第十七面 手伝ってくれないか
七月になった。地元の高校で学校祭があるらしく、それを見てくると言って両親は出かけて行った。
暑いのは苦手なんだよね。汗とかかくと読んでた本がよれよれになっちゃうことあるし、本に興味なんてないようなやつらがエアコン目当てで図書館に来ることもあるからさ。
早く秋にならないかな、なんて思うけれど、夏は始まったばかりだ。蝉の鳴き声が暑さを増幅していく中を何とか乗り切らなければならない。
机の上に積まれたノートのコピーにちらっと目を遣る。姫野がご丁寧に届けてくれる。いらないって、こういうの。ぼくは学校行かないからね。一枚床に落ちているのを拾うと、読書感想文についてのプリントだった。
『課題図書:この夏に読みたいと思った本』
『四百字詰め原稿用紙三枚以上』
『余裕を持って今のうちに本を探しておこう』
『提出は夏休み明けの始業式』
とある。隅っこに手書きで『有主君、本好きだよね。これならできるんじゃないかな』と姫野からのメッセージがあった。できるんじゃないかなってどういうこと。別にぼくは勉強ができないわけじゃないんだから。優秀ではないけどさ。ずっと休んでるから舐められてるのかな……。
うーん、確かにこのままじゃ普通の中学生の平均レベルを下回ってもおかしくはない。いやいや、でも学校行きたくないし……。
姿見には困った顔をしたぼくが映っていた。
◇
時間の流れが全く同じワンダーランドも今は夏だった。森の木々は春と比べるとさらに青々と茂っていて、夜になったらチェスに遭うとかそういう状態になる前に木の影が不気味な形をしていて森には入りたくなくなりそうだ。
「うえー、暑いよぅ……」
テーブルに突っ伏しながらルルーさんが言う。ジャケットは羽織っていなくて、ブラウスも半袖だ。今日はベストも着ていない。女の人なんだからベストぐらい着てくださいよ。雨降ったら大変ですよ。スケスケになりますよ。
「はあぁ、どうしてこんなに暑いのに熱いお茶飲んでるんだろうね僕達」
うさ耳が元気なさげに下を向いている。
なぜ熱いお茶を飲んでいるのか。それはアーサーさんが熱いお茶を淹れたからだ。「アイスティーなんて邪道」などと言ってホットティーを淹れた。アイスティーだってれっきとしたお茶ですよ。
「帽子屋、毎年毎年こんな夏に熱いお茶飲むなんて間違ってる。冷たいお茶淹れてくれ」
「え? 聞こえません? 猫舌なんです?」
「オマエ本当いい加減にしろよ。ルルーなんて溶けそうだぞ。あと俺は猫舌だ、猫だからな」
「知りませんよ」
湯気の上るお茶を優雅に飲んでいる姿は何だかもう紅茶を極めている感じだ。いや、キメてるのか?
ニールさんはジャケットなしのベスト姿で腕まくりをしている。アーサーさんはベストありのジャケット姿だ。お茶だけでなくこの帽子屋さんは体感温度も他とは違うのだろうか。
「知らねえぞ、この炎天下でそんな格好して。また倒れても助けねえからな」
「えっ、倒れたことあるんですか」
「帽子があるから大丈夫です。って言いながらな。去年の夏だよ」
完全に熱中症じゃないか。
「アーサーさん、ぼくの世界ではそれで死んでしまう人だっているんです。夏の暑さを舐めちゃいけません。お兄さんを遺して死ぬなんて駄目ですよ」
「そうだよ。アーサー、死なないで……」
「帽子屋が死んだらさすがに悲しいな」
「なぜ死ぬ前提で話が進んでいるのです?」
はいはい、分かりましたよ。と言ってアーサーさんはジャケットを脱ぐ。
「これでいいですか?」
ジャケットを脱いだことで、いつもは隠れているベストのポケットが見えた。懐中時計の鎖が飛び出ている。そういえば、この前本屋さんで立ち読みした『かっこいいスーツ男子の描き方』の見本イラストはアーサーさんみたいな着こなしだったな。文芸書以外も立ち読みをすることはあるけれど、今度は『ファンタジー世界の描き方』を読んでみようかな。この世界に当てはまるものもあるかもしれない。
石畳を歩く靴音が聞こえる。
「帽子屋、チェシャ猫、三月ウサギ、ちょっといいか」
軍服姿のエドウィンだ。暑くないのかな。
「何です?」
「何だよ」
「なになにー?」
「聞きたいことがあってな。ん? ナオユキも来ていたのか」
エドウィンはこの世界で今のところ唯一のぼくを本名で呼ぶ人だ。誰の許可を得ることもなくエドウィンは置いてあったミニケーキを手に取って頬張る。
「ナザリオ・カヴァッリの行方を知らないか」
いつもみんなのこと通り名で呼ぶのに、どうしたんだろう。それに、行方?
「ナザリオがどうかしたのですか」
「あのヤマネに手配書が出ていてな」
「は? アイツ何かやらかしたのか」
エドウィンは手に着いたクリームを舐めとると、フランベルジュの柄に軽く手を載せながら深い溜息をついた。
「本来はオレの仕事じゃないんだが、オマエらの管理はオレの仕事だからな……」
「早く言え」
「……。寝惚けたまま来店して寝具屋から枕を盗んだらしい」
何だそれは。
みんなもきょとんとしている。
「店主が警察に通報してな……。眠り鼠はオマエの管轄だろうと、オレに回って来たんだ。さっき家を見て来たんだがいなくてな……」
「ご苦労様です」
「オマエの管理不行き届きってことにもできるんだぞ帽子屋」
「そのようなことになっては貴方が帽子屋をしっかり見ていないからだ、となりませんか?」
言い返されてエドウィンは渋い顔をする。対してアーサーさんは王宮騎士を倒してご機嫌な雰囲気だ。きっといつもこうやって言い負かしているんだろう。
「んぅ……。で、オマエ達は知らないんだな?」
「知りません」
「知ってたら言うだろ」
「知らなーい」
「ぼくももちろん知らないよ」
「そうか……。誰か一緒に探してくれないか」
誰も遊んでくれないの。という子供みたいな言い方だった。相当参っているみたいだ。
けれど三人は何も言わずにお茶を飲んでいる。ニールさんとルルーさんはさっきまで文句を言っていたのに、だ。
エドウィンは助けを求めるようにぼくを見る。ええー、ぼく?
「ナオユキ、手伝ってくれないか」
「えー」
「異世界人のオマエに無理はさせないからさ、付いてくるだけでいいから」
「それ何の意味があるの」
「エドウィンはさー、一人じゃ寂しいんでしょー?」
ルルーさんがにやにやしながら言う。エドウィンは少し恥ずかしそうに「なにおうっ!」と吠えた。図星なのか。
「だってまだお子様だもんねー」
「オレはもう大人だ! それで、ナオユキ、いいか?」
「ええー」
いいのかなあ。
「連れて行って構いませんよ」
「そうか、ありがとう帽子屋」
ただし、と言ってアーサーさんはエドウィンを見遣る。銀に近い水色の瞳が鋭く冷たくなる。
「アリス君は異世界人です。スートも番号もありません。その辺り気を付けるように。それと、異世界人である前に人間です。日が暮れる前にここまで送り届けること」
「ああ、日が暮れたらオレも危ないしな。分かった。よし、行くぞナオユキ」
何だかぼくの意見なんてどうでもいいみたいだ。この世界の人達にぼくの当たり前を押し付けるのはやっぱり間違いなんだと今改めて思った。
残っていたお茶を飲み干し、席を立つ。
「じゃあ、行ってきます」
帽子屋とチェシャ猫と三月ウサギがそろって手を振る。
クラブのジャックに連れられて、ぼくは猫と帽子屋の家を後にした。