第百七十三面 臆病だから
アリスが来たよ。
アリス、アリス、会いたかったよアリス。
回れ回れ、歪な歯車。
迷え迷え、時の中で。
踊れ踊れ、繋がれたまま。
歌え歌え、古の詩。
くるくるくるり、きらきらら。
歌は聞こえる? 歌は届いた?
アリスは来たのに、キミがいない。
キミは今どこにいますか。
声が聞こえない。
歌が聞こえない。
どこにいるの、レイシー。
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「ランスロットが、チェス……?」
ニールさんは手の傷を舐めながら頷く。
「確証はねえよ。けどよ、そうかもしれねえな、って……うおっ!?」
舐め続けていた腕をルルーさんに引っ張られ、言葉が途切れる。いつの間にか持って来たらしく、ルルーさんは救急箱をテーブルの上に載せていた。
「僕もその話は興味あるししっかり解説してほしいけど、そんなにべろべろ舐めながら話されてもそっちが気になっちゃうから駄目」
「なんだよ、手当てしてくれるのか優しいな」
「あぁっ、駄目。そのいい顔でそんな言葉吐かないで! 顔面が凶器! 好きになっちゃうだろ!」
「理不尽」
二人のことをちらちら見ながら、ナザリオが絨毯からソファへ這い上がって来た。ぼくの隣に腰を下ろす。
ランスロットはチェスかもしれない。その仮定はぼくも既に導いていたものだ。けれど、人から言われるとやはり驚きというものはある。
ルルーさんに包帯を巻かれつつも、ニールさんは深刻そうな雰囲気をどうにか醸し出している。
「この話は誰にも言わねえつもりだった。言ってはいけないと、そう思っていた。いや、今でも思ってる。オマエらに話していいのか、今この瞬間も思ってる」
軽く伏せられた目は空っぽになったティーカップを静かに見つめていた。
「……いや、やっぱり駄目だ。この話をするわけにはいかねえよ。するなら、帽子屋もいる時の方がいい」
「えー、じらされたら寝ちゃう……」
「悪い、本当に、大事な話だから……」
ルルーさんが手にした包帯をきつく巻きあげた。ニールさんのことを自分の方に引き寄せて、ぐっと顔を近付ける。
「お母さんが関わってくる話?」
「なっ、なんで、そんな? 何の話かは言わねえよ。予告とかしないから」
今のルルーさん、すごく冷たい顔をしていた。クロックフォード夫人に対して彼女が負の感情を抱いていることは以前のやり取りで分かっている。存命なのか亡くなっているのかぼくは知らないけれど、ルルーさんは友人の母親に対して死を望んでいた。
いつもの朗らかさを消した質問に対して一瞬狼狽えた様子を見せていたニールさん。その反応は肯定と捉えていいのだろうか。ところでランスロットの話をしていたはずなのに、どうしてニールさんとアーサーさんのお母さんの話題が出てくるんだろう?
ニールさんは綺麗に包帯が巻かれた手を口元に添えてわざとらしい咳払いをする。
「とにかく、そのランスロットって餓鬼は危険な感じしかしねえんだよ。前に助けてもらったとか、そんなの関係ねえから。もう近付くな」
「ん、それはおれも同意。あの子怖いもん」
「曖昧な説明でそんなこと言われても……。ランスロットがチェスかもしれないことと、アーサーさんが王様ってことが繋がってるんですよね?」
眼前のチェシャ猫は答えない。あっちかそっちか、何か言ってくれればいいのに。
猫耳がぴくりと動き、尻尾が大きく一回しなる。それが離脱の合図だったらしく、ニールさんは席を立って廊下の方へ歩いて行ってしまった。
「帽子屋にしか俺は止められない。オマエらの安全を確保しつつ話をするにはアイツが必要だ」
そう言い残して、リビングを出て行く。
それはつまり、その話をすると件の呪いが発動して大暴れしてしまう可能性があるということだ。怪我はしたくないので今は待つしかないか。でも、ナザリオが言っていた通りじらされると眠れなくなりそう……。
ニールさんが退室してから十数分後、エドウィンが訪ねて来た。ぼくの隣に腰を下ろし、ルルーさんが用意した緑茶を啜って一息つく。
「帽子屋の様子を見て来た。特に問題はなさそうだが、このことが他に気が付かれるとオレの立場も非常に危うい。もちろんブリッジ公もだが……。なんというか、よくもこんなことをやってくれたな」
「でもさあ、実際に警察は来たわけだし、ジャバウォックもどきまで出ちゃったんだよ? 身を隠しておいた方がいいって。アーサーのためだって言ってニールが聞かないしさ」
「帽子屋がいない。どこへ行ったんだ。オマエの管理不行き届きだ。と言われるオレのことも少しは考えてくれ。今日も……いや、なんでもない……」
エドウィンは無意識的に脇腹に当てていた手を離してクッキーを掴む。お皿に手を伸ばした時にぼくと目が合ったけれど、無表情を保ったままの目はほんの少し気まずそうに逸らされた。今日も、先輩や同僚に手を上げられたのだ。否、足だろうか。
ルルーさんも気が付いたらしく、少し心配そうにエドウィンを見た。ナザリオは絨毯に転がって寝息を立てている。
「チェスに襲われる危険性を考えれば、街にいるという選択肢は間違っていないだろう。死なれた方が困る。それこそ管理不行き届きだからな」
茶などいらん。菓子もいらん。仕事中だから。という文句を言わずにクッキーをもぐもぐと食べているところを見ると、今日は忙しくないのだろうか。
「警察の目から逃れる必要はもうほとんどないだろう。昨日、ジャバウォックもどきの出現直後に不審な帽子の男が現れたそうだな。捜査はそちらの人物を中心に据える形に移行し始めている。よく似ているが、これは別人だからな」
エドウィンは提げていたポーチから折り畳まれた紙を取り出した。テーブルに広げられたそれは似顔絵である。父が見ている刑事ドラマで似たシーンを見たことがある。
そこに描かれているのは、ど派手なシルクハットを被った男だった。見た感じの年齢は二十代か三十代くらいだろうか。いずれにせよ若い男である。ツリ目がちな印象で、そんな目の下にサーカスのピエロのようなメイクが施されていた。少し長めの髪は肩の辺りで一つに束ねられている。何よりも目を引くのは帽子の装飾で、大きな羽根飾りと爬虫類めいた髑髏が並ぶ趣味の悪いものだ。
「昨日居合わせた警察官と、対峙したチェシャ猫の証言によって描かれたヤツの絵だ。帽子屋のことを知る者は遠目にこれを見ればアイツのことだと思うだろう。しかし、近くで見るとこうも違う。ようやく、ジャバウォックと深い関係にある可能性のある不審な帽子の男に一歩近付いたというわけだ」
「確かにアーサーじゃないね、これは。こんなにはっきり顔が分かってたらどこの誰か分かるんじゃないの?」
「今それを調べているそうだ。オレの仕事ではないから詳細はまだ知らないがな。ところでオマエの兄……ヘイヤも現れたと聞いたのだが」
ルルーさんのうさ耳がぴょんこと揺れた。
「うーん。来たには来たけど、すぐ帰っちゃったから話はできなかったよ。でも、ジャバウォックもどきのことを追っていたっぽいけどね」
「ふむ……。やはり、チェスとジャバウォックには何らかの関係があるのだろうか。ヘイヤ自身とチェスの関係も未だにはっきりとはしていないが……」
「そ、それは……そうだね……」
エドウィンは不審な男の似顔絵をポーチにしまう。
チェスと関係のあるクロヴィスさんがジャバウォックもどきを追い駆けていた。ジャバウォックもどきが現れる際、不審な帽子の男が一緒にいることがある。連想ゲームのように繋いでいくと、チェスと不審な帽子の男との関連も考えて行けそうだ。
そこまで思考したところで、ぼくの頭に浮かんだものは『鏡の国のアリス』に登場するハッタという人物である。ハッタ、すなわち帽子屋で、『不思議の国のアリス』の帽子屋と同一人物であるとされる白きチェスの伝令だ。三月ウサギとヘイヤが別人として存在しているならば、帽子屋とハッタも別人の可能性は大いにあった。不審な帽子の男と呼ぶのも長くて大変だから、ぼくの中では彼のことを仮称ハッタということにしよう。
「少しゆっくりしてくるといい、とファリーネ殿下から仰せ付かったのでしばし休んでいくぞ」
王女様から「休め」と命令されるほどせわしなく働いているのかな。
「最近あまり殿下のお傍に就いていられなくて、ご心配をおかけしている気がしてならない。本来の仕事は殿下の護衛とオマエ達の管理だ。しかし、団長から任された調査も全然進まなくて……。チェスのこと、ジャバウォックのこと、ヘイヤのこと……。イーハトヴのように機械と共に仕事をできれば楽なのかもしれないが、オレが機械を従えようものならば『花札だ』という声が大きくなるだけだろうしな」
珍しく饒舌に、それでいて普段通りに淡々と語ってから湯呑に口を付ける。
エドウィンに仕事を任せているのは信頼の顕れではない。周囲に羨望され暴行されるのを分かっていて、任務を与えているのだ。以前アーサーさんが冗談めかして告げたことが本当だったらどうしよう。
湯呑をテーブルに置き、小さく欠伸をする。
「眠れてないの?」
「オマエはよく人のことを見ているんだな」
「臆病だから相手の動きを警戒しているだけだよ」
「……オレよりもクラウスの心配をしてやってくれ。今年度の配置換えで正式に配属先が決まったのだが、どうにも仕事に慣れないようでな。毎日くたびれて落ち込んで『おれはへっぽこなんだ』と……」
ワンダーランドでは九月から新年度が始まって約二ヶ月。その間中ずっと気分がへこんでいては、体にも心にもかなり影響がありそうだ。学校祭の前に森へ来た時にはお菓子屋さんの話をしていて楽しそうだったけれど、あれは空元気だったのかな。
大丈夫かなあ、とナザリオが呟いた。いつの間にやら起きていたらしい。
へっぽこなんだよね~、えへへ……。と笑うクラウスを何度か見ている。落ち込んでいるということは、今はもうその笑顔で誤魔化す元気すらないということだ。
「出来のいい後輩に追い越されるのも時間の問題だと語る騎士や王宮の使用人も少なくない。あの、ほら、オマエ達も知っているライオネル・アニスがまた同じ部署にいるんだ。アイツは仕事が早く、先輩達からもよく褒められている。運動能力も申し分ないしな」
エドウィンはカップケーキに伸ばしかけた手を引っ込めて、クッキーをつまむ。
「そういえば、アニスがまた負傷していたとクラウスが言っていたな……」
「地下鉄の事件の時に怪我したって話は聞いてたけど、ライオネルはよく怪我をしているの?」
「非番の次の日は負傷していることが多いな。プライベートにまで口は出せないから周りは『大丈夫か』と声をかける程度で詮索はしていないそうだが、どこで何をしているのやら。その代わりにクラウスの仕事が増えるから、なるべく怪我などはしないでほしいんだがな」
無表情の奥に弟を気に掛ける優しい兄の顔を隠しながら、エドウィンは湯呑を傾けた。




