい」
「お……。わ、分かった。ほら、アリス君」
ルルーさんがぼくの手を引いた。仕方ないのでソファへ退却するとしよう。
「惨いな。これは最近の?」
「あぁ。これと、これもだ」
「いよいよおかしくなってきやがったな。なるほど、これほどまでの事態になっているのなら往来の制限にも納得だ」
聞き耳を立てていると、クラウスがこちらへやって来た。淡い緑色の封筒を軍帽と重ねて大事そうに手にして、ぼくとナザリオの間に座る。向かい側のソファにはルルーさんしか座っていないのだから余裕があるのだけれど、このリビングにおいて窓側のソファは一応主人側の席になっている。あくまで来客だから廊下側のソファを選んだのだろう。自分はこのスペースに入ることができる、ということも分かっているから。
ナザリオが覚醒していることに若干驚きつつ、クラウスは説明を始めた。
「チェスとその眷属の被害が桁違いで、もう、大変で大変で。ジャバウォック? とかいう大きい怖いやつもいるらしいし……。それで、一般トランプやドミノはもとより、おれ達にも制限が出そうなんだ。まあ、どれだけ怖い被害が出てるのかは兄貴とチェシャ猫さんで話をしてもらうけど……」
「怖くて眠れないのか。よしよし」
「……ねえ、ヤマネってこんなだったっけ」
「寝惚けてないとそうなんじゃないかな。最近ずっとこんなだよ」
「えぇ、アリス君は平気?」
「慣れた」
「そっかあ」
よしよしと撫でられながらクラウスは苦笑する。そして、先日のぼくと同じように「ほんとはかっこいいのかな」と首を傾げた。
エドウィンが資料を捲る音が聞こえる。
「オレは……。オレはバン……バンダースナッチを前にすると動けなくなる、ので……ファリーネ殿下の護衛任務に重点を置くことになる。基本的に街にいるから、帽子屋のことは見ておく。ただ……」
「おれがみなさんの管理の仕事を代わりにやることになったのでよろしくお願いします!」
「……クラウスには戦闘能力がほとんどない。それに臆病だ」
「兄貴酷いよう」
「団長には意見をしたのだが、既知のトランプの方がドミノ達も警戒しないだろう。弟にも経験は必要だと言われてしまい……。配置替えが入り乱れた結果適任者に上げられたのがクラウスだ。だから……その……」
ファイルを閉じ、エドウィンは姿勢を正してニールさんに向き合った。軍帽の鍔に手を掛け、脱ぐと同時に頭を下げる。
「ニールさん。クラウスのこと、よろしくお願いします。弟のことを守ってやってください」
いつも通りの淡々とした声。けれど、クラウスのことを思う強い感情が込められていたように感じられた。
驚きからか一瞬硬直していたニールさんが、数秒の後にそっと手を伸ばす。そして、頭を下げたままのエドウィンのことを雑に撫で回した。
「っ、やめ……」
「任せろ。森にいる間のクラウスの安全は俺が守ろう」
ぼさぼさになった髪を整えながら、エドウィンはほんの少し嬉しそうに表情を動かした。
「感謝……する……」
「もうちょっとありがたそうに言えねえのかオマエは。もっと笑え」
「……クラウス、帰るぞ」
軍帽を被り直してエドウィンは足早にリビングを出て行ってしまった。残されたクラウスが慌てて立ち上がる。
「チェシャ猫さん、これ、ちゃんと帽子屋さんに届けますね!」
「おう」
「あと……。さっきの兄貴とっても嬉しそうでした。あんなに明るい笑顔を見るのは久し振りです!」
「笑ってたのか、あれで」
「えへへー、笑うと意外とかわいいですよね。おれも笑顔がかわいいって言われるのでおれにそっくりです。……あれ? おれが似てるのか?」
置いてくぞ! という声に呼ばれ、クラウスはぼく達に軽く礼をしてからリビングを飛び出した。
クラウス、今回のエドウィンの代理の仕事で少しでも自信が付くといいな。そうすればきっと次に繋がるはずだ。
おれ達もあまり出かけない方がいいのかな、とナザリオが呟いた。チェスならばドミノは襲われないけれど、バンダースナッチやラースなどが現れれば話は別だ。森も、街も、安全な場所は確実に減ってきている。
この先のページを捲るのが怖い気もするけれど、例えぼくが躊躇っても時間がページを捲って行ってしまうだろう。
すっかり冷めてしまった紅茶がティーカップの中で沈黙している。冷たい紅茶を飲み干して、ぼくは小さく息を吐いた。




