第百八十四面 情報ありがとう
紅茶から湯気が昇る。一口飲んで、ルルーさんはティーカップをソーサーに置いた。
「それで、僕の兄はどういうことになってるわけ」
大和さんは椅子に腰かけてティーカップを弄んでいる。あんなに斜めにしたらお茶が零れてしまいそうだ。
ぼくがナザリオの隣に座ったため、ソファは埋まっている。クラウスくらい小柄ならぼく達の横に押し込めそうだけれど、そうもいかない。それに加えて、大和さんは翅があるのでソファには座れない。鳥や虫の獣は空を飛び回れる一方、翼や翅の構造によっては姿勢に制限ができてしまうのだ。
「クロヴィス・ブランシャールは白のルーク。影の力に堕ちた者」
淡々とそう告げて、お茶を一口。
「あぁ、その、えぇと、つまり……。クロヴィスはバンダースナッチみたいになっちゃったってこと?」
「代々影を纏い続けるバンダースナッチやラース共と比べればまだまだ浅いところにいる。けど、チェスと行動を共にしていて、ルークの駒を与えられているのは確かだ」
調査資料を事務的に報告するかのように、大和さんの声にはほとんど抑揚がなかった。平等に無慈悲に、ただ情報を与えるだけ。これが、情報屋ヤマト・カワヒラ。
ルルーさんは若干の動揺を見せつつも、さほど驚いている様子はなかった。きっとぼくとナザリオの方がびっくりした顔になっていると思う。覚悟していたのだろう、ルルーさんは。そして、何も考えていないような笑顔を貼り付けた。
「あはは。やっぱりかー! いやあ、そうなんだろうと薄々思ってたんだよねえ。うんうん。だって、クロヴィスはあの日チェスに連れて行かれちゃったんだもん。全く困っちゃうね! 脅されて言いなりにされて、戻れないところまで行っちゃったのかもしれないなー! どうしたものかなー! わははー」
「……馬鹿兎、無理に笑おうとするな」
「むっ、無理なんかして……してない、よ……。あはは……」
ティーカップに伸ばされた手が震えていた。紅茶が微かに波打つ。「大丈夫だよ。全然平気」という仮面は今にも剥がれ落ちてしまいそうである。
ヘイヤは白いチェスの伝令。やっぱりクロヴィスさんはチェスと強く結びついているのだ。何がどうなって祖父を手にかけ失踪したのかは分からないけれど、ルルーさんが今言ったように脅されたり強制されたりしている可能性は無きにしも非ずだ。
「ついでにクロヴィスが連れ歩いている相方のことも教えてやるよ。アレクシス君が知りたいのはこっちの方だろう」
大和さんが淡々と言う。口調はいつもと変わらないのに、抑揚を消すことでこんなにも印象が変わってしまうのか。
どことなく、資料を捲るエドウィンの姿が思い出された。彼もまた淡々と用件を告げてくるけれど、あれは普段からあの調子だから特に怖いとかそういう感情は持たないんだよね。大和さんの場合は、ちょっぴり怖い感じがした。情報を伝えるという状況においては己の感情とか思考とかそういうものを削っているのかもしれない。
「ランスロット・C・アニサタムは白のナイト。あれもチェスだ。なぜ昼間に活動可能なのか、なぜ影に溶けることをしないのかは詳細不明。以降、予想及び考察。おそらく、本性は人間。ドミノが影に堕ちるのならば、トランプも堕ちることがあるのではないか。ただし、チェスそのものにも謎が多い。現段階では断言することは不可能」
そこまで言って、いつものようににひひっと笑った。食卓テーブルに頬杖を突いて、左目を細める。
「どうだアレクシス君、満足か?」
満足か? 満足、なのだろうか。だたの想像だったものの確証が得られたような気はするけれど。
ニールさんが「やっぱりな」と呟いた。
「オマエの予想はたぶん間違っちゃいねえよ。あのガキはチェスだ。そして、トランプだ」
「チェシャ猫さんは詳しいのか? それならその情報俺に売ってくれないか。代金はしっかり払うからさ」
「駄目だ」
席を立ちかけた大和さんのことを鋭く睨みつける。猫に見据えられ、蝶はおとなしく座り直す。
「オマエに売ったら、オマエはいずれ誰かにも売るんだろう。そんなことしてみろ。オマエを殺す」
「えぇっ、怖っ!? まじかよ!? さすがに命を奪われるわけにはいかねえなあ。でも情報ありがとうチェシャ猫さん」
「は?」
「ランスロットというチェスについてニール・クロックフォードが何らかの情報を得ているという情報が手に入った。そして、俺を殺すなんて言ってきたから、溺愛している弟にも関係している事情だということが分かる。これは売っても構わないだろう?」
「ここでオマエを殺してもいいんだぞ」
ルルーさんが止めようとしたが間に合わなかった。勢いよくソファから立ち上がったニールさんは、腕を獣の物に変えながら食卓テーブルの方へ突っ込んだ。大和さんの着物の衿を掴み、椅子から引きずり下ろす。
「うわ、わ。ほんとに触れちゃ駄目な案件か、これ」
「弟の敵は全部俺が殺す。生きていたいなら詮索するな」
「分かった。分かった」
手を離され、大和さんは尻餅を着いた。ニールさんは腕を戻さずに見下ろしている。地面を這う虫を見ている目だ、あれは。
「俺のこれは最早呪いだ。自分すら消そうとするほどの強烈な呪いだ。だから理解しろとは言わねえよ。けどよ、大事な弟を守るためなんだ。分かれ。弟を大事にする気持ちとか、オマエには分からないかもしれねえけど」
「俺にだって分かっ……! 分か……。そう、だな……俺は一人っ子だから……。チェシャ猫さんの言いたいことは分かった。件の情報には触れないようにする」
本当は痛いほどわかっているのに、言えない。大和さんは自分を抑え込むように拳を握った。
ピリピリした空気の中、授業で発言するかのようにナザリオが挙手した。枕を膝に載せているけれど、クマをくっ付けた目は寝惚け眼ではない。
「あの……。おれも訊きたいことがあるんだけどいいかな」
「何? 俺の知っていることであれば」
「夜もすがらチェスがうるさくて眠れないんだ。あれは何?」
立ち上がって着物を整えながら、大和さんは「知らない」と言い放った。
「あれはおかしいと俺も思っている。現在調査中」
「うぅ、そっか。うーん、いつまで寝不足でいればいいんだろう……」
「分かったら教えてやらないこともない。お代を払ってくれればな。じゃあそういうことでお兄さんはアレクシス君を貰って行きます」
ひらりと飛び上がった大和さんはぼくのことをひょいと持ち上げてリビングを飛び出した。洗面所に着地して、照明を点ける。
「これ以上奥に行ったらチェシャ猫さんに殺されそうだからここでいいだろう。うん。……それで、有主君からはどんな話を聞けるのかな?」
ぼくは寺園兄妹が語っていたことを大和さんに伝える。うんうんと相槌を打ちながらぼくの言葉に耳を傾けていた大和さんは、次第に険しい表情になっていく。相槌がなくなり、代わりに紫煙が漂い始めた。煙管を咥えたのだ。廊下の方に煙を吐き出してから、ぼくの方を改めて見る。
思考を整理しようとしているのか、心を落ち着かせようとしているのか、大和さんはぷかぷかと煙管を燻らせる。
「そうか……。そうか、伊織は……。生まれた時から獣の耳や翼があれば分かるけど、芋虫はトランプと大差ないから分からなかったんだな……。そうか……。怖かっただろうな、きっと。自覚がないのに、翅が生えて来たら」
「あの、翅ってもげるものなんですか」
「もげ……。あぁ、取ろうと思えば取れる。鳥の翼は取れないけど、虫の翅は取れるだろ。普通の動物でも、ドミノでもそれは同じだ。まあ強引に毟り取れば鳥の翼も取れるだろうけどな。いずれにせよ死ぬほど痛いって聞いたことがある。鳥だとそのまま死ぬこともあるらしいし……骨ももげるからな……。虫は死なないけど、それ故に何度ももぐことができる。昔は虫のドミノの犯罪者に対して拷問で行われていたとかなんとか……」
やっぱりめちゃくちゃ痛いのか。伊織さんは毎回その痛みに苦しみながらも、寺園家で暮らすために翅を毟り続けている。
「アイツが知りたいと思うだけ俺のことを教えてやってくれ。妹ちゃんがそれを望むのなら、俺は……。いや、どこで生きるか決めるのは伊織本人だ。俺は有主君から近況報告を受けられれば構わないよ。ただ……。ただ、翅を毟り続けているのは気がかりだな。もう何年もそうしているんだろう? 十年くらいか? んぅ……」
大和さんは煙管の灰を洗面台にぶちまけた。絶対ニールさんに怒られる。携帯用の灰皿は持っているはずなので、先程絨毯に撒いたのもわざとである。前に紅茶の中に落としていたこともあるし、結構悪質な嫌がらせをする人だよね、この人は。恨みがあるとかそういうわけではないだろう。今の動作も至って自然な流れで行われていたので、無意識なのかもしれない。いやいや、無意識で嫌がらせしてくるとか最悪じゃないか。
大和さんは真剣な顔で考え込んでいる。やはり無意識でやったのだろうか。
「平凡な人間である君に分かりやすく言おう。翅が再生する度に毟るという行為は、爪が伸びる度に剥いでいるようなものだ」
「怖いし痛いですね」
「それを毎回、そして何年も続けてりゃ体に負担はかかる。いつかそのうち体がぶっ壊れてもおかしくない。いや、もう既に壊れているのかもしれない……。度々倒れているというのは、ただ単純に蛹状態への移行過程で睡魔に襲われているだけなのか? 心配だな……。まあ、でも、情報ありがとな有主君。伊織のこと、そして母さんが亡くなったということ、父さんに伝えないと」
「えっ、お母さん亡くなって……? というかお父さん生きてるんですか?」
父親である蝶のドミノは事件の際に負った傷で亡くなったのだとばかり思っていた。「勝手に殺すなよな」と言って大和さんは苦笑する。
「父さんは生きてるよ。一応な。そして、母さんはおそらくもうこの世にはいない。伊織が施設に預けられていたということがその証拠だ。あの日、割れた鏡の中で母さんは息子を守り続けた。大事に抱きしめて潜って行った。その伊織が記憶を失うほどのダメージを負ったのだから、母さんはそれ以上の深手を負ったと考えられる。無事に鏡の向こうに辿り着いて、それでも大丈夫だったなら一緒に暮らしてるはずなんだよ。今の家に養子として迎えられるまでの間、母さんと暮らしたはずなんだ。でもそうじゃない。じゃあ、どうして?」
授業中に指名された気分だった。大和さんはぼくの回答を待っている。
「えっと……。大丈夫じゃ、なかったから?」
「そうだ。もう、自分では子供のことを守れない。だから、助けてもらおうとした。偶然近くにその施設があったのかもしれない。あくまで俺の推測に過ぎない。本当のことは分からない。けれど、俺はそう思う。自分はもう駄目だ。せめて、子供だけでも。満身創痍の母さんは、伊織を置いて立ち去って、きっとそのまま」
「でも、でも誰かに見付けてもらって助かったかもしれないじゃないですか、お母さんも」
「そうだとしても、母さんはこちら側のことなんて覚えていないさ。伊織と同じで記憶が欠落している可能性が高い。そしてあの人はただの人間なんだ。忘れてしまったのなら、もうそっとしておいてやるべきだ。忘れられたと伝えるくらいなら、もう死んだと伝えた方がマシだ。アンタを愛したまま死んでいったと」
本当に亡くなっているのだとしたら、それは真実だ。もしも生きていたとしたら、それは優しい嘘になるのだろうか。
大和さんは煙管を指先で弄ぶ。
「あの……。今日すごく臭いますよね……?」
「あー、これいつものと違う煙草なんだよ。たぶん匂いがきついんだな。味は悪くないけど、そこが欠点か……。コーカスレースから巻き上げてきたやつだからいい品ではあるんだよ」
「というこはコーカスレースに情報を?」
「アイツらもなんか忙しそうだったな。まぁ、俺には関係ないことだけど。それじゃあ煙草臭いお兄さんは、今日はこの辺でお暇しますねー。それでは、また今度」
翅と羽織をひらりと翻し、大和さんは残り香を漂わせながら洗面所を出て行った。そしてリビングから顔を出したニールさんの文句には全く耳を貸さずに、そのまま猫と帽子屋の家を後にした。
大和さんと伊織さん、それに、寺園さん。三人の間でぼくができるのは伝言を運ぶことだけだ。奥深くまで踏み込んでしまっているけれどあくまでぼくは部外者だ。ぼくにはただ、見守ることしかできない。




