第百八十二面 化け物なのだから
「詳しいことは言っちゃ駄目って言われてて……」
椅子は作業机の前の物しかないらしく、ぼくは床に座ることとなった。寺園さんも同様で、アトリエの主たる伊織さんだけが椅子に座って机に突っ伏していた。
「あのぅ……」
「ちゃんと聞いてるよ。聞いてるから」
「苦しくなったら言ってくださいね」
「うん……。うん……」
大和さんの名前を聞くたびに疲弊していくらしく、まだ全然話が進んでいないのに既に伊織さんは限界に近い状態になっていた。偶然出会い、時々交流をして今に至るのだというぼかしまくった説明をようやく終えたところである。
湯呑の中のほうじ茶はもうだいぶ温くなってしまった。
寺園さんは心配そうに伊織さんを見ている。
「フルネームは河平大和さんといいます」
「そう……。……ん。ごめん……もう無理そう……」
ぼさぼさの髪の間から水色の瞳が覗く。頭を押さえて、椅子からずり落ちる。そして、ずっと羽織り続けていた毛布に改めてくるまった。
「お兄ちゃんっ」
「思い出したいのに……思い出さなきゃ、いけない気がするのに……。思い出したくなくて……。怖くて……」
大和さんの名前自体に拒絶反応が出ている。これ以上は無理かもしれない。
毛布の塊が小さく震えているのを撫でながら、寺園さんはぼくを見た。
「あの、先輩。その河平さんという人はどういう人なんですか。どこで、何を? 言える範囲でいいです」
「えっ。えっとね……。ふ、フリーの記者をやっているって言っていたけれど……」
「その人……人なんですか?」
「……へ?」
人ではない。大和さんは蝶の翅を持つワンダーランドの獣だ。
ぼくはワンダーランドのことなど一言も話していないし、大和さんのこともあくまで人間として説明をしている。そもそも伊織さんの家族かもしれない人だという話をしているのに、なぜ寺園さんはそんなことを訊いてきたんだ?
伊織さんはこちら側の世界で人間として暮らしているはずなのに。
……まさか。
「人に決まってるでしょ。どうしてそんなことを」
ぼくが答えると、寺園さんは少し悲しそうな顔をした。
「そうですか……。あっ、いえ、そうですよね! 変なこと訊いちゃってすみません!」
まさか。まさか。伊織さんにはドミノの自覚があって、寺園さんもそのことを知っているのだろうか。仮にそうだとしたら、本当の家族と思われる人が人間なのかどうか訊ねたり、人間であると聞いて悲し気な反応を見せたりすることにも説明が付く。
クロックフォード兄弟のように、ドミノと人間の間に生まれた子にはドミノの特性がはっきりと出る者と外見上はトランプそのものでしかない者とが存在する。伊織さんはアーサーさんと同じでドミノの特性がほとんど出ていないのだとばかり思っていたけれど、実はそうではないのかもしれない。
もしも、伊織さんの体にドミノの特性が現れているとしたら。
ぼくは震えている毛布の塊に目を向ける。あの背中に蝶の翅が生えているのだろうか。いいや、それならば目に見えて分かるはずだ。翅なんてなかった。夏休みに一緒に温泉に入った時だって……。
「いや……」
「神山先輩?」
温泉に行った時、伊織さんは結っていた髪を解いて背中を隠し続けていた。髪を上げていたのは湯船に浸かっていた時だけである。しかも、お湯の中では常に壁に背を向けていた。ぼくは彼の背中を見ていない。
「寺園さん」
「……はい」
「どうして、人間なのかどうかなんて訊いたの」
寺園さんは毛布を撫でる手を止めてぼくから視線を逸らす。
「えっ……。えっと……」
「人間ではないって答えの方がよかったのかな」
こんなことを訊ねて追い詰めるようなことをするのは意地悪だろうか。寺園さんは目を泳がせながら答えを探している。
ぼくの問いかけに対して、伊織さんは特に反応を示さない。丸まった毛布が小さく震え続けているだけである。しかし、作者の不安を代弁して人形達がざわついているように感じられた。美しい人形達はまるで作者の体の一部か何かのようである。かわいい人形なのに、どこか生々しい気配を帯びているところが少し不気味だ。
アトリエに沈黙が訪れる。人形達の視線だけが空気を震わせていた。とても見られている気がする。
「お兄ちゃん、は……」
毛布の塊から腕が伸びてきて寺園さんに掴みかかった。湯呑を一つ倒してしまったが、中身は空だったので床は濡れていない。毛布はそのまま湯呑も一緒に寺園さんを飲み込んでしまう。
「んあぁ……」
「駄目……。駄目、つぐみちゃん……」
寺園兄妹が揃って毛布の塊になってしまった。うごうごと蠢く毛布の中で何がどうなっているのかはぼくにはさっぱり分からないけれど、妹が兄に口止めされたということだけは事実である。寺園さんは何を言おうとしていたのだろう。お兄ちゃんは……なんなんだ?
数十秒の後、ぺいっと毛布から吐き出された寺園さんが床に転がる。
「うぅ……。ずるいよぅ……」
「寺園さん、大丈夫?」
「先輩……お兄ちゃんって美人だと思いませんか」
「綺麗な顔だとは思うけれど、どうしたのいきなり」
「あんな美人に目の前で『駄目』って言われたらもう駄目です。言えません……。いや、でも……。でも……」
バッと勢いよく顔を上げて、寺園さんはぼくの手を握った。この話をしっかりと聞いてほしい、という意志が強く感じられた。
毛布の塊から「やめてっ」という声が聞こえたが、もう止まらない。
「もしもわたしがっ……! お兄ちゃんは人間じゃない、って言ったら……先輩は、どうしますか……」
途切れ途切れになりながらも、眼前の後輩はそう言い切った。背後で毛布の塊が崩れ落ちる。
この状況でそんな質問をしてくるということは、それが真実に近いということだ。やはり、伊織さんにはドミノの自覚があるのだろう。ぼくはどう答えればいいのかな。
寺園さんはぼくの手を強く握ったままだ。大きな目がぼくのことをじっと見つめている。そして、伊織さんは毛布の中で呻き声のような唸り声のような、声になり切らない音を出して震えている。
ぼくは……。
「ぼくは気にしないよ。伊織さんは伊織さんだから」
「先輩……」
「それと、ぼくはさっき嘘を吐いた。ごめん」
「え?」
「人間じゃないんだ。大和さんも」
寺園さんの大きな目が大きく揺れる。潰れていた毛布の塊がゆっくりと体を起こしたのはその直後である。
ワンダーランドのことを他の人に話すつもりはない。今もまだそのつもりではある。
鏡の向こう側に異空間が広がっているだなんて、物語を愛する者が相手であっても怖くて言えない。信用していないわけではない。おまえはおかしいと言われるかもしれないという恐怖よりも、自分も行きたいと言われたらどうしようという迷いの方が強いのだ。璃紗や琉衣に言ってしまったらどうなるだろうか。行きたいと言われてしまうのではないか。あそこは自分だけの秘密の場所なのだという気持ちと、今のワンダーランドは人間が不用意に訪れるべきではないという気持ちが真実を告げることを許さない。
危ないよと言われても行ったり来たりしている自分のことを棚に上げながら、自分だけ夢のような世界に浸っている。そう言ってしまうとなんだか嫌なやつみたいだけれど、それが今のぼくの状態である。
例え伊織さんが自分は人間ではないということを知っていても、彼から追及されるまではワンダーランドのこともドミノのことも言わないつもりだ。
怖い。
うん、そうだ。やっぱり怖いんだよな。おまえはおかしいんじゃないか? と、ほんの少しでも思われてしまいそうで。でも、信じてる。信じてるからこそ、そんなところに行っているのかと、心配させてしまいそうで。
ううん。なんだろう。はっきりしないな。
自分の考えがふわふわしていて纏まらないけれど、ワンダーランドのことを言いたくないということだけは確かなんだ。
毛布の中から伊織さんが顔を出した。簪をどこかに落としてしまったらしく、長い髪が顔の左半分を隠している。
「ヤマトは人間じゃない……?」
「はい……」
「それならば、君の言うように僕の本当の家族なのかもしれないね。だって僕は、化け物なのだから」
毛布がずり落ちて床に広がる。へたり込んでいる伊織さんが自嘲気味に笑い、妹とは違う青い瞳が煌めく。
「君は『変身』という物語を知っているだろうか」
ぼさぼさの髪の間から触角のように跳ねて飛び出している部分が小さく揺れた。




