第百七十九面 ただの鼠
ブリッジ公爵家のお屋敷にもジャバウォックもどきの咆哮は聞こえていたらしく、戻るや否や夫人に無事を確かめられた。よかったよかったとむぎゅむぎゅされている間に大和さんはどこかへ行ってしまった。
クロヴィスさんとランスロットのこと、訊きそびれちゃったな。
「その後ヤマトには会ってないの?」
「はい。えっと、確かニールさんもユーリさんのパブを見に行ったんですよね」
「あの癖の強いマスターのパブな……。ここ数日姿を見てないってマスターは言ってた」
ぼくとニールさんの返答を聞いて、ルルーさんは表情を曇らせた。
「クロヴィスのこと知りたいんだけどな……」
ジャバウォックもどきに襲われてから三日。ワンダーランドに来るたびに森の中を少し歩いているけれど大和さんには会えていない。
寺園さんにもまだ話ができていないし……。次に当番が重なるのはいつだったかな。当番がない日にわざわざ教室まで行って声をかける勇気がぼくにはなかった。知らない一年生と会話するのが怖い。もう少し頑張ってくれ自分。
「ヤマトが情報屋だったとはねぇ」
「お代がいるみたいですけど」
「んー。これくらいで足りるのかなあ。もっとって言われたらもう少しくらいは出せるけど」
ルルーさんはポケットから財布を取り出すと、テーブルに紙幣を置いた。全部で十枚ある。
「馬鹿兎オマエ本気か」
「えっ、だって失踪した兄の情報はほしいじゃん! 怖くて、怖くて怖くて、怖い記憶ばかりがよみがえるけれど、それでも、あの人は僕の兄だからね」
「オマエの気持ちはよく分かるが、そういうことじゃない。この金本気なのか」
「えぇ……? 足りないかな。情報屋さんって頼んだことないから相場がいまいち分からないよう」
そう言って、ルルーさんは財布の中から紙幣を五枚追加した。
「オマエがお嬢だということを改めて教えられた気がする」
「お? よく分かんないけど褒められたのかな?」
「褒めてはいない」
使う機会が滅多にないのでぼくは未だにワンダーランドの通貨を詳しく理解していないけれど、紙幣十五枚というものがそれなりな金額であることは分かる。さらっとそれを出して見せるルルーさんはやはりお嬢様なのだ。
まだ足りないのかなぁ、と呟きながらルルーさんは紙幣を財布にしまう。まだまだ財布に入っているのだろうか。そもそも紙幣をそんなに持ち歩く必要はないような気がする。
テーブルの上から紙幣がなくなったところで絨毯に寝転んでいたナザリオが体を起こした。珍しく目はぱっちりと開いている。先程からぼく達の会話にも反応を見せていたので、今日はおそらくずっと起きているはずだ。
「近頃夜もすがらうるさくてなかなか寝付けないんだよね。家族みんなそれで困ってる。情報屋さんだったらそういうことについても何か知ってるかな」
「うるさいって、どんな風にだよ」
「んと、たぶんチェスとかそういうのだと思うんだ。足音とか話し声とか、あと、鎧のがちゃがちゃいう音かな、そういうのが家の近くで聞こえてて、夜に目が覚めちゃったり眠れなかったりするんだよ」
「原因がチェスだって分かってるんじゃねえか」
ナザリオはゆるゆると首を横に振る。
「そうじゃなくて。今までそんなことなかったから、何かあったんだと思うんだよね。チェスの動向? とかもヤマトは知ってるかなって。おれの家族がそんなことになってるんだから、他のご近所さんなんかもっとうるさいなあって思って眠れなくなってると思う……」
ナザリオが睡魔に襲われ続けているのは家系によるものだとこの間言っていた。そんな眠り鼠の家族さえ起こしてしまうような音が夜中に聞こえているらしい。
「家を借りてる人達がうちに何人か来てたのもそれかな。騒音問題云々ってパパンに文句言ってた。困っちゃうよねえ! うちの庭なのに!」
「庭に道を走らせておいて何言ってんだ。嫌なら全部柵で囲って門を閉めとけよ」
「そうもいかないよ。そんなことしたら近所の人達がうちの敷地の外周を通って移動しなきゃならなくなって大変なことになる」
「改めて馬鹿みたいな庭だな」
「今のは褒められてないの分かったよ」
ソファを這い上がってぼくの隣に座ったナザリオは、クッキーをつまみながら深い深い溜息を吐いた。よく見ると目の下にクマができている。ぼくの視線に気が付いたのか、クッキーを咥えたままこちらを向く。
いつもより少しだけ険しそうな淡褐色の瞳は訝し気にぼくのことを見ていた。
「アリス、おれの顔に何か付いてる?」
「何も付いてないけど、クマができてるなって」
「あぁ……。……全然眠れなくて家族全員クマできてるし目付き悪くなってる。眠い眠いって言って昼寝してる弟や妹が羨ましいよ」
「ナザリオも寝ていいんだよ?」
そもそも、普段はぼく達の会話が聞こえているのかいないのか、ひっくり返ってぐっすり眠り続けてお茶会の時間を過ごしているのだ。目を覚ましている時もあるけれど、眠いといいつつ眠っていないのは非常に珍しいことだ。
ニールさんがティーカップをソーサーに置く。かちゃりと小さな音が聞こえた。寝不足のナザリオのことを心配するでもなく、彼はにやにやと笑っているだけである。
「オマエずっと深夜テンションのままなんじゃねえか?」
深夜テンション。すなわち、目が冴えまくっていて暴走しそうな状態。正しい意味がそれなのかは不明だけれど、ナザリオの場合はそれで合っているはずだ。眠れないまま睡眠欲が頂点に達し、眠り鼠が寝不足の末に文字通り凄まじい覚醒をする。そして、一通り大暴れしてから電池の切れたおもちゃのように倒れて眠り始める。
しかし、今のナザリオには暴れる気配も眠る気配も感じられない。目付きが悪いまま起き続けている。
ティーカップを両手で包み込みながら、ナザリオはまたしても深い溜息を吐いた。
「目が冴えて冴えて冴えまくって、深夜テンションすら超えてしまったのが今のおれ。これじゃあ眠り鼠じゃなくてただの鼠だよ。そもそもヤマネだけど」
乾いた笑いが紅茶の中に溶けていく。
これはかなり危ない状態なのでは? と向かいのソファを見遣ると、ニールさんとルルーさんも深刻そうにナザリオのことを見ていた。眠り続ける眠り鼠はどのくらいまで起きていて平気なのだろう。このままずっと昼間に起きていて、ある日ぱたりと倒れてしまうなどということはないと思いたい。
ルルーさんがテーブルを突いてぼく達の視線を集める。
「ねえねえ、やっぱりこれはヤマトを見付けて情報を巻き上げるべきなんじゃない? クロヴィスのことも、どんどん増えるチェスのことも、情報屋なら何か知ってるかもしれないんだからさ。……いくらでも金はある!」
「オマエは情報屋を雇うつもりなのか。そんなに出さなくても大丈夫だろたぶん。ほら、さっさとしまえしまえ、盗っちまうぞ」
「泥棒はいけないことなんだよ!」
「オマエ絶対外で同じことするんじゃねえぞ。スリとかひったくりとかそういうのにあっという間に持って行かれちまうからな」
「さすがにそこまで馬鹿ではないよ。失礼だなぁ」
いつもならばこの辺りでナザリオの「仲良しだねぇ」というような相槌が飛んで来るところである。ところが、冷え切った目を二人に向けてティーカップを傾けているだけで無言のままだ。もしかして、普段のぼんやりとした柔らかな様子はあくまで寝惚けているからで、本性はこちらなのだろうか。
ぼくのことをちらりと見て、ナザリオは「ふふっ」と涼やかに笑った。ぐんにゃりしていて分からないだけで、ほんとうは意外と顔がいいのかもしれない。少し格好よかった。
「この辺りは街にも近いから、人間も気が気じゃないよね。アーサーのことも心配だよ。……おれ、心配でさらに眠れなくなりそう」
「エドウィンが来た時に街の方の話も聞いておきたいね。あっ、ぼくがいない時に来たらちゃんと後で教えてね」
「うん……。たぶん起きてるから覚えられると思う……」
自嘲気味に言って、ナザリオは紅茶を一口飲んだ。
きみのことも酷く心配なんだよ。ぼくも眠れなくなっちゃいそう。




