第百七十八面 最後に映った絵
小川のせせらぎが聞こえている。
「アイツらのこと教えてやろうか」
振り返ると、川原に座った大和さんがにやりと笑った。右前髪には血が付いている。
「知ってるんですか、詳しいこと」
「俺は風来坊だなんだって言われてるしそれ自体は間違っちゃいないけど、その実態は情報屋だぜ。アイツらのことだって軽く説明くらいはできる」
「情報屋……。でも、それじゃあ情報のお代がいるんですよね」
「もちろん。慈善事業じゃあねえからな」
生憎ぼくにはワンダーランドの通貨の手持ちはない。何か代わりの物で支払うことはできないかな。
どうしたものかと考えていると、大和さんがこちらに歩み寄って来た。無言のままぼくのパーカーを掴み、足を引っかけて転ばせると川に突き落とす。待って何が起きた?
穏やかに流れていく川面に押し付けられ、顔を上げることができない。
「むぐー!?」
「暴れるな暴れるな。暴れると苦しくなるぞ」
「んー! んっ……。はっ、わ、びっくりした! 何するんですか!」
後頭部に添えられていた手が離されたので、ぼくは顔を上げる。すると、大和さんは蝶柄の手拭いを差し出してきた。
「一回ちゃんと洗った方がいいと思ってな。ひっでえ顔してたから」
「それならそうと言ってください。……すみません、あんなところ見せてしまって」
「構わねえよ。あれだけ惨いもん見て具合悪くしない方がおかしいからな。あぁ、現場は俺が片付けておいたから安心しろよ。埋めとけばそのうち消える」
「現場とか言わないでください。なんか恥ずかしい……」
改めて手と顔を洗い、口をゆすぐ。ついでにハンカチも洗っておこう。服はどうだろうかと確認しようとしたけれど、先程川に落とされた時に全身びしょ濡れになってしまったので一応問題なさそうだ。いや、問題は大いにあるのだけれど。帰るまでに乾くかなぁ。
ぼくは借りた手拭いで手と顔を拭く。触り心地の良い手拭いだった。生成の地に、淡い桃色の蝶が描かれている。
「素敵な手拭いで……ぎゃあぁっ!? 目っ、目がああああ」
隣で大和さんも顔を洗っているなあと思いつつ横を見たぼくの目に飛び込んできたのは、流水で丁寧に洗われている眼球だった。正確には球ではない。しかし確かに眼球である。水滴を纏いながら灰色の虹彩がこちらを向いていた。
「あまりこっち見ない方がいいぞ」
「もう少し早めに言っておいてほしかったです」
左側にいる大和さんの顔は前髪に隠されていて見えない。もしも今彼の顔を覗き込んだら、きっとそこにはあるべきものが存在していない穴があるのだろう。
「いい手拭いだろ。情報と交換でコーカスレースから巻き上げたんだ。アイツら輸入品も抱えてるからな。これもそうだ」
こっちを見るなと言っておいて、こちらに見せてきたのは桜の模様が美しい手拭いだった。いずれもイーハトヴから輸入されたもののようだ。
灰色の瞳を磨き、太陽に翳す。また洗って磨いて、翳す。それを何度か繰り返し、ようやく満足したらしくうんうんと頷く。
「さっきのやつらについてはとりあえず保留にして、先に俺の話をしよう」
義眼を入れ直し、大和さんはぼくに向き直った。青い左目は少し目線を下げてぼくのことをしっかりと見ているけれど、灰色の右目はただただ真っ直ぐ真正面だけを見据えていた。前髪を下ろし、顔の右側を隠す。
俺の話。ジャバウォックもどきが来たことで途切れていた、伊織さんとお母さんが日本へ向かった日の話。
もう痛くはないと言いながらも、目を労わるように指先は右前髪に軽く添えられている。
「ある日、父さんが鏡を見付けてきた。母さんを元の世界に戻すため、その方法を探して東奔西走。何度も何度も翅をぼろぼろにしながらようやく見付けてきたものだった。かつて術者が作り出したとされる『不思議の鏡』、それは空間を繋ぐとかなんとか言われているらしい。笑っちまうだろ、術者だぜ? そんなもんいるのかよ。魔法だなんだってのは御伽話の世界のものだってのに」
術者が作った、空間を繋ぐ鏡。心当たりのありすぎる言葉だった。
「まあでも当時は俺もガキだった。そんなすごいものがあるのかって純粋に感動したさ。それに、母さんも『これに違いない』って。そもそも、なぜ彼女がこちらへやって来たかという話なんだが……。曰く、日本人の母さんは当時仕事で英国に行っていたんだ。英国っていうのがどこなのかはよく分からないが、故郷を離れて外国で仕事をしていたってことだな。そして、鏡を見付けた。汚ねえ倉庫だったか物置だったかで見付けて、落ちてる物に躓いて転んで、鏡に向かって倒れ込んだ。ぶつかって怪我をしてしまうと思ったが、気が付くと見知らぬ部屋にいた、と……」
そこまで話して大和さんはぼくから離れた。懐から煙管を取り出して一服する。いや、しようとした。どうやらマッチを擦っても擦っても火が点かないようだ。しばらくマッチと格闘してから、何事もなかったかのように戻ってくる。
座り直して話し始めるかと思ったけれど、口寂しいのか指が口元に当てられていた。触覚のように跳ねている髪が少し力なくうなだれているようにも見える。
「さっき川に突っ込んだ時に駄目にしちまったっぽい」
「煙管自体は大丈夫ですか?」
「あれは特注品で頑丈にできてるから問題ない。……仕方ないから我慢する」
「この機会に禁煙してみたらどうですか」
大和さんが煙草好きなのは分かっている。それでもやはり体にはよくないだろう。……少し意地悪なことを言ってしまっただろうか。
唇に添えられていた指が離される。
「俺に死ねと?」
「ごめんなさい」
「……母さんが辿り着いたのは」
いきなり続きを話し始めた。煙草を吸えない状況を誤魔化すために、意識を煙草から無理矢理遠ざけたようにも見える。手元では煙の昇っていない煙管が弄ばれている。
「ぼろぼろの部屋だった。壁は崩れ、天井には穴が空いていた。後ろを見ると鏡が壁にかけられていた。もしやと思い手を伸ばしてみるものの、それはただの鏡で、元の物置へ戻ることはできなかった。森の中を彷徨った母さんは夜中にチェスに追われ、そこで父さんに助けられる……」
そして二人は恋に落ちたんだ。と、大和さんはしみじみと語る。
鏡を通ってこちらへやって来たというお母さんの証言を元に、お父さんは鏡を探し回った。イギリスで見付けた鏡と同じものがこちらにあるかもしれない。そんな僅かな可能性を求め、そうして掴んだ。
双子の片割れと共に帰還することになった彼女は、弟の方の手を取った。
「雑草を喰い散らかしてた俺と調理済みのものを好んでいた伊織……。獣の特性が強く表れていたのは俺だった。だから母さんは一緒に連れて行く方に伊織を選んだんだ」
「雑草……食べるんですか……」
「……忘れろ。そしてあの日がやって来た。母さんと伊織が鏡を潜るのを俺は父さんと一緒に見送った。鏡を抜けて無事に英国もしくは日本に辿り着くかは定かじゃなかった。けれど、そこに賭けるしかなかった。追い掛けて潜れば俺もあちらへ行けるかもしれない、そう思った。でも、同じ場所に出るかどうか分からない。だから、もう会えないのだと父さんは言った」
弄んでいた煙管を懐にしまい、右前髪に触れる。髪の間に差し込まれた指先からかつんという音が聞こえた。おそらく、義眼を突いたのだ。
「二人が鏡に飛び込む直前、アレが現れた。木々をなぎ倒し、風を纏って。あの時はアレが何なのか分からなかったが、後で調べてジャバウォックという伝承の竜であることを知った」
「ジャバウォックが……!?」
「バンダースナッチやラース、そういったやつらを引き連れて襲い掛かって来た。思わず立ち止まって振り返った母さんに向かって、父さんは『逃げろ』と告げて背中を押した。俺に『一緒に行こう』と手を伸ばしてきた伊織のことを引っ張って、母さんは鏡の向こうへ踏み込んだ。嫌だ嫌だと、ヤマトも一緒にと、そうやって泣き叫んでいた伊織のことをよく覚えている。けど、間に合わなかった。二人が完全に潜り切る直前、俺と父さんの目の前で、鏡は砕け散ったんだ。悲鳴が……聞こえた気がした……」
ぼくは日常的に姿見を使って行き来をしている。アーサーさんの部屋にあるものが本来ぼくの世界に通じている『行きの姿見』で、ぼくの部屋にあるものがワンダーランド側へ戻るときに使う『帰りの手鏡』だ。二つは対になっている。元々は手鏡を持った状態で姿見を潜るとぼくの世界の鏡へ辿り着いて、手鏡に自分を映しながら飛び込むことで任意の鏡から姿見の元へ戻って来られる仕様である。
ところが、ぼくの見付けた手鏡は姿見に変わってしまってこちらへ持ってくることができなくなっている。姿見と姿見の間に道ができている状態だ。
では、河平さんがイギリスで見付けたものと、夫の蝶がワンダーランドで見付けたものは何なのだろう。姿見と手鏡は何対もあるということなのかな。貴重な品だと思うけれど、意外と数があるのかもしれない。詳細は今のところ分からないな。形がどちらも姿見だったということは確かだ。
大和さんは義眼から指を滑らせ、顔の右側に大きく走る傷痕を撫でた。
「砕け散った鏡の破片が鋭利な側面を光らせながら目の前に迫ってくるのが見えた。それが、俺の右目に最後に映った絵だった。俺の右側の世界はそうして闇に閉ざされた。二人が無事に移動できていますようにと、そう祈ることすらできなかったんだ。もう、痛みしか感じられなかった。化け物達に対する恐怖も、母と弟に対する祈りも、何もない。小さいガキだったのにぎゃあぎゃあ泣くこともできなくて、それでも汗と涙だけは止まらなくて、残された左側の世界もすぐに歪んで、俺は意識を手放した」
あの傷は鏡の破片によって負ったものだったようだ。仮に大人ならば小さな怪我で済む程度の破片であったとしても、幼い子供にとっては十分な大きさだったのだろうな。
「目を覚ましたのは自宅のベッドの上だった。顔に包帯が巻かれているのが分かった。同時に、俺にはもう右側の世界はないのだと悟った。そして、俺を守るようにぼろぼろの翅を広げて覆い被さっている父さんの姿を見た。『よかった、大和』と笑う父さんも包帯まみれで、白に赤が滲んでいた。どれだけ時間が経っていたのか分からなかったけれど、きっと父さんは眠らずに俺のことを見守っていたんだ。俺が気が付いたのを確認して、安心したように、微笑みながら倒れた。……これが、あの日のできごと。潜る途中で鏡が割れてしまったことで、伊織は何らかの影響を受けたに違いない。おそらくそれが記憶障害の原因だ。母さんは……母さんはどうしたんだろうな……」
伊織さんが寺園家に迎え入れられているということは、結果的に日本へ辿り着いたということだ。同時に、お母さんである河平さんが伊織さんと離れてしまったことを意味している。
その辺りは、伊織さんに訊くしかなさそうだな……。
大和さんは懐中時計を確認すると、ぼくのことをひょいと小脇に抱え込んだ。
「あわぁ」
「危ねぇ、公爵夫人にどやされちまう。めちゃくちゃ時間経ってるじゃねえか。今日のお話はここまで。ほら、さっさと戻るぞ」
やっぱりもう少し詳しい話を伊織さんと寺園さんにしてもらおう。そう考えながら、ぼくは蝶に運ばれて空を飛んだ。




