第百七十五面 尊敬してたのに
寺園さんはパンケーキを突いている。クリームと苺のソースが添えられたかわいらしいパンケーキだ。御伽話をメニューの名前に冠するこの店において、これは『赤ずきんのお遣いコース』という名を与えられている。赤いソースを頭巾の軌跡に見立てているのだろう。
注文したスイーツが届いても、まだ話すタイミングを窺っているらしい。店に来てからどれくらい経っただろうか。
ぼくは『ヘンゼルとグレーテルのチョコレートケーキ』にフォークを差し込む。
「ぼくに話したいことがあるんだよね?」
「……学校祭の後からお兄ちゃんの様子がおかしいんですけど、あの日お兄ちゃんを見て何か気になったところはありませんでしたか。神山先輩に会ったと言っていたので」
学校祭の時の伊織さんと言ったら、鬼丸先輩と意味深な会話をしていた場面が思い出される。兄が人殺しだなんて言われたということを話してしまっていいのかな。けれど、寺園さんは詳しいことが知りたいはずだ。
ケーキの頭に飾られているチョコレートをお皿に下ろすぼくのことを、寺園さんはじっと見ていた。ものすごく視線を感じる。
「鬼丸先輩と話をしていたよ」
先輩の名前を聞いて寺園さんは手を止めた。
「何の……話を……」
「ものすごく言いづらいんだけど」
「構いません。教えてください」
そんなに怖い顔で見ないでくれ。
小さな後輩からの威圧感に押されながら、ぼくはフォークを置いた。姿勢を正して、寺園さんのことを見つめ返す。
「先輩は、伊織さんのことを人殺しだって言ってた。でも、伊織さんはそれが何の事だか分からないって。忘れるわけがないって先輩は言っていたから、それだけ先輩には強烈なことだったんだと思うけど」
「ひ、人……? 人を……お兄ちゃんが……?」
あぁ、やっぱり驚くよね……。
寺園さんは目を丸くして、驚きと悲しみと怒りが混ざり合ったかのような複雑な表情をしていた。端的に表現すれば困惑、混乱といった言葉がぴったりだろう。
「鬼丸先輩は、そのことの詳細を訊ねに来たんでしょうか」
「後日また、って言っていたからたぶん……」
「先輩はどうしてお兄ちゃんにそんなことを。覚えていないことを問い質して、追い詰めて、お兄ちゃんをあんなにして……。わたし、先輩のこと優しくて素敵な人だなって尊敬してたのに。どうして……」
先輩と伊織さんの事情はぼくには分からない。寺園さんも分からないことならば、当人達しか知りえないのだろう。
ぼくはフォークを手に取る。
「ぼくに訊きたいのはそれだけかな。それだけって言って片付けられるレベルのことじゃないけど」
「……先輩。神山先輩は、わたしのお兄ちゃんのことをどう思いますか?」
口の端っこに生クリームを付けた寺園さんが問う。
ぼくは寺園兄妹に血の繋がりがないことを知っている。彼女は、寺園つぐみはそれを知っているのだろうか。そもそも、伊織さんはどうなのだろう。ワンダーランドを離れた後、河平さんとその息子がどのような道を辿ったのか。息子はどうして別の家の子として暮らしているのか。母親はどこへ行ったのか。
兄をどう思うかと問うてきた妹に、ぼくは何と言って答えるべきなのか。木こりの兄妹が森に落としてきた小石のように散らされたアラザンをフォークの先で突く。
「先輩は、お兄ちゃんに別の人を重ねてませんか?」
「えっ」
「時々、そう見えるから……。お兄ちゃんに似ている知り合いがいるんですか?」
鋭く刺された気分だ。大和さんに似ているなあと考えながら見ていたことを感じ取られていたのか。
寺園さんはパンケーキをひとかけ口に入れて、もぐもぐとしながらぼくの出方を窺っている。ぼくが答えあぐねていると、彼女は意を決したように小さく息を吐いた。
「先輩、驚かないで聞いてください」
「何……?」
「お兄ちゃんは養子なんです。わたしとは、本当の兄妹じゃありません」
知っているんだ、彼女は。そのことを。……寺園さんが知っているということは、伊織さん自身も知っているのだろう。
お皿に添えたフォークに軽く指先を滑らせて、寺園さんは不思議そうな顔をした。
「あれ……。先輩、本当に驚かないんですね……。少しくらいはびっくりするかと思ったんですけど」
「えっ……えっと。びっくり仰天して声も出なかったんだよ」
「そうですか」
大和さんから教えられていたから知っていたけれど、既知であったと悟られないようにしなければ。寺園さんからすれば勇気を振り絞って告げた事実なのだ。「知ってたよ」なんて反応をしてはいけない。
ぼくはチョコレートをひとかけ口に含む。
「お兄ちゃんの元の家族のことが全然分からないんです。その、ちょっと色々事情があって……。それで、わたしは元の家族のことを見付けてあげたいなと思っているんです。わたしのエゴかもしれないし、元の家族はお兄ちゃんに会いたくないかもしれないし、お兄ちゃんもどう思っているのか分からないし……。でも、それでも、会わせてあげたくて。先輩が、もしもお兄ちゃんに似た人を見たことがあるのなら、それは家族なんじゃないかなって……」
大和さんのことを教えてしまっていいのだろうか。けれど、そうするとワンダーランドのことも話すことになってしまう。鏡の向こうに別の世界があるだなんて言って、寺園さんは信じてくれるかな。いいや、寺園さんがどう思うかではない。伊織さんに「あなたは人間ではない」と告げるのがぼくは怖いのだ。
それでもお兄ちゃんだから。と寺園さんは言ってくれるかもしれない。でも、伊織さんは……。先輩が言っていた「人殺し」ということだってよく分かっていないのに、そこに「人間ではない」という追い打ちを入れてしまっていいのか。
寺園さんはお冷を一口飲む。グラスに付いた水滴が指を伝う。
「ぼくは……。ぼくは、伊織さんのことは伊織さんだと思っているよ。別の人を重ねてなんか……」
「じゃあ、お兄ちゃんに似た知り合いも」
「うん、いないよ。ごめんね、期待させちゃって。そういう風に見えていたんだったら申し訳ない」
「……そう」
「あっ、あぁ、でもね」
落ち込みからか俯いてしまった寺園さんが、ぼくの声に顔を上げた。自分がなぜ「でもね」と言葉を繋げたのか分からなかった。大事な後輩が残念そうにしているのをかわいそうだと思ったのかもしれない。大和さんと伊織さんが再会できたらいいなという思いが彼女の持っているものと似ていると感じたからなのかもしれない。
「知り合いではないんだけど、見たことがある気がするんだ。伊織さんに似た雰囲気の人を。定かじゃないけど……」
「えっ……」
「どこの誰かは分からないんだ。でも、もしも、また見かけることがあったら声をかけてみようと思うよ」
「あ、ありがとうございます、神山先輩っ!」
あぁ、期待させてしまった。
どうしよう。
どうすればいいんだろう。
◇
「よう人間。こんな所へ何の用だい?」
馬鹿でかいキノコの上に腰かけた蝶がぼくを見下ろしてそう言った。
「そちらは公爵夫人様じゃないか。珍しいな」
「アリス君は彼に用があるのでしょう? 終わったら声をかけてちょうだい。使用人の誰でもいいわ。ほら、そこにも魚がいるでしょう。じゃあ私は主人の所へ行ってくるわね」
ピーターを抱き直して、公爵夫人は門を潜って行った。「後でな、小僧」と言ってラミロさんは夫人の後に付いて行く。
寺園さんと別れて家に帰ったぼくはいつものようにワンダーランドへやって来た。ニールさんともつれあっていた夫人が珍しく本邸へ向かう途中なのだと聞いて、ぼくも同行することにしたのだ。森から森へとふらふら飛んでいく風来坊の芋虫が今現在どこにいるのかは分からないけれど、ブリッジ公爵家のお屋敷の前に生えている馬鹿でかいキノコの上にいる姿がよく目撃されている。ぼくが彼と初めて会ったのもここだった。
大和さんは煙管を燻らせている。
「あ、あのぅ……」
「なんだいアレクシス君。いや……」
煙管を手にして紫煙を纏ったまま、蝶はひらりと舞い下りた。
「有主君。お兄さんに用事ってことは、つまりはそういうことだろう」
「……はい、伊織さんについて」
青く煌めく翅に紫煙が纏わりついて揺れている。秘密の会話を周囲から消し去るかのように、森の木々がざわざわと音を立てていた。