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アリス少年と鏡ノ空間  作者: 月城こと葉
二十二冊目 歪な子守歌
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第百八十三面 偽物の兄妹

 『変身』。朝、目が覚めると虫になっていた。とある男の身に起こった不可思議な出来事である。


「醜い虫になり果てた男の世話をするのはかわいそうな妹だ。面白いことにね」


 ゆるりと立ち上がった伊織さんは、家具の置いてある方へ歩き出した。作業のために長時間アトリエに籠ることがあるのだろう、小さな箪笥や冷蔵庫が並んでいる。それなりに立派そうな鏡台と箪笥の間に手を突っ込んだかと思うと、大きくて平たいものを引っ張り出した。


 平たい何かが青く煌めく。照明を反射してきらきらしているそれが何なのか判断するまで少しかかった。なぜならそれは、通常ならばそれ単体で現れるはずのないものだからである。本来は本体にくっついているはずなのだ。


 伊織さんが手にしているのは、大きな蝶の翅だった。人が背中に背負えば丁度いいサイズである。ぼくは煙管を燻らせる男がいつも背負っているのを見ている。翅がここにあるということは、そういうことなのだろう。


「僕の最も美しく醜い部分は、僕とつぐみちゃんの秘密。ある朝目覚めたら蝶の翅が生えていて……。そんな兄の世話をするのがかわいそうな妹だ」

「わ、わたしは自分のことかわいそうだなんて……」

「神山君。ヤマトという人物はこれと同じものを持っているね?」


 ぼくは頷く。伊織さんの目が細められた。


「醜くて、そして美しいだろう……? 綺麗な青だよね。この翅脈も、鱗粉も、いい材料になるんだ」


 愛しい人を褒めるかのように、翅を撫で回しながら人形職人はにやりと笑った。綺麗な青、そしていい材料。その言葉を受け、ぼくは思わず棚の方へ視線を向けた。並んでいる人形達の美しい衣装には青い色が散りばめられている。


 ぼくの目線に気が付いたのか、伊織さんは「綺麗な青だろう?」と繰り返す。あの人形達の纏う青を見て、ぼくは大和さんの翅のような色だと思った。同じ青の翅を伊織さんも手にしている。すなわち。


「お兄ちゃんは……翅を衣装の材料に使っているんです……」

「そのまま捨てるわけにはいかないからね、両親に見付かると困るから」

「あの翅は、お兄ちゃんの秘密。わたしと、お兄ちゃんだけの……」


 自分の翅を織り込んで、まるで羽根を反物にする鶴のようだ。


「それじゃあ、その翅は背中から?」

「少し痛いけどね。痛みを覚える度に、自分は人間ではないのだと改めて思い知らされる。自分は何者なのか。本当の親は、家族は、何なのか。どうして、家族と離れ離れになったのか。でも、今の僕は寺園伊織だ。寺園つぐみの兄。それだけで、それだけで十分だ。今の家族は、大切な存在だからね。とはいえ、つぐみちゃんが僕にどうしても知ってほしいようだから聞こう。神山君、君は何を知っているんだい?」

「伊織さんは大和さんのことをどこまで知っているんですか」

「……駄目。駄目なんだ。さっきも言ったけれど、彼のこと、は……。思い出そうとすると……。ただ、確かなのは、どこかの森で、恐ろしい何かが……。あ、あぁっ……ぅ」


 頭を押さえて伊織さんが蹲る。手から離された翅が床に落ち、周囲に鱗粉を散らした。寺園さんが伊織さんに駆け寄り体を支える。


 森はおそらくワンダーランドのどこかの森だろう。では、恐ろしい何かは? きっとそれはジャバウォックだ。伊織さんが覚えているのは、鏡を潜ったあの日のこと。潜ると同時に割れた鏡の向こうに何を見たのだろう。鏡が割れた衝撃か、それとも強烈な恐怖か、あるいはその両方によってあの日以前の記憶が欠落している。大和さんの存在もジャバウォックと混ざって怖いものになっているのかもしれないな。


 寺園さんの腕の中で伊織さんはぐったりしている。これ以上話をするのは無理そうだ。


「先輩、わたしはお兄ちゃんを本当の家族に会わせてあげたいんです。この間は言えなかったけれど、今は言える。翅が、翅がある人だから、一緒にいるべきなのはわたし達じゃなくて、本当の家族なんだって、思ってて……。お兄ちゃん、この家で暮らし続けるために毎回毎回翅を毟り取って、痛くて辛い思いをしてて。絶対、体に良くないのに……。だから、翅のあるまま暮らせる場所に連れて行ってあげたくて。だから、その。河平さんはどこにいるんですか?」


 大きな目がぼくを見る。言えるのならば全て言ってしまいたい。でも、できない。


「色々なところを点々としているらしいから、定住地は分からないんだ」

「そうですか……」

「ねえ、寺園さん。伊織さんがどうやってこの家に来たのか聞いたことある? 親御さんの間で養子縁組の相談とかあったのかな。あぁ、いや、デリケートな問題だよね。なんかごめん」


 気を失ってしまったのか、眠ってしまったのか、動かない兄の長い髪に指を絡めながら、妹はゆるゆると首を横に振った。ということは、答えてくれるのだろうか。


 人形達の視線を全身に浴びながら、ぼくは寺園さんの言葉を待つ。棚に並ぶ人形達が妙に生々しい気配を帯びていたのは、その衣装や装飾に生き物の一部を用いていたからなのかもしれない。人形職人自身が言っていたように、文字通り身を削って生み出した子供達なのだ。


 寺園さんは躊躇う素振りを見せつつ口を開く。


「詳しいことはわたしも聞いていないんですけど、お兄ちゃんは施設から引き取られたって……。それと、施設に入る前のことは何も分からないそうです。だから、だからもしかしたら、本当の家族はお兄ちゃんには会いたくないのかも……と、思うこともあるんです。でも、河平さんという人はお兄ちゃんに興味を持っているんですよね? それじゃあ、どうして施設に……」

「大和さんは親じゃなくて、兄弟なんだ。小さい頃に離れ離れになったって言ってたから、親の考えとかは知らないんじゃないかな……」

「兄弟。兄弟なんですね。偽物の妹なんかじゃない、本当の兄弟がいたんだ。やっぱり、会わせてあげたいな」


 きみは偽物じゃないよ。


 その言葉がぼくの口から出ることはなかった。ぼくが言うよりも先に、伊織さんが動いたのだ。自分を腕に抱いたまま俯く寺園さんの頭に手を伸ばし、そっと撫でる。


「つぐみちゃん」


 名前を呼んだ。たった一言、それだけ。それだけで十分な二人が、偽物の兄妹なわけないんだ。


 伊織さんは体を起こし、寺園さんを抱き返して頭を撫でる。二人とも何も言わなかったけれど、そこには確かな温かさがあったように感じられた。


「神山君。君の知っていること、少しずつ教えてくれないかな。また彼に会ったら、僕が貴方を知りたいと思っていると伝えてくれる?」

「はい、必ず」

「ごめんね……。全部纏めて聞くことができればいいんだけれど、もう、僕の体が限界だから……」

「分かりました。また後日改めて。それじゃ寺園さんも、また学校でね」


 寺園さんが小さく頷く。秘密を抱えた兄妹に挨拶をして、ぼくはアトリエを後にした。





          ◇





「これでどうだ! これだけあれば足りるだろぅ!」


 三日後。ワンダーランドにやって来たぼくの耳に飛び込んできたのはルルーさんの声だった。定期テストの見直しに時間を取られてこっちへ来るのが久々になってしまったけれど、何かあったのだろうか。


 リビングへ向かうと、青いきらきらが見えた。大和さんだ。食卓テーブルの上に座って煙管を燻らせている。そして、奥のソファに座ったルルーさんがテーブルに札束を叩き付けている。彼女の隣にはニールさんがいらついた様子で座っていて、ナザリオは手前のソファに座っていた。ナザリオはどうやらまだ安眠できていないようだ。


 ばしばしと札束をテーブルに叩き付け、そこにさらに札束を投入する。


「じゃあこれでどうだ!」

「三月ウサギさんよう、金さえ払えばどうにかなるって考えは金持ちの良くない部分だぜ」

「おいヤマト! さっさとそこから下りやがれ。そこは座るところじゃねえんだぞ。虫の頭じゃそんなことも分かんねえのか」


 これは、どういう状況なんだ?


 廊下から様子を窺っていると、大和さんがぼくに気が付いた。煙管を咥えていた口元がにやりと笑う。


「なお……アレクシス君じゃねえか。丁度いいや。三月ウサギさん、お代はアレクシス君で構わないぜ。そのお金は大事に持ち帰ってくれ」

「え……。アリス君を? えぇっ!?」

「オマエ、ガキに手を出すつもりなのか。しかも男に」

「三月ウサギさんとチェシャ猫さんは俺のことなんだと思ってんの」


 食卓テーブルからひらりと下り、大和さんはぼくの方へ歩み寄って来た。煙管はぼくから離して持ってくれているけれど、なんだか今日はいつにもまして煙草の臭いがこびりついているようだった。


「また情報持ってきてくれたんだろう、アレクシス君は。それと交換だ」

「アリス、オマエ変な取引するんじゃねえぞ」

「俺のこと害虫みたいに扱うのやめてくれないかな。お兄さん悲しい」

「悪いな、俺の方がお兄さんだからその得意の文句は効かねえぞ」


 理解した。


 おそらく、家の前を通りかかった大和さんのことをニールさんもしくはルルーさんが捕まえて連れ込んだのだろう。そして、クロヴィスさんに関しての情報を聞き出そうとしてお金を出し、これでもかこれでもかと積み重ねても頷かないまま今に至る、と。


 大和さんは容赦なく灰を絨毯に落としてから煙管を懐にしまう。「ふざけるなよ」とニールさんの怒声が飛んだのは言うまでもない。


「どうだろうか、アレクシス君」

「分かりました。ぼくも大和さんに話があったので」


 触覚めいた跳ねた髪がぴょんっと動いた。


「へぇ、何を聞けるのかお兄さん楽しみだよ」


 全然楽しくなさそうに、むしろ警戒して怯えているような表情で彼はそう言った。





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