第百七十六面 知らないままならよかったのに
大和さんはぼくの位置と風向きを確認してから紫煙をふうっと吐き出した。ぼくから離すように煙管を持ち直して近付いてくる。
「ここで話すと使用人の魚達に聞かれる可能性があるな」
「……えっ、うわ!?」
煙管を懐にしまうと、流れるような動きでぼくの腰に腕を回してきた。そのままひょいと小脇に抱えられる。
庭にいたマレクさんの部下達、すなわち魚の召使い数人がぎょっとした顔でこちらを見た。魚が揃ってぎょっとしているので少し不気味だし怖い。落葉の片付けをしていた一人が門のところまで駆けて来る。
「おいおいっ、芋虫。少年をどうするつもりだね」
「俺は美しい蝶だぜ。芋虫なんていうガキの頃は遥か昔……」
「その子は奥様の客人なのだぞ」
「ははは。俺が男の子を連れ去るとでも思うのか。ちゃんと連れて帰って来るって」
ひらりと蝶が飛び上がる。
「それじゃあまた後で」
ぼくが地面に下ろされたのは、五分程飛んだ先だった。岩陰の草地で、小川のせせらぎが微かに聞こえていた。落葉が人為的に敷き詰められている。
「獣道からは少し外れているし、この位置なら近くを誰かが通っても川の水音で会話ははっきりとは聞こえない。秘密のお話にはぴったりだろう?」
落葉を挟んで岩の反対側は低木が生えており、ぐるりと囲まれる形になっている。身を隠すことにも使えそうだ。話しぶりから考えると大和さんはここをよく使っているようだし、うろうろした後ここで休むこともあるんだろうな。
座るように促され、ぼくは小さな岩に腰を下ろす。落葉の上に置かれているから、どこかから椅子代わりに持ってきたものだろう。
視界の隅で何かが光った。
足元に落ちていたものを拾い上げる。ピンク色の宝石があしらわれたイヤリングだ。
「大和さん、何か落ちて……」
「おわああぁ!?」
ものすごい速さで突進してきた蝶がぼくの手からイヤリングを奪い取って行った。
「お、おおう……。こんな所に落ちていやがったのか……。今夜にでも届けてやろう……」
「前に誰かとここに?」
「子供は知らなくていいんだよ」
イヤリングを懐にしまうと、大和さんはわざとらしく咳ばらいをした。
「……伊織に何かあったのか」
「『人殺し』と言われた件について、追撃を受けて体調を崩しているらしいです」
「それか。その話が本当ならばアイツはそちらの世界においてしかるべき罰を受けるべきだと思う。けどよ、俺はアイツを信じてやりたい。その話を伊織に振ったやつから詳しいことは訊けねえのか」
「知らなくていいと言われています。教えてはくれないかと……。あっ、でも、妹……。伊織さんには妹さんがいるんですけど、彼女が言うには本人が自分のことを『化け物』だと言っていたとか。もしかしたら、伊織さんは何か思い出したのかもしれません」
寺園さんの存在を聞いて、大和さんは少し驚いたようだった。ぼくの言葉に返答せずに、ただただじっとこちらを見ている。切れ長とぱっちりのいいとこどりをした目元はいつもより大きく開かれていて、長い睫毛が微かに震えていた。
小川のせせらぎが聞こえている。風に揺らいでいた触角めいた髪がぴょこんと跳ね動いた。
「妹がいるのか……」
「それに関連して伝えたいことがあるんです。妹さんは伊織さんが本当の兄ではないことを知っています。だから、きっと、伊織さん自身も自分が今の家の人間ではないことは知っているかと」
「……そうだとしても。そうだとしても、だ。今のアイツはきっと幸せな暮らしをしているんだろうな。俺は妹ちゃんから兄貴を奪うことはできねえや。もう俺のことは訊かなくていいよ。『人殺し』『化け物』、その詳細が分かれば俺は手を引こう。君にお遣いを頼むのもそれで最後にしよう」
「えっ」
離れ離れになってしまった弟に対してあれほどまでに熱心だったのに、妹の話をした途端あっさりと引きさがるようなことを言い始めた。大和さんのことも、伊織さんのことも、寺園さんのこともぼくは見ている。どうすればみんなが良い結果に辿り着くのだろうと考えながらも、大和さんに言われる通りに足を踏み込んでここまで来たのだ。
今になってやっぱりもういいやなどと言われてしまっては、ぼくはなんだか宙ぶらりんになっちゃうぞ……。
「いいんですか」
「いいんだ。幼気な女の子から兄貴を奪っちまったら俺は悪役になってしまう。そうしたら俺は弟にも悪役だと認識されてしまう」
「でも、妹さんは伊織さんを本当の家族に会わせてあげたいって」
「そうか」
「……いいんですか、もう」
青い瞳がぼくを見つめる。
「……いいわけねえだろ。いいわけねえだろ! でも、分かんねえんだ。俺は、俺は弟をどうしたいんだ。知りたい、会いたい、でも今の生活を壊すようなことはしたくない。こちらへ連れ戻すべきなのか、あちらに置いておくべきなのか。アイツは人間として暮らしているんだ。獣だと自覚させる必要はあるのか? いっそのことチェシャ猫さん並みに弟に執着してりゃあ意地でもこっちに連れてきて愛でるけどよ、俺には生憎そういう趣味はないんだよな」
いっそのこと、無事であると知らないままならよかったのに。そう呟いて、大和さんは溜息を吐いた。
ぼくと寺園さんの考えは「二人を再会させたい」で一応一致している。けれど、そこには立ち塞がる大きな問題があった。まず、暮らしている場所が鏡で遮断されている。そして、人間ではないことを伝えることになる。ワンダーランドのことに関してはぼくがどうするかが問題だろう。では、もう一つは? 「異世界人でした。そもそも人間ではないです」と伝えることに対して大和さんは消極的だ。怖いと思われてしまうかもしれないことが怖いのだろうな。
やっぱり、もう少し伊織さんに……そして寺園さんに話をすべきか。
大和さんは右前髪を指先でいじっていた。ちらりと見えた頬に傷痕が走っている。
「あの」
「ん?」
「伊織さんとお母さんが日本へ向かった日、何かがあったんですよね。そのことが原因で、伊織さんは記憶を失い、大和さんは傷を負った。……何があったんですか、一体」
「……あの日は」
そこまで言って、大和さんは口を閉じた。触覚みたいに跳ねている髪がぴんっと揺れ、それを合図に岩から立ち上がる。
「なんだこの気配」
「何か……?」
何か感じるんですか、そう訊ねようとした。けれど、ぼくが言い切る前に周囲に異変が起こった。木々が大きく揺れ動き、川原の小石が吹き飛ばされているのも見えた。安全安心に感じられた大岩もほんの少し震えている。
嫌な予感がした。
強い風と不穏な気配。微かに聞こえてくるのは唸り声である。近付いて来た大和さんの羽織の裾を思わず掴む。
「ぎゃんっ」
黒い何かが飛んできて、ぼく達の目の前に落ちる。赤を纏った黒。先程聞こえたのはこれの叫び声で、そして、これがぼろぼろのバンダースナッチであると気が付いたのはその数秒後だった。直後にもう一人、今度は翼を背負ったぼろぼろのドミノが飛んで来た。
「バンダースナッチと……こっちはボロゴーヴか……」
ボロゴーヴ。このワンダーランドで目にするのは初めてだった。バンダースナッチやラースと同様に、『ジャバウォックの詩』で語られる不可思議な鳥である。もじゃもじゃで、ごわごわの鳥。
落葉に染み込んでいく赤に、ぼくは後退る。
次から次へとバンダースナッチとボロゴーヴが飛んで来た。向こう側に何かがいて、それがドミノ達を蹴散らしているのだ。何がいるのかなんて考える必要はない。それはきっとアレに違いない。
逃げなきゃ……。
「大和さん、逃げましょう。……大和さん?」
袂を引っ張るが、大和さんは動かない。
「ヤマ……」
「……っ、う……うぅっ……!」
崩れ落ちるように蹲り、右目を押さえる。
「大和さんっ……大和さん!」
「う……ぐ……。い、痛っ……」
そこにもう眼球はないのに、抉られるように痛いのだと大和さんは言う。
アレが迫ってきているのに、蝶は動けない。
走って逃げ出してしまえばおそらくぼくは助かるだろう。けれど、大和さんを置いて行くことはできない。ひらりと攻撃を躱すことも、空に飛び上がることも、今の状態ではおそらく無理だ。
木々がなぎ倒され、黒い巨体が姿を現す。こんなに短期間で再会するとは思わなかった。
「ジャバ……」
「ギャアアァス」
ジャバウォック……おそらく、もどき。鋭い爪を備えた手には千切れて赤くなった何かを持っていた。口の端からそれのもう半分の破片と思われる物が牙に引っ掛かって垂れさがっている。
「ア……アリス……。アリスぅ……!」
大きな目がぼくのことを捉えた。肉片を下げたままの口がにやりと笑う。
ただただ怖かった。悲鳴を上げることすらできない。直視したくないのに、顔も、首も、目も動かせない。眼前の恐怖の塊に硬直することしかできなかった。
右目を押さえながら大和さんが立ち上がる。どうやらガラス玉が入っている眼孔から血が滴っているらしい。そして痛みを堪えるように、それでいて好戦的に、彼は笑って見せた。
「ははっ……! やっこさん随分惨たらしい物くっ付けて来たじゃねえか。さすがにお兄さんもびっくりだわ……!!」