第百八十一面 気に入った子はいたかな?
初めて伊織さんに会った時、彼は道に倒れていた。グランピングで森を散策した時も辛そうな様子を見せていた。体が弱いわけではないと寺園さんは言っていたけれど……。
「神山先輩」
寺園人形店のドアの前で、寺園さんはぼくを振り向いた。制服のスカートがひらりと揺れ、ピンクと白の縞模様のシュシュで纏められたサイドアップがぴょこっと動く。
「先輩はどうしてここまでしてくれるんですか」
「ここまで足を突っ込んでしまったから今更もう知らないなんて言えないし、それに、気になるから。……どこまで踏み込んでいいのか分からない。失礼なんじゃないかって思う。でも、ページを捲る手が止められない」
大きな目がぼくのことを見上げている。
「ありがとうございます、先輩」
「えっ」
「誰にも言えなかった。ずっと内緒にしてたんです。でも、話を聞いてくれて嬉しかった。表紙を捲ってくれてありがとうございます。いいんですよ。もっと捲って行ってください、ページを。……先輩になら、あのことも」
「あのこと?」
寺園さんは答えずに、自動ドアのボタンを軽く押した。
店内にはいつも置いてある雛人形や五月人形に混ざって、くるみ割り人形がたくさん並べられていた。リースなどの飾りも置いてあるようだ。
『クリスマスセール実施中! くるみ割り人形大放出! リースやオーナメントもあるよ~!』
寺園さんが描いたと思われるポップが添えられている。もしかすると、ひな祭りや子供の日にも人形に合わせた小物が売られているのかもしれない。
大小さまざまなくるみ割り人形達が歯を剥き出しにしてにんまりと笑う間を通って、店の奥へ向かう。
「わたし着替えて来ます。すぐ戻りますので、先輩はここで待っててください」
店の奥の奥、『関係者以外立ち入り禁止』と札の掛けられたドアの前に立たされた。ここより奥が居住スペースなのだろう。レジカウンターのところに座っている店番の職人さんがクリスマスの飾りつけを手直ししているのを眺めながら、寺園さんを待つ。
数分後、パーカー姿の寺園さんが立ち入り禁止のドアから出て来た。家の中に出迎えてくれるのかなと思ったら、彼女は居住スペースとはまた別の奥にあるドアを指し示した。そちらにも立ち入り禁止の札が掛けられている。
『アトリエ』の文字が見える。ここが作業スペースなのかな。
「父や職人達が作業をしているのは反対のそちらのドアです。こっちは元々物置で……」
ノックをすると返事があった。この声は伊織さんだ。
「お兄ちゃん、ただいま」
「おかえり、つぐみちゃ……。……神山君」
半地下になっているアトリエの壁には棚が貼り付いたように並べられていて、数多の人形達がぼくのことを睨みつけていた。フリルとレースの塊が白いボディとカラフルな瞳を取り囲んでいる。
そんな人形達に埋もれるようにして伊織さんが作業をしていた。長い髪は無造作に纏められていて、簪が今にも落ちてしまいそうである。纏めきれていない部分から飛び出して跳ねている髪が触角のように揺れている。そして、ぼさぼさの髪から覗く青い目は綺麗にクマで縁取られていた。表情は見るからに元気がなさそうだ。
手にしていた人形の腕を作業台に置いて、伊織さんはふらふらと立ち上がった。
「何の用?」
おまえはここにいるべきではない、と告げるようなきつい口調だった。ぼくは反射的に「ごめんなさい」と頭を下げる。
「つぐみちゃん、部外者をアトリエに連れてこないで」
「おにいちゃん、神山先輩と話をしてみてよ」
「君は先輩達に幻想を抱いているんじゃないか? そうやって言うから鬼丸君と会ってみた。そうしたらどうなった? 僕は……僕は化け物なんだ……。あんな話聞きたくなかった。きっと、きっと神山君もそうだろう……! 僕のこと……僕のことを……!」
がしがしと髪を搔き乱し、伊織さんはぼくのことを睨みつける。乱れた髪が顔の右半分を覆い隠していて、左目だけがこちらを見ていた。やさぐれた空気を纏うと一段と大和さんにそっくりで、二人が双子であるということをまざまざと見せつけられているようだった。
ぼく達のことを追い出し、ついでにドアを閉めようとして伸ばした手を寺園さんに掴まれる。妹の小さな手は兄の細い腕をしっかりと掴んでいる。
「話すことはない。人形達といさせてくれ」
「わたしはお兄ちゃんの力になりたくて……!」
「君の気持ちは嬉しいけれど」
「神山先輩は、お兄ちゃんの本当の家族を見たことがあるかもしれないって!」
切れ長とぱっちりのいいとこどりをした目が大きく見開かれた。
「待って……。言ったのかい、神山君に。僕が養子だと」
「だ、駄目だったかな」
「駄目ではない、けど……。神山君、本当に? 本当に見たことあるのかい?」
もう言ってしまおう。隠していても仕方がない。
「伊織さんがずっと気にしていたヤマトという人がそうです」
「えっ、先輩見かけただけだって言ってませんでしたか。知り合いなんですか」
「言うなと言われていて」
閉じかけていたアトリエのドアが勢いよく開かれた。ドアの動きによって生み出された風が伊織さんの髪を揺らす。
棚に並ぶ人形達が一斉にぼくの方へ視線を向けたような感覚があった。まるで作者の意思に反応しているかのように、興味深そうにぼくのことを見ている。ガラスやプラスチックの瞳が冷たく光る。
「神山君、詳しい話を聞かせてもらえるかな……」
そう言ってぼくを迎え入れようとした直後、伊織さんは頭を押さえて倒れ込んだ。
作業の合間に休憩を取ることは大事だ。アトリエの脇には冬の半地下でも安心できそうな厚手の毛布が置かれている。壁に凭れ掛けさせた伊織さんのことを毛布で包んで、寺園さんはぼくを振り返る。
「すみません先輩。お兄ちゃん……その……メンタルが脆弱なので少しの刺激で体に影響が出てしまって……。それに、鬼丸先輩と話をしてからずっと暗いし、お店に出ることもなくただ黙々と人形を作っていて……」
「あの……。大丈夫なの? ちょっと過呼吸気味っぽいけど……」
毛布に顔を埋めた伊織さんは苦し気な息を漏らしている。ちらりと見えた目も虚ろだった。
「少しすれば落ち着くので。あっ、そうだ。お茶、お茶持ってきますね。人形達でも見て待っててください」
蹲る兄に「すぐ戻るからね」と声をかけて、寺園さんはアトリエから出て行った。ぼくは棚に目を向ける。
アトリエの棚に置かれている人形達は売り物ではないそうだ。店頭の球体関節人形には付けられていなかった個人名が彼女や彼には存在しているのだという。名前を記したシールが棚に貼られているのが見える。
星大祭に展示されていた水色のドレスの人形が目に留まった。名前は、瑠璃瑪瑙。この人形もそうだけれど、美しい青色の光沢を纏う人形が多い印象だ。その青を見ていると、大和さんの翅の色が思い出された。
「気に入った子はいたかな?」
「わわっ」
人形に注目している間に背後に伊織さんが来ていた。毛布にくるまりながらぼくのことを覗き込むように見下ろす様は怪しげな占い師か魔法使いのようにも見える。それとも、不思議な人形を売ってくれる謎の人形職人だろうか。
まだ少し苦しそうな息をしているけれど、幾分か落ち着いて来たようだ。棚に手を着いて体を支えながら、伊織さんはぼくの返答を待つ。
「どれも素敵です。でも、しいて言えばこの子とか、この子とか」
黄色いドレスの女の子の人形と、ピンクの衣装の男の子の人形が仲良く並んで座っている。
「へえ、そういう子が好みなんだね。メルヘンとか、ポップとか、かわいらしいを前面に押し出した子だよ。黄色い方が金盞花・メグで、ピンクの方が桜・トム。花の妖精をイメージしてデザインしたんだ」
「お花の装飾が目立ちますね。とてもかわいいです」
「かわいいだろう? 我が子を褒められるととても嬉しいね。身を削って生み出した甲斐があるよ」
「我が子……」
璃紗の書いた小説も、琉衣の描いた絵も、どれも素晴らしい物だとぼくは思う。そして、それらを作り出すためにたくさんの努力をしていることを知っている。だからぼくにとっても素敵な作品は、作った側にとっても大切な作品なのだと。伊織さんの人形もきっとそうなんだ。身を削っているという表現が気になるところだけど、体に無理をさせているなら時々休むのも大事だよね。
伊織さんは白いドレスの人形の顔を撫でる。彼女の名前は白亜と書かれている。
「子供達と一緒なら君の話も聞ける気がする。けれど、あまり圧をかけないでくれるかな。彼の名前を聞いただけで懐かしさと恐怖が同時に湧き出てきて、今にも倒れそうなんだ。正直に言うとまだ混乱してるし、具合はすこぶる悪い。でも、人形達の前で弱いところは見せられないからね」
「無理はしないでください。言ってしまっていいのか、ぼくもまだ迷っていて……」
「鬼丸君のような敵意は君からは感じられない。きっと君には悪意はない。僕が勝手に苦しんでいるだけだ。だから、言ってくれて構わないよ。ただ、具合はすこぶる悪い。そこを忘れないでね。具合は、悪いからね」
念には念を入れる感じで何度も不調をアピールされた。本当に話してしまっていいのだろうか。
ドアが開く。湯呑の載った盆を持った寺園さんが戻って来た。